廃施設に残された足跡
北部整理所の入口から、かすかな物音が聞こえていた。
風が吹き込むたび、崩れかけた扉が軋む。だが、今聞こえた音はそれとは違う。何かが床を擦るような、短く不規則な音だった。
シラスは剣の柄に手を添えたまま、入口の脇へ身を寄せた。
「鈴、ここで待っていろ」
「……中に誰かいるんだよね?」
「ああ。少なくとも、誰かが最近ここへ入ったのは間違いない」
「だったら、私も一緒に行く」
「危険があるかもしれない」
「それは分かってる。でも、シラスだけを行かせて、私だけ外で待っているのは嫌だよ」
鈴の声は小さかったが、そこにははっきりとした意志があった。
シラスは彼女の顔を見た。
不安を隠しきれてはいない。両手も鞄の紐を握りしめている。それでも、彼女は逃げようとはしなかった。
「……分かった。ただし、俺から離れるな。何かあったら、すぐに外へ逃げる」
「うん。約束する」
「それから、勝手に魔法を使おうとするな」
「そんなこと、しないよ。そもそも、使おうと思って使えるものじゃないし……」
最後の言葉は、少しだけ不満そうだった。
「分かっている。だから、無理に使おうとするなと言っているんだ」
シラスはそう答えると、入口へ視線を戻した。
彼女の力は、今でも分からないことばかりだ。
危機に陥ったとき、本人の意思とは無関係に発動することがある。しかし、それがいつ、どのような形で起こるのか、シラスにも鈴自身にも予測できなかった。
頼りにするには不確かすぎる。
だからこそ、彼女を守るためには、自分の判断と剣を頼る必要があった。
シラスは足元の石を避け、音を立てないように建物の中へ入った。
◇
内部は、想像していた以上に広かった。
入口から続く通路の両側には、いくつもの部屋が並んでいる。壁には木製の棚が残り、床には割れた陶器や腐食した金具が散乱していた。
天井の一部は崩れ、そこから差し込む光が埃を照らしている。
長い年月の間に、人の気配は消え去ったはずの場所。
しかし、床に積もった埃には、明らかな変化があった。
新しい足跡が、通路の奥へ続いている。
シラスはしゃがみ込み、跡の深さと向きを確かめた。
一人分ではない。
少なくとも二人。片方は歩幅が広く、もう片方はやや小さい。どちらも、入口から奥へ向かっている。
「二人、かな……?」
鈴が声を潜めて尋ねた。
「少なくとも二人だ。もっといる可能性もある」
「ここで何をしているんだろう」
「それを確かめに来たんだが……先客がいたらしいな」
シラスは立ち上がり、通路の先を見た。
壁には、古い文字が刻まれた金属板が取り付けられている。ほとんどの文字は読めなくなっていたが、いくつかの単語は残っていた。
保管。
受領。
照合。
彼はその文字を順番に目で追った。
「……間違いなさそうだな」
「ここが北部整理所だから?」
「ああ。それに、ここでは荷物を保管するだけじゃなく、受け取った物と記録を照らし合わせていたらしい」
「じゃあ、私たちが探している記録も、ここにあるかもしれないね」
「可能性はある。ただし、今は中に誰がいるのかを先に確かめる」
シラスは剣を抜かなかった。
相手が敵だと決まったわけではない。無闇に武器を構えれば、話し合いで済む相手まで警戒させてしまう。
もっとも、すぐに抜けるよう、右手は柄の近くに置いていた。
二人は足跡を追い、通路の奥へ進んだ。
◇
最初の部屋には、崩れた机と空の木箱が残されていた。
壁際の棚は傾き、何段かはすでに床へ倒れている。木箱の中には、錆びた留め金や割れた封蝋の破片が散らばっていた。
シラスは部屋の入口から全体を見渡した。
荒らされたようにも見えるが、単に建物が朽ちた結果とも考えられる。
ただ、一つだけ気になるものがあった。
床に置かれた木箱の蓋が、他のものと比べて新しい。
木材そのものは古いが、蓋の表面には埃がほとんど積もっていなかった。
シラスは手を伸ばす前に、箱の周囲を確かめた。
罠のようなものは見当たらない。
それでも、慎重に蓋を持ち上げる。
中には、何も入っていなかった。
「空っぽだね」
鈴が覗き込んだ。
「ああ。だが、つい最近まで何かが入っていた可能性はある」
「誰かが持っていったのかな?」
「そうかもしれない。単に別の場所へ移しただけかもしれないが」
シラスは箱の内側を観察した。
底には、四角い物を置いていたような薄い跡が残っている。大きさは、書類をまとめた束か、小さな帳簿ほどだった。
彼は箱の蓋を戻した。
「ここには目的のものはなさそうだ。先へ進むぞ」
鈴は頷いたものの、部屋を出る直前に振り返った。
「ねえ、シラス。もし先に来た人が、私たちと同じものを探していたら?」
「その可能性もある」
「先に見つけられちゃったのかな」
「分からない。だが、まだ建物の全体を見たわけじゃない」
「……そうだね」
鈴は気持ちを切り替えるように頷き、再び彼の後ろについた。
◇
通路の突き当たりには、重い扉があった。
片側の蝶番が壊れ、扉は少しだけ開いている。その隙間から、冷たい空気が流れ出していた。
シラスは耳を澄ませた。
先ほど聞こえた物音は、もう聞こえない。
代わりに、奥から何かを叩くような音が一度だけ響いた。
コン。
二人は同時に顔を上げた。
「……今の、聞こえた?」
鈴が囁いた。
「ああ」
「人がいるのかな」
「可能性は高い」
シラスは扉の脇に立ち、隙間から内部を覗いた。
その先は、天井の高い部屋になっていた。
壁沿いには大きな棚が並び、中央には荷物を運ぶための台車が置かれている。奥の壁には、別の部屋へ続く扉も見えた。
そして、その中央付近に、人影があった。
長い外套をまとった人物が、棚の前にしゃがみ込んでいる。
顔は見えない。
その人物は手元の何かを確かめているらしく、シラスたちがいることには気づいていないようだった。
シラスは鈴に目配せした。
彼女は緊張した面持ちで頷く。
シラスは扉を押し開けた。
「そこで何をしている?」
声が部屋に響いた。
人物の肩が跳ねた。
ゆっくりと振り返った相手は、年齢も性別もはっきりしないほど、深くフードをかぶっていた。
「……誰だ?」
相手の声には警戒がにじんでいた。
「それはこちらの台詞だ。ここは北部整理所だろう。俺たちは、この施設に残された記録を調べに来た」
「記録を?」
相手は一瞬だけ黙った。
それから、手元にあったものを外套の内側へ隠した。
シラスの目が細くなる。
「今、何を隠した?」
「お前たちには関係ない」
「ここに残っているものを調べているなら、俺たちと目的が近い可能性がある。話し合う余地はあるはずだ」
「話し合い?」
相手は低く笑った。
「今さら来て、話し合いだと?」
その言葉には、妙な含みがあった。
シラスは相手の動きを観察した。
敵意があるのか。それとも、何かを恐れているのか。
声だけでは判断できない。
「俺たちは、お前を追ってきたわけじゃない。古い移管記録を探しているだけだ」
「移管記録……」
相手の視線が、シラスの腰にある道具袋へ移った。
ほんの一瞬だった。
だが、シラスは見逃さなかった。
「何か知っているのか?」
「知らない」
返答は早すぎた。
鈴もその違和感に気づいたらしく、シラスの外套の裾をそっとつかんだ。
「シラス……」
「大丈夫だ」
シラスは相手から目を離さずに答えた。
「俺たちは、記録を見つけたら内容を確認する。それだけだ。お前の持ち物を奪うつもりもない」
「信じろと言うのか?」
「信じるかどうかは、お前の自由だ」
シラスは静かに言った。
「だが、ここで争う理由もないはずだ」
しばらく、沈黙が続いた。
相手はシラスと鈴を交互に見ていた。
やがて、外套の内側に隠したものを確かめるように手を動かす。
「……この施設に、もう記録はほとんど残っていない」
「ほとんど、ということは、残っているものもあるんだな?」
「さあな」
「さっきから、質問に答えるつもりがないらしい」
「お前たちが何者かも分からないのに、何を話せと言うんだ」
もっともな言い分だった。
シラスは一度、息を吐いた。
「シラス・ナハトだ。こっちは鈴。旅の途中で、古い街道の記録を調べている」
鈴も緊張を残したまま、小さく頭を下げた。
「……こんにちは」
相手はすぐには答えなかった。
やがて、フードの奥から短い声が返ってきた。
「名前を聞いたところで、何も変わらない」
「そうか。なら、無理に名乗らなくてもいい」
シラスは相手の反応を見守った。
少なくとも、今すぐ襲いかかってくる気配はない。
だが、こちらを警戒していることは明らかだった。
◇
不意に、建物の外から音が響いた。
複数の足音。
石を踏みしめる、重い音だった。
シラスは即座に入口の方へ顔を向けた。
フードの人物も同じ方向を見ていた。
その反応で、シラスは一つのことを察した。
この人物は、外から誰かが来ることを予想していたのだ。
「……誰か来るのか?」
シラスが尋ねると、相手は答えなかった。
しかし、その手が外套の内側で固く握られる。
足音は近づいてくる。
一人ではない。
少なくとも三人。
「鈴、入口から離れろ」
「うん」
鈴はすぐに壁際へ移動した。
シラスは剣の柄を握る。
相手が誰であろうと、今は鈴を守ることが先だ。
フードの人物が、ようやく口を開いた。
「……お前たち、どうしてここへ来た?」
「さっき答えたはずだ」
「本当に記録だけを探しているのか?」
「ああ」
シラスは短く答えた。
相手は数秒間、黙り込んだ。
そして、先ほどまでの態度とは違う、切迫した声で告げた。
「なら、今すぐ奥へ行け。そこの扉の先に、古い保管室がある」
「何だって?」
「ここに残っている記録を探しているなら、そこを調べろ。だが、何を見つけても、すぐに持ち出そうとするな」
「理由を聞かせろ」
「時間がない」
相手はそう言って、部屋の奥にある扉を指さした。
次の瞬間、入口の外から声が聞こえた。
「中に誰かいるぞ!」
別の声が続く。
「奥を調べろ。記録が残っているはずだ!」
フードの人物が顔を強張らせた。
シラスは相手を見据える。
「……お前を追ってきた連中か?」
「違う」
「なら、何者だ?」
「今は説明している暇がない!」
怒鳴るような声だった。
直後、入口の向こうで金属が擦れる音がした。
シラスはその音に覚えがあった。
旧街道で襲撃者が使っていた、あの金属製の装置に似ている。
同じものなのか、それとも別の道具なのかは分からない。
だが、相手が何かを構えていることは確かだった。
「鈴、伏せろ!」
シラスが叫んだ瞬間、入口の向こうで青白い光が走った。
轟音。
衝撃が壁を揺らし、天井から石片と埃が降り注ぐ。
鈴が悲鳴を上げ、シラスは彼女をかばうように身を伏せた。
フードの人物も棚の陰へ飛び込む。
崩れた石片が床に散らばり、室内は一瞬で煙に包まれた。
「シラス、大丈夫!?」
「俺は平気だ。お前は?」
「大丈夫……!」
シラスは鈴の無事を確認し、入口へ目を向けた。
煙の向こうに、人影が見える。
その手には、金属製の装置が握られていた。
そして、その背後から別の人物が声を上げた。
「逃がすな! 保管室も確認しろ!」
フードの人物が奥の扉へ向かって走り出した。
「こっちだ! 早くしろ!」
シラスは一瞬だけ迷った。
ここに残って戦うか。それとも、記録があるという保管室へ向かうか。
入口の敵は複数。相手の装置の威力も、正面から受け止められるものではない。
ここで戦い続ければ、鈴を危険にさらす。
「鈴、走れるか?」
「うん!」
「よし。俺から離れるな!」
二人はフードの人物を追って、奥の扉へ駆け出した。
背後で再び、金属の装置が唸る。
北部整理所に残されていたものは、ただの古い記録だけではなかった。
そして、ここにいる者たちが何を求めているのかも、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、彼らが探しているものを、誰かが必死になって手に入れようとしているということだった。




