世界に指名手配された男
雨は、夜明け前から街に降り続いていた。
黒い石板屋根を伝った雫が地面に落ち、石畳の隙間には泥水が溜まっている。商人たちは不機嫌そうに店を開き、荷馬車は濡れた道をゆっくりと進んでいた。市場の入口では、雨宿りをする衛兵たちが軒下に身を寄せている。
そんな人々の間を、一人の黒衣の少年が歩いていた。
シラス・ナハト。
十七歳。
少し乱れた黒髪に、感情を読み取りにくい赤い瞳。旅の汚れが染みついた黒い外套は肩の辺りが雨に濡れ、腰には一本の剣が収められていた。
ここ二日ほど、まともに眠れていない。
食事も十分には取れていなかった。
だが、今の彼にとって、それらは大した問題ではなかった。
シラスは掲示板の前で足を止めた。
一番目立つ場所に、一枚の手配書が貼られている。
その下には、見覚えのある顔が描かれていた。
黒い髪。赤い瞳。冷めたような表情。
そして、その下に記された名前。
シラス・ナハト。
彼は数秒間、自分の似顔絵を眺めた。
「へえ。少なくとも、絵師の腕は悪くないな」
小さく呟いたが、笑う気にはなれなかった。
手配書には、彼を捕らえて当局に引き渡した者へ支払われる高額な報奨金が記されていた。
その金額なら、普段は賞金稼ぎなどしない人間でさえ、欲に目がくらむかもしれない。
シラスは視線を下へ移した。
そこには、彼が犯したとされる罪が並べられていた。
辺境集落における大量殺人。
住民全員の死亡。男も、女も、子供も例外ではない。
家屋や財産の破壊。
無差別な暴力行為。
そして、これらすべての責任を負うべき人物として、シラス・ナハトの名が記されていた。
彼は最後まで文章を読み切った。
表情は変わらなかった。
手配書を見るのは、これが初めてではない。
最初に出回ったものなど、誤字や事実と異なる記述だらけで、まるで別人について書かれた報告書のようだった。
だが、今回の文書は違った。
細部まで慎重に書かれている。
慎重すぎるほどに。
シラスは手配書に添付された事件報告書へ目を向けた。
そこには、捜査で回収された証拠品が列挙されていた。目撃者の証言、現場に残された物品、そして犯人とシラスを結びつけるとされる品々。
そのまま立ち去ろうとした彼の目が、一つの記述に留まった。
集落の跡地から、剣が一本回収されたという。
報告書によれば、それはシラス・ナハトの所有物であり、事件に使用された凶器として特定されたらしい。
シラスは、その一文を読み直した。
もう一度。
そして、三度目。
視線を落とし、剣の特徴について書かれた部分を確認する。
挿絵がなくとも、何の剣なのかは分かった。
自分の剣だ。
少なくとも、報告書にはそう記されている。
その瞬間、市場の喧騒が遠のいた。
雨が天幕を叩く音も、商人たちの呼び声も、荷車の車輪が石畳を軋ませる音も、すべてが意識の外へ押しやられていく。
シラスは、あの剣をよく覚えていた。
柄の重みも、鞘に刻まれた傷も、長年使い続けた革の色も。
そして何より、集落を離れる前に、あの剣をすでに手放していたことを。
彼は、自分の意思で誰かに剣を託したのだ。
紛失したわけではない。
逃げる途中で落としたわけでもない。
確かな理由があって、自分の手で渡した。
だからこそ、報告書に記された内容を見た瞬間、シラスには理解できた。
この剣は、報告書が説明する状況では、あの集落に存在しているはずがない。
それなのに、当局はそれを彼の罪を裏付ける証拠として扱っていた。
シラスは、ゆっくりと目を閉じた。
「……都合がいい話だな」
低く呟く。
報告書を書いた人間が誰なのか、彼には分からない。
情報がどこから来たのかも知らない。
意図的な嘘なのか、単なる間違いなのか、それとも自分が知らない何かがあったのか。
今の彼には判断できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
誰かが、自分の知る出来事とは食い違う話を世間に広めている。
そして、その話によって、自分は罪のない人々まで手にかけた殺人犯として扱われているのだ。
そのとき、シラスの脳裏に、あの夜の光景が蘇った。
雨の音が、いつの間にか燃え盛る木材の爆ぜる音へと変わる。
喉を焼くような煙の臭い。
夜空を赤く染める炎。
屋根が崩れ落ち、火の粉が暗闇へ舞い上がっていく。
シラスが集落に到着したのは、まだ日が沈んだばかりの頃だった。
そのときは、いくつもの窓に明かりが灯っていた。
水を一杯くれた老婆の顔を覚えている。
腰に差した剣を珍しそうに眺め、少しの間だけ後ろをついてきた子供の姿も。
柵を修理していた男が、日没後は北の道を通らないほうがいいと忠告してくれたことも。
どれも、旅の途中なら忘れてしまってもおかしくない些細な出来事だった。
だが、今では忘れられない。
あの夜、シラスは燃え上がる家々の間を走っていた。
煙で息が詰まり、目を開けていることさえ難しかった。
どこかで悲鳴が聞こえた。
狭い路地を駆け抜けた先で、開け放たれた扉の向こうに、小さな人影が倒れているのを見た。
立ち止まることはできなかった。
まだ誰かを助けられるかもしれない。
あのときは、そう信じていた。
けれど、間に合わなかった。
助けを求める声が途絶え、炎だけが残った。
シラスは、無意識のうちに手のひらを強く握り締めていた。
指先に痛みが走る。
それ以上、記憶を辿るのをやめた。
今ここで、あの夜のことを思い返しても何も変わらない。
自分の剣を誰かに託したことも、あの集落で何が起きたのかも、すべて覚えている。
それなのに、報告書はまるで別の出来事を記録していた。
シラスは目を開けた。
雨は相変わらず降り続いている。
手配書に書かれた罪状は、たった数行だった。
だが、あの夜に起きたことは、そんな言葉だけで片づけられるものではない。
そして、自分の剣が証拠として扱われている以上、誰かが間違った情報を掴んでいるか、あるいは何かを隠している可能性がある。
手配書を引き剥がすことはできる。
捜査責任者を探し出し、説明を求めることもできるかもしれない。
いっそのこと、当局へ出頭して、自分の知っていることをすべて話すという手もある。
だが、シラスはどれも選ばなかった。
手配書を破いたところで、すでに出回った写しは消えない。
責任者の名前すら分からないまま動けば、余計な危険を招くだけだ。
そして、こんな報告書を疑いもなく受け入れた相手に、自分から身柄を差し出すつもりもなかった。
無実を証明するだけの証拠はない。
あるのは、自分の記憶と、報告書の中に存在する一つの矛盾だけだ。
それを信じてくれる人間がいるとは思えなかった。
「……面倒なことになったな」
シラスは掲示板から離れ、人混みの中へ紛れ込んだ。
まずは、この街を出る。
追っ手の目を逃れられれば、休息を取り、情報を集める時間くらいは作れるだろう。
立派な計画とは言えない。
だが、今の彼にできるのは、それくらいだった。
細い通りを横切り、道具屋の前を通り過ぎる。
やがて、パン屋の軒先で足を止めた。
ここからなら、市場の出口の一つを確認できる。人目にもつきにくい。
シラスは窓ガラスに映る景色を利用し、周囲をさりげなく観察した。
すると、果物を売る屋台の前にいた男が、店主との会話をやめていることに気づいた。
男は商品を見ていなかった。
こちらを見ていた。
シラスはわずかに顎を引き、何事もないように店先のパンへ視線を向けた。
窓に映る男の姿を確認する。
まだ、こちらを見ている。
単に服装が気になっただけかもしれない。
腰の剣に目を留めた可能性もある。
あるいは、少し前に手配書を読んだのかもしれない。
断定するには早かった。
だが、嫌な予感がした。
男が屋台を離れ、こちらへ歩き始める。
シラスは小さく息を吐いた。
「……やっぱりか」
男が何を考えているのか、確かめる必要はない。
シラスはパン屋の軒先を離れ、横道へ入った。
最初は普通の速度で歩き、角を二つ曲がったところで少しだけ足を速める。
背後から、足音が聞こえた。
一人分。
自分のものではない。
誰かがついてきている。
シラスは舌打ちをこらえた。
市場の真ん中で騒ぎを起こすよりはましだ。相手の目的も人数も分からない以上、まずは距離を取るべきだった。
雨に濡れた石畳を踏みしめ、彼はさらに細い路地へと進んでいく。
腰の剣が、歩調に合わせて小さく揺れた。
報告書に記されていた剣は、今ここにあるものではない。
あの夜、自分は確かに、別の誰かへ剣を託した。
なぜ、それが事件の証拠として扱われているのか。
誰が、あの集落で起きた惨劇の責任を自分に押しつけたのか。
そして、自分はいつまで逃げ続けなければならないのか。
答えは一つも出ていなかった。
ただ、報告書の内容が事実と食い違っている以上、何かがおかしい。
もし、あの文書が嘘なら。
誰かが、世界中の人間に信じさせたい嘘を用意したのだとしたら。
シラスは歩みを止めなかった。
街は、ようやく一日を始めたばかりだった。
そして彼にとっては、逃亡の一日が、また始まろうとしていた。
第1話を読んでくださり、ありがとうございます!
シラスの旅は、まだ始まったばかりです。
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