傷を癒やす街
北部整理所を離れてから、二日が過ぎていた。
シラスと鈴は、フェルンへ戻る道を避け、森の縁に沿って南西へ進んでいた。古い街道から外れた道は歩きにくく、ところどころに倒木や崩れた石垣が残っている。
幸い、追っ手の姿は見えなかった。
だが、安心できる状況でもない。
シラスの道具袋には、北部整理所から持ち出した金属製の箱が入っていた。鈴が書き写した記録も、濡れないよう布に包んで保管してある。
受領された十二箱と、移管された十箱。
そして、管理番号のない金属箱。
どれも重要な手掛かりではあるが、今のところ、そこから導き出せる結論は限られていた。
「……シラス」
「何だ?」
「そろそろ休憩しない?」
隣を歩く鈴が、疲れた顔でこちらを見上げていた。
「まだ歩き始めて一時間ほどだぞ」
「一時間も歩いたんだよ?」
「普段の旅なら、まだ準備運動の時間だ」
「私の足は、シラスの足と同じじゃないの!」
鈴は頬を膨らませた。
確かに、身長差を考えれば歩幅は違う。シラスにとって普通の速度でも、彼女には少し速いのかもしれなかった。
シラスは歩みを止め、周囲を見渡した。
少し先に、木々に囲まれた岩場がある。腰を下ろすにはちょうどよさそうだった。
「……あそこで休む。水を飲んだら、また出発するぞ」
「やった!」
鈴の顔が一気に明るくなった。
「ただし、休憩中に菓子を全部食べるなよ」
「食べないよ! ちゃんと残してあるもん!」
「前回はそう言って、昼までに食べきっただろう」
「あれは……歩いていたら、お腹が空いちゃったんだよ」
「つまり、今回も同じことになる可能性があるわけだ」
「ならないもん!」
鈴はぷいと顔を背けた。
その仕草を見て、シラスは小さく息を吐く。
彼女と旅を始めてから、こうしたやり取りは珍しくなくなった。
以前の自分なら、誰かと休憩の時間を相談することも、菓子の残りを気にすることもなかっただろう。
必要な物を確保し、危険を避け、ひたすら生き延びる。
それだけで十分だった。
今は少し違う。
シラスは岩場に腰を下ろし、水袋を鈴へ渡した。
「ほら」
「ありがとう」
鈴は両手で受け取り、喉を潤した。
その表情から疲れが少しずつ消えていく。
「ねえ、次の町はどんなところなの?」
「地図によれば、ここから西へ進んだ先に大きな街がある。グラヴェスという名前だ」
「グラヴェス……」
鈴はその名前を口の中で繰り返した。
「どんな町?」
「国境に近い交易都市だ。商人もいるが、傭兵や賞金稼ぎも多いらしい」
「賞金稼ぎ……」
鈴の表情がわずかに曇った。
シラスの首には、今も懸賞金がかけられている。
町に入れば、誰かが彼の顔を知っている可能性がある。人が集まる場所ほど情報は早く広まり、金の匂いに敏感な者も増える。
「……危ないところなの?」
「安全とは言えないな。だが、物資を補充するには都合がいい。人も多いから、情報を集める場所としても悪くない」
「そっか」
鈴は少し考えてから、顔を上げた。
「じゃあ、私も気をつけるね」
「ああ。知らない人間についていかないこと。俺から離れないこと。それから、何か異変を感じたらすぐに知らせろ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるってば!」
鈴が抗議の声を上げる。
シラスは口元を緩めた。
「ならいい」
「……絶対、からかってるでしょ」
「さてな」
鈴は不満そうに頬を膨らませたが、やがて自分から笑い始めた。
◇
グラヴェスに到着したのは、その日の夕方だった。
町を囲む石壁は高く、門の両側には武装した兵士が立っている。門前には荷車の列ができ、商人たちが通行の手続きを待っていた。
壁の上には見張り台が設けられ、風にはためく旗が夕日に照らされている。
フェルンとは比べものにならないほど、人の往来が多かった。
「わあ……!」
鈴が思わず声を上げた。
門の向こうには、石造りの建物が立ち並んでいる。道幅は広く、馬車がすれ違えるほどだった。通りには商店の看板が並び、鍛冶屋からは金属を打つ音が響いている。
旅人や商人だけではない。
剣を腰に下げた者、革鎧を着込んだ者、背中に弓を背負った者。武装した人間が、町のあちこちを歩いていた。
「すごいね、シラス! あんなに大きな武器を持ってる人がたくさんいるよ!」
「武器を持っていること自体は珍しくない。ここは傭兵の多い町だからな」
「でも、あの人の斧、私の腕くらいありそう!」
「近づいて確かめようとするなよ」
「しないよ!」
鈴は即座に答えた。
だが、その視線はすでに、通りの向こうにある武器屋へ向かっている。
シラスは深く息を吐いた。
「先に宿を探す。買い物はその後だ」
「うん!」
元気のいい返事が返ってきた。
町の門をくぐると、兵士が二人に視線を向けた。
「旅人か。滞在目的は?」
「物資の補充と休息だ」
シラスは落ち着いた声で答えた。
「武器の所持は?」
「剣を一本」
「町中での抜刀は禁止されている。争いを起こせば、衛兵が対処する。分かったな?」
「ああ」
兵士は二人を見比べ、通行を許可した。
シラスはその場を離れてから、周囲を観察した。
壁の内側には複数の掲示板が設置されていた。商人向けの通達、傭兵の依頼書、行方不明者の捜索願い。そして、賞金首の手配書もある。
シラスは視線をそちらへ向けないようにした。
今は、まだ自分が誰かに気づかれた様子はない。
だが、いつまでもそうとは限らない。
「シラス?」
鈴が不思議そうに見上げてきた。
「どうしたの?」
「何でもない。行くぞ」
彼は歩き始めた。
町の中で長居するなら、まずは安全に休める場所を確保しなければならない。
それから、金属箱の調査と記録の整理だ。
やるべきことは多かった。
◇
しばらく歩くと、二人は大通りから一本外れた場所に宿屋を見つけた。
建物は三階建てで、入口には大きな木製の看板が掲げられている。看板には、剣と盾を組み合わせた紋章が描かれていた。
店の前には馬をつなぐ場所があり、入口からは食事の匂いが漂ってくる。
「ここにしよう」
シラスが言うと、鈴は勢いよく頷いた。
「賛成!」
「……まだ部屋を見ていないぞ」
「でも、いい匂いがするもん」
「宿を選ぶ理由が食事だけなのか?」
「大事な理由だよ!」
鈴は真剣な顔で答えた。
シラスは反論を諦め、扉を開けた。
中は広い食堂になっていた。
木製のテーブルがいくつも並び、傭兵らしい男たちが食事をしている。壁際には武器を置く棚があり、暖炉の前では数人の旅人が談笑していた。
受付には、四十代ほどの男性が立っていた。がっしりした体格で、短い茶髪には白いものが混じっている。
「いらっしゃい。宿泊か?」
「二人だ。できれば、数日泊まりたい」
「部屋は空いている。食事付きで一泊銀貨八枚だ。個室なら銀貨十二枚になる」
シラスは一瞬だけ考えた。
できることなら個室がいい。金属箱のこともあるし、手配書を見られた場合の対策も考えなければならない。
「個室を頼む」
「分かった。名前を記入してくれ」
男性が台帳を差し出した。
シラスは一瞬、手を止めた。
ここで本名を書くのは危険だ。
「……シラスでいい」
「姓は?」
「必要か?」
「宿の記録だからな。面倒を起こさないなら、仮名でも構わないが」
男は特に気にした様子もなく、筆記具を置いた。
シラスは彼を観察した。
必要以上に詮索するつもりはなさそうだ。
「シラス・ナハトだ」
結局、姓も記入した。
偽名を使う手もあったが、町で長く滞在するなら、余計な矛盾を作らないほうがいい場合もある。
それに、名前だけで正体が割れるとは限らない。
男は台帳を閉じ、鍵を渡した。
「二階の奥だ。夕食は食堂で食べられる。風呂は共同だが、夜遅くまで使えるぞ」
「助かる」
シラスは鍵を受け取った。
鈴はその横で、食堂の料理をじっと見つめていた。
「……シラス」
「何だ?」
「夕食、何が出るのかな?」
「受付の説明を聞いていなかったのか?」
「聞いてたよ! でも、料理のことは言ってなかったから……」
鈴は少し恥ずかしそうに笑った。
シラスは額に手を当てた。
「先に荷物を置く。それから食事だ」
「うん!」
◇
部屋は質素だったが、清潔だった。
ベッドが二つ、木製の机が一つ。窓からは通りの様子が見え、扉には内側から鍵をかけられる。
シラスは部屋に入ると、まず窓の留め具を確認した。
次に扉の鍵と、廊下へ続く位置を確かめる。
最後に、道具袋から金属箱を取り出し、机の引き出しへ入れた。
「シラス、何してるの?」
「荷物の確認だ。大事な物をなくしたら困るだろう」
「その箱、やっぱり気になる?」
「ああ。だが、今は開ける方法が分からない。無理に壊すつもりもない」
鈴は机の前に立ち、引き出しをじっと見つめた。
「中に何が入っているんだろうね」
「分からない。だから調べる価値がある」
「もし宝物だったら?」
「売って旅費にする」
「ええっ!?」
鈴が目を丸くした。
「もっと夢のあることを言ってよ!」
「金属箱の中身が宝物だと決まったわけじゃない」
「それはそうだけど……!」
「それに、仮に宝物でも、持ち主がいるなら返すべきだろう」
鈴はしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「……うん。そうだね」
シラスは引き出しに鍵をかけた。
その鍵を外套の内側へしまう。
まだ分からないことは多い。
だが、今は焦らず、一つずつ確認するしかなかった。
◇
夕食の時間になると、鈴は誰よりも早く食堂へ向かった。
卓上には、焼いた肉と野菜の煮込み、黒パン、それに豆のスープが並んでいる。
鈴は目を輝かせた。
「すごい……!」
「普通の宿の夕食だぞ」
「普通でも、こんなに種類があるんだよ?」
「旅の途中では、干し肉と硬いパンが続くこともあるからな」
「そう! だから今日は特別なの!」
鈴は椅子に座ると、両手を合わせた。
「いただきます!」
その声に、隣のテーブルにいた傭兵が振り返って笑った。
「お嬢ちゃん、ずいぶん腹が減ってたみたいだな」
「うん! たくさん歩いたから!」
「なら、しっかり食べな。明日も歩くんだろ?」
「そうする!」
鈴は元気よく答えた。
シラスはその様子を横目で見ながら、食事を始めた。
そのとき、食堂の入口から数人の男たちが入ってきた。
革鎧を身につけ、腰には剣を下げている。傭兵か、賞金稼ぎだろう。
彼らは店内を見回し、受付の男性に何かを尋ねていた。
そのうちの一人が、壁に貼られた依頼書を指さした。
「……この男、まだこの辺りに現れていないのか?」
「さあな。町の外で見たという話なら聞いたが、確かな情報じゃない」
「そうか……」
男は懐から一枚の紙を取り出した。
シラスの手が止まる。
遠目でも分かった。
それは、賞金首の手配書だった。
男は紙を広げ、描かれた人物の顔を確かめる。
黒い髪。
赤い目。
そして、シラス・ナハトという名前。
「……見つければ、かなりの金になるな」
男が呟いた。
シラスは視線を落とし、何事もなかったかのようにスープを口へ運んだ。
まだ、相手はこちらを見ていない。
だが、時間の問題かもしれない。
「シラス?」
鈴が小声で尋ねた。
「どうしたの?」
「食べ終わったら、部屋へ戻るぞ」
「え? まだパンが残ってるよ?」
「持って帰っていい」
「本当?」
「ああ」
鈴は嬉しそうにパンを包み始めた。
シラスはその間も、食堂の入口にいる男たちを観察していた。
彼らの動きに無駄はない。武器の扱いにも慣れているように見える。
単なる酔客ではない。
そして、手配書を持っている以上、賞金稼ぎである可能性は高かった。
男の一人が、ふと顔を上げた。
視線が、シラスの横顔をかすめる。
シラスは動かなかった。
男は眉をひそめ、手元の手配書へ目を戻した。
まだ確信はないらしい。
だが、長居するのは危険だった。
「鈴、行くぞ」
「うん。ごちそうさまでした!」
鈴は急いで立ち上がり、残ったパンを大事そうに抱えた。
二人は食堂を離れ、階段へ向かった。
その背後で、男たちの会話が聞こえてくる。
「……今の男、どこかで見たことがある気がする」
「気のせいじゃないのか?」
「いや……」
シラスは歩調を変えなかった。
部屋に戻ると、扉を閉め、鍵をかける。
鈴はパンを机に置き、心配そうに彼を見上げた。
「……もしかして、あの人たち、シラスを探してるの?」
「その可能性は高い」
「どうするの?」
シラスは窓の外を見た。
夕暮れの街並みには、まだ人の姿が多い。
ここで騒ぎを起こせば、衛兵まで巻き込むことになる。かといって、すぐに町を出るのも得策とは限らない。
必要なのは、相手の人数と目的を確かめることだ。
「今夜は様子を見る。相手が動くまでは、こちらから手を出さない」
「……分かった」
鈴は不安そうに頷いた。
シラスは彼女の頭に軽く手を置いた。
「心配するな。何があっても、状況を見て判断する」
「うん……。でも、無理はしないでね」
「ああ」
その返事は、いつもより少しだけ柔らかかった。
窓の外では、夜の帳がゆっくりと町を覆い始めていた。
グラヴェスでの新しい旅は、まだ始まったばかりだ。
しかし、シラスの過去は、すでに彼らの背後へ迫りつつあった。




