封じられた原記録
背後から、再び轟音が響いた。
北部整理所の壁が揺れ、天井から細かな石片が降り注ぐ。古い木材が悲鳴のような音を立て、積み重なっていた箱の一つが床へ崩れ落ちた。
「止まるな! こっちだ!」
フードをかぶった人物が、奥の扉を押し開けながら叫んだ。
シラスは鈴の手を引き、倒れた棚を避けて走る。
「鈴、足元に気をつけろ!」
「分かってる!」
煙と埃で視界が悪い。背後からは複数の足音が近づいてくる。敵が何人いるのか、どこまで迫っているのかも、正確には把握できなかった。
シラスは振り返らずに走り続けた。
今は戦うべきではない。
相手の武器は、石造りの壁さえ破壊する。狭い建物の中で正面から対抗すれば、敵を倒す前に天井が落ちてくる可能性があった。
扉の向こうには、細い通路が続いていた。
壁には古い金属製のランプが取り付けられているが、火は消えている。床には木箱の残骸が散らばり、ところどころに水が染み出していた。
フードの人物は迷うことなく奥へ進んでいく。
「おい! どこまで行くつもりだ!」
「保管室だと言っただろう!」
「その先に出口はあるのか?」
「あるかどうかは知らない!」
「……は?」
思わず足を止めかけたシラスを、鈴が慌てて引っ張った。
「シラス、今は走ろう!」
「分かっている!」
どうやら、先導している人物も施設の構造を完全には把握していないらしい。
まったく信用できる案内役ではなかった。
それでも、今は他に選択肢がない。
◇
通路の突き当たりには、厚い鉄扉があった。
表面は錆びつき、中央には古い留め金が取り付けられている。その上には、円と二本の交差した線を組み合わせた印が刻まれていた。
シラスの足が止まった。
見覚えのある印だった。
旧街道で拾った金属片。
古い受領記録。
水門の奥で見つけた帳簿。
それらに残されていたものと、よく似ている。
「……やっぱり、ここにもあるんだ」
鈴が小さく呟いた。
「鈴、触るな」
「触らないよ。ただ、同じ印だと思って」
「俺もそう思う」
シラスは扉を観察した。
印の周囲には、文字らしい刻印もある。だが、長い年月によって削れ、ほとんど読み取れなかった。
フードの人物が留め金を外そうとしたが、錆びついて動かない。
「くそ……!」
「退け」
シラスは相手の手を止め、留め金の状態を確認した。
力任せに引けば、金具ごと壊れるかもしれない。扉そのものが歪んでいる可能性もあった。
彼は腰の道具袋から小さな金属棒を取り出し、留め金の隙間へ差し込んだ。
慎重に角度を変え、固着した部分を少しずつ動かす。
乾いた音がした。
留め金が、わずかに浮いた。
「今だ。引けるか?」
「ああ!」
三人で扉を押すと、錆びた蝶番が低く軋んだ。
扉の向こうから、冷たい空気が流れ出してくる。
その先には、狭い部屋があった。
壁沿いに棚が並び、中央には石造りの台が置かれている。床には厚い埃が積もっていたが、一番奥の棚の前だけは、誰かが通った跡が残っていた。
フードの人物が部屋へ入ると、すぐに奥の棚へ向かった。
「ここだ……」
その声には、焦りと安堵が混じっていた。
シラスは剣の柄から手を離さず、相手の動きを見守った。
「何がある?」
「原記録だ」
「何の原記録だ?」
「……受領と移管に関する記録だ。ここに残されていたなら、まだ失われていない可能性がある」
相手は棚の下段にある木箱を引き出した。
蓋には封蝋の跡が残っている。しかし、封はすでに破られていた。
中から現れたのは、布に包まれた数冊の帳簿と、細長い紙束だった。
シラスの表情が変わる。
探していたものに、ようやく手が届いたのかもしれない。
だが、ここで喜ぶのは早い。
「まず中身を確認する。持ち出すかどうかは、それからだ」
「悠長なことを言っている場合か!」
「焦っても記録は増えない」
シラスは帳簿を一冊取り上げた。
表紙は傷んでいたが、文字はまだ読める。
記録の年代。
管理番号。
そして、受領と移管に関する項目。
ページをめくると、日付と数量、施設番号が整然と並んでいた。
鈴も隣から覗き込む。
「これが、探していた記録なの?」
「少なくとも、関係のある記録だ」
シラスは慎重にページを追った。
やがて、一つの記載に目が留まる。
ある日付の欄に、同じ管理番号が二度記されていた。
一つは、荷物を受け取った記録。
もう一つは、別の施設へ移管した記録。
だが、二つの記載には、数量の違いがあった。
受領欄には十二箱。
移管欄には十箱。
差し引き二箱。
その理由は、どこにも記されていなかった。
「……二箱、足りない?」
鈴が数字を指で追う。
「ああ。ただし、これだけでは何が起きたのか分からない。別の帳簿に記載がある可能性もある」
「でも、記録が合っていないんだよね」
「そうだ」
シラスは該当箇所を注意深く見た。
欄外には、小さな文字でこう記されていた。
――原記録参照。
そして、その横には、見覚えのある円と二本の交差した線の印が押されていた。
シラスは息を潜めた。
これまで見つけた記録に残されていた印。
偶然と片づけるには、同じ場所に現れすぎている。
しかし、印が何を意味するのかは分からない。
組織の紋章なのか、管理部門を示す記号なのか、それとも単なる照合用の印なのか。
今の段階では、どれも可能性にすぎなかった。
「この帳簿だけでは、足りないな」
シラスが呟くと、フードの人物が振り返った。
「……何だと?」
「数量の違いは確認できた。だが、その理由も、別の記録がどこにあるのかも分からない。これだけを見ても、全体は把握できない」
「だから、ここにあるものを調べる必要があるんだ!」
「分かっている。だが、焦って中身を壊したら意味がない」
シラスは帳簿を元の位置へ戻した。
他の冊子にも、同じ管理番号があるかもしれない。
今は、一つずつ確かめるしかなかった。
◇
そのとき、鉄扉の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「こっちだ! 奥にいるぞ!」
続いて、金属を叩く音が響く。
敵が通路の奥まで追いついてきたのだ。
フードの人物は、手元の帳簿を強く抱えた。
「時間がない……!」
「待て。何を持ち出すつもりだ?」
「ここに置いていけるわけがないだろう!」
「一冊だけ持って逃げても、残りが失われたら意味がない」
「なら、どうする!」
相手の声が荒くなる。
シラスは一瞬だけ考え、棚の中を見渡した。
帳簿は複数ある。紙束もある。すべてを持ち出すのは不可能だ。
だが、必要な情報を残すことはできる。
「鈴、紙と筆記具はあるか?」
「うん。鞄に入ってる」
「出してくれ」
鈴は急いで鞄を開け、小さな紙束と筆記具を取り出した。
シラスは帳簿の管理番号、日付、数量が食い違っている箇所を確認し、必要な情報を書き留めていく。
原記録を丸ごと持ち出せなくても、どの帳簿のどのページに何が書かれているのかを記録しておけば、後から照合できる可能性がある。
「……それで、間に合うの?」
鈴が不安そうに尋ねた。
「今できることをするしかない」
シラスは短く答えた。
フードの人物は、二人の作業を見つめていた。
やがて、意を決したように棚の奥へ手を伸ばす。
「こっちにもある!」
引き出されたのは、小さな金属製の箱だった。
蓋には、同じ印が刻まれている。
しかし、鍵穴は錆びつき、蓋を開けることはできなかった。
「それは何だ?」
シラスが尋ねた。
「分からない。ここへ来たときから、棚の奥に置かれていた」
「中身を確認したのか?」
「できなかった。鍵も見つからない」
相手は箱を見下ろした。
「だが、これも記録の一部かもしれない」
シラスは箱を受け取り、重さを確かめた。
中で何かがわずかに動く音がする。
書類なのか、金属部品なのか、それとも別のものなのか。
判断できなかった。
無理にこじ開ければ、中身を傷つける危険がある。
彼は箱を布で包み、道具袋へしまった。
「これは俺が預かる。中身が何か分からない以上、慎重に扱うべきだ」
「……好きにしろ」
フードの人物はそう言ったが、その視線は箱から離れなかった。
シラスは、その反応を覚えておくことにした。
◇
鉄扉の向こうで、再び青白い光が瞬いた。
「伏せろ!」
シラスが叫ぶ。
鈴を引き寄せ、石造りの台の陰へ身を隠した直後、轟音が響いた。
衝撃が床を走り、棚が大きく揺れる。
積み上げられていた木箱が崩れ、紙片が部屋中に舞い上がった。
「このままじゃ、ここも崩れるぞ!」
フードの人物が叫んだ。
「別の出口はあるのか?」
「奥に通路があるはずだ! だが、封鎖されているかもしれない!」
「また、あるはずか……!」
シラスは舌打ちした。
信用できる情報が少なすぎる。
しかし、ここに留まれば、敵の攻撃で建物ごと埋もれる可能性があった。
シラスは鈴の肩を支え、立ち上がった。
「鈴、走るぞ!」
「うん!」
フードの人物も金属箱とは別の帳簿を一冊抱え、部屋の奥へ向かった。
奥の壁には、半分隠れた小さな扉があった。
人物が押すと、錆びた留め具が外れ、狭い通路が姿を現す。
その先からは、かすかに外の光が見えた。
「こっちだ!」
三人は通路へ飛び込んだ。
背後で、保管室の棚が崩れる音がした。
古い紙が、木材と石片の下へ埋もれていく。
シラスは振り返らなかった。
今は逃げることが先だ。
◇
通路の先は、建物の裏手に続いていた。
低い出口をくぐると、そこには雑草の生い茂る斜面が広がっていた。崩れた石垣の向こうには、川へ続く細い道が見える。
シラスは周囲を確認してから、鈴を外へ出した。
「怪我はないか?」
「うん。ちょっと埃っぽいけど……大丈夫」
「ならいい」
フードの人物も、少し遅れて外へ出てきた。
その手には、先ほど持ち出した帳簿が握られている。
人物は建物を振り返り、しばらく黙っていた。
内部からは、まだ人の声が聞こえる。
追っ手は別の出口を探しているのか、それとも崩れた入口を突破しようとしているのか。
いずれにせよ、長居はできなかった。
「……お前たちには、借りができたな」
フードの人物が呟いた。
「借りを返すつもりなら、まず質問に答えてもらいたい」
シラスはすぐに返した。
「お前は誰だ? どうしてここにいた? それに、あいつらは何者なんだ?」
相手は黙り込んだ。
やがて、ゆっくりとフードを外した。
現れたのは、三十代半ばほどの男だった。頬は痩せ、目の下には濃い隈がある。髪は乱れ、額には古い傷が走っていた。
「……俺の名前は、ヴェルナーだ」
「ヴェルナー。姓は?」
「今は、それを話すつもりはない」
「そうか」
シラスはそれ以上、無理に問い詰めなかった。
男は持っていた帳簿を抱え直した。
「俺は、ここに残された記録を探していた。あいつらが何者なのか、すべてを知っているわけじゃない。ただ、同じ記録を追っている連中だ」
「なぜ、それが分かる?」
「以前にも、別の場所で見かけた。古い保管施設を調べていた連中だ」
「旧街道で俺たちを襲った者たちと同じか?」
ヴェルナーの目がわずかに動いた。
「……旧街道で何があった?」
「こちらが質問している」
シラスの声が低くなる。
ヴェルナーは一瞬だけ口を閉ざし、それから首を振った。
「同じかどうかは分からない。少なくとも、俺には確かめられなかった」
それは、明確な答えではなかった。
しかし、少なくともヴェルナーは、知っていることと知らないことを分けて話しているように見えた。
「なら、もう一つ聞く。あの箱の印は何だ?」
シラスは道具袋に手を添えた。
ヴェルナーの表情が変わる。
「……それを持ち出したのか?」
「ああ」
「中身を見たのか?」
「開けられなかった。鍵がない」
ヴェルナーは、ほっとしたような、それでいて落胆したような表情を浮かべた。
「その箱についても、俺は詳しく知らない。ただ、あの棚にあったものの中で、唯一、管理番号が記されていなかった」
「番号がない?」
「そうだ。ほかの帳簿には、管理番号と日付があった。だが、あの箱には印だけがある」
シラスは考え込んだ。
記録の管理に使われていた施設で、番号のない箱。
それが単なる例外なのか、それとも別の理由があるのか。
まだ判断できない。
「鍵は、どこにある?」
「知らない。探したが見つからなかった」
ヴェルナーはそこで言葉を切った。
「……ただ、箱に関係する記録なら、ほかの帳簿に残っている可能性がある」
「それは、さっきの保管室にあったものか?」
「そうかもしれない。だが、あそこに何が残っているのか、俺も全部は確認できていない」
シラスは息を吐いた。
ようやく見つけた原記録も、すべてを明らかにしてくれるわけではなかった。
むしろ、これまでの手掛かりを裏付ける一方で、新たな疑問を増やしている。
受領された十二箱。
移管された十箱。
そして、管理番号を持たない金属製の箱。
これらがどのようにつながっているのか、まだ分からない。
◇
遠くで、再び人の声が響いた。
追っ手が裏手の出口を探し始めたらしい。
ヴェルナーは顔を強張らせた。
「ここから離れたほうがいい。あいつらが回り込んでくる」
「お前はどうする?」
「俺にも行く場所がある」
「一緒に来るつもりはないのか?」
ヴェルナーは少しだけ迷ったようだった。
しかし、すぐに首を横に振る。
「今は、別々に動いたほうがいい。俺と一緒にいれば、また襲われるかもしれない」
「すでに襲われているがな」
「……そうだったな」
ヴェルナーは苦笑した。
その表情には、疲れがにじんでいた。
「だが、少なくとも、俺がどこへ向かうかは知られないほうがいい」
「分かった。無理に引き止めるつもりはない」
シラスはそう答えた。
相手を信用したわけではない。
だが、今ここで無理に同行させても、得られるものは少ないだろう。
ヴェルナーは一度だけ頭を下げた。
「……助かった。いつか、借りは返す」
そう言い残すと、彼は斜面を下り、木々の間へ消えていった。
シラスはその背中をしばらく見つめていた。
「シラス……あの人、また会えるかな?」
「分からない」
「でも、悪い人には見えなかったね」
「それだけで信用するのは危険だ」
「うん。それは分かってる。でも、助けてくれたのも本当だよ」
シラスは鈴を見た。
確かに、ヴェルナーは保管室への道を教えた。追っ手から逃げる際にも、二人を置き去りにはしなかった。
だが、彼が何を隠しているのかは、まだ分からない。
「……そうだな。助けられたことは事実だ」
シラスはそう認めた。
鈴は小さく微笑んだ。
「それなら、いつかお礼を言えるといいね」
「その前に、また会えるかどうかだな」
「もう、そういうところ!」
鈴は頬を膨らませたが、すぐに表情を引き締めた。
「でも、これからどうするの?」
シラスは道具袋を開き、持ち出した金属箱を確かめた。
箱には傷一つ増えていない。
そして、鈴が書き写した記録の控えも残っている。
完全な原記録は持ち出せなかった。
それでも、手掛かりを失ったわけではない。
「まずは安全な場所へ移動する。記録を整理して、次に何を調べるべきか考える」
「金属の箱も?」
「ああ。だが、無理に開けようとはしない。仕組みが分からないものを壊しても仕方ないからな」
「鍵を探すの?」
「箱に関する記録が見つかれば、手掛かりになるかもしれない」
鈴は頷いた。
「じゃあ、まだ旅は続くんだね」
「最初から、そのつもりだろう」
「……そうだった」
彼女は少し照れたように笑った。
シラスは地図を取り出し、周囲の地形を確かめた。
北部整理所から離れ、川沿いに南へ戻ればフェルンへ向かう道に合流できる。今は追っ手の位置が分からない以上、同じ道を引き返すのは避けたほうがいい。
遠回りにはなるが、森の縁を進む道があった。
「鈴、こっちだ」
「うん!」
二人は草に覆われた斜面を下り始めた。
背後では、古い施設が静かに佇んでいる。
何十年もの間、忘れられていた場所。
そこには、失われたはずの記録が残されていた。
しかし、その記録が示すのは、受領と移管の食い違いだけではない。
番号のない金属箱。
繰り返し現れる謎の印。
そして、同じ記録を追っているらしい者たち。
それぞれの意味は、まだ分からない。
だが、シラスは一つだけ確信していた。
この記録を追い続ける限り、いずれ、今まで見えなかった何かにたどり着く。
それが自分の無実を証明するものなのか。
それとも、さらに深い闇へとつながるものなのか。
答えは、まだ遠い。
それでも、立ち止まる理由にはならなかった。
シラスは鈴とともに、森の向こうへ続く道を歩き始めた。




