北へ続く古い道
翌朝、フェルンの空は薄い雲に覆われていた。
夜の冷気がまだ地面に残り、町の北側から吹き込む風には、湿った土と枯れ草の匂いが混じっている。
シラスは宿屋の前で外套の襟を整え、道具袋の紐を締め直した。
腰の剣に手を伸ばし、留め具が緩んでいないことを確かめる。水袋、食料、地図、火打ち道具。それらが揃っていることを確認してから、ようやく視線を上げた。
「お待たせ!」
宿屋の扉が開き、鈴が小走りで出てきた。
白い髪はいつものように左右の低い位置で結ばれている。小さな鞄を肩にかけ、その紐を両手で押さえていた。
「遅かったな」
「まだ約束の時間より早いよ?」
「出発の準備ができているか確認しただけだ」
「それを待ってたって言うんじゃないの?」
「そうとも言う」
「もう……」
鈴は呆れたように息を吐いたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「でも、今日は何が見つかるか楽しみだね」
「期待するのは構わないが、危険そうな場所には近づくな。俺が先に確認する」
「分かってる。勝手に走っていったりしないよ」
「昨日も似たようなことを言っていたな」
「昨日はお菓子の話でしょ!」
「そうだったか」
「絶対、分かってて言ってる……!」
鈴が抗議する横で、シラスは歩き始めた。
彼女も慌てて隣に並ぶ。
目的地は町の北側にあるという旧施設、北部整理所。
オスカーから得られたのは、古い地図と大まかな位置だけだった。現地に建物が残っているかどうかさえ、確かな情報はない。
それでも、移管記録に記された名称と位置が一致している以上、調べる価値はあった。
◇
町の北門を抜けると、景色は少しずつ変わっていった。
商店や民家が途切れ、代わりに低い石垣と荒れた畑が目立つようになる。道沿いには、かつて何かの施設を囲っていたと思われる石柱が数本残っていた。
その先に伸びる道は、町の中心へ続く街路とは違い、整備された形跡がほとんどなかった。
敷石の間から草が伸び、ところどころ土がむき出しになっている。車輪の跡も古く、近頃ここを通る荷車は少ないようだった。
「ここが、地図にあった道?」
鈴が足元を見ながら尋ねた。
「ああ。北部整理所へ向かうなら、この道を進むはずだ」
「町の中とは全然違うね」
「使う人間が少なければ、整備する必要もなくなる。フェルン自体、昔ほど人も物資も集まらなくなったんだろう」
「でも、昔は大事な場所だったんだよね?」
「少なくとも、いくつかの施設がここにあったのは確かだ」
シラスは道の脇に残された石柱を眺めた。
表面には、風雨で削られた浅い溝が何本も走っている。かつては何かの標識だったのかもしれないが、文字らしいものは残っていなかった。
鈴も石柱に近づき、首を傾げる。
「これ、魔法の印だったりしないかな?」
「そう見えるか?」
「ううん。分からない。でも、昔のものって、何に使っていたのか気になるでしょ?」
「気になることと、魔法だと決めつけることは別だ」
「分かってるよ。ちょっと想像しただけ」
「ならいい」
シラスは石柱から離れ、道の先へ目を向けた。
風に揺れる草の向こうには、緩やかな丘が連なっている。その間を縫うように古い道が伸び、途中から木々の陰へと消えていた。
二人は慎重に歩みを進めた。
◇
出発してから三十分ほど経った頃、鈴が不意に立ち止まった。
「シラス、あれ……」
彼女の視線の先には、道の脇に倒れた木製の標識があった。
半分ほど土に埋まり、表面は黒ずんでいる。支柱は折れ、板の端も欠けていた。
シラスは周囲を確認してから近づき、膝をついて標識を観察した。
文字はほとんど読めない。だが、板の下部には、古い施設の管理番号らしき数字が残っていた。
昨日、オスカーの台帳で見た番号とは異なる。
「これ、何か分かる?」
「今のところは何とも言えない。ただ、ここが昔から管理された道だった可能性は高いな」
「北部整理所へ向かう道の標識かな?」
「その可能性もある」
シラスは標識の周囲に視線を巡らせた。
土の表面には、古い車輪の跡が薄く残っている。その隣には、比較的新しい靴跡もあった。
片方だけではない。
少なくとも二人分。歩幅が違うため、同じ人物の往復とは考えにくい。
「……最近、誰かがここを通っているな」
鈴の表情が引き締まった。
「北部整理所を調べに来た人かな?」
「そうかもしれないが、まだ分からない。町の北側へ向かう理由は他にもある」
「じゃあ、私たち以外にも、ここを通る人がいるんだね」
「当然だ。古い道だからといって、誰も使わないとは限らない」
シラスは足跡の向きを確認した。
どちらも北へ続いている。
ただし、足跡は途中で草に覆われ、進んだ先までは追えなかった。
シラスはそれ以上調べることをやめ、立ち上がった。
「行くぞ。周囲への警戒は怠るな」
「うん」
鈴はいつもより少しだけ近い距離を保ちながら、彼の後ろを歩き始めた。
◇
さらに進むと、道は緩やかな下り坂へ変わった。
木々が増え、枝葉が頭上を覆い始める。陽光は細かく分断され、地面には不規則な影が落ちていた。
やがて、遠くから水の流れる音が聞こえてきた。
「川かな?」
「ああ。地図にも小さな川が記されていた」
「渡る場所はあるの?」
「古い橋があったらしいが、今も使えるかは分からない」
「……使えなかったら?」
「別の場所を探す」
「簡単に言うね」
「川を見てから考える。今から悩んでも仕方ないだろう」
鈴は少しだけ口を尖らせた。
「シラスって、困ったときでも落ち着いてるよね」
「慌てても状況はよくならない」
「私はちょっと慌てちゃうかも」
「そのときは、俺が止める」
あまりにも自然に返された言葉に、鈴は一瞬だけ目を丸くした。
「……うん」
小さく頷いてから、彼女は視線をそらす。
「じゃあ、お願いするね」
「ああ」
シラスは前を向いたまま答えた。
それ以上の言葉はなかった。
しかし、鈴の足取りは先ほどより少し軽くなっていた。
◇
川にたどり着いた頃には、雲の切れ間から日が差し始めていた。
水は浅い場所でも流れが速く、川底の石が濡れて黒く光っている。向こう岸には崩れかけた石造りの橋が見えた。
橋の中央部分は大きく欠け、手すりもほとんど残っていない。
「……あれを渡るの?」
鈴が不安そうに尋ねた。
「いや」
シラスは即座に答えた。
「見れば分かるだろう。あれは渡るための橋じゃなく、落ちるための橋だ」
「そんな言い方しなくても……」
「事実だ」
シラスは川沿いを歩き、橋の少し下流にある浅瀬を探した。
石が多く、水深も膝より下に収まっている場所がある。流れは速いが、足場を選べば渡れそうだった。
ただし、濡れた石の表面は滑りやすい。
「ここから渡る。俺の足跡を踏め。石を選ぶときは、苔がついていない場所を優先しろ」
「分かった」
「途中で怖くなっても、急に動くな。足を止めて、俺を呼べ」
「うん」
シラスは先に浅瀬へ入り、一本ずつ足場を確かめながら進んだ。
冷たい水がブーツの縁を濡らす。
中央付近では流れが強くなったが、彼は大きな石を支えにして慎重に渡り切った。
「次はお前だ。慌てるなよ」
鈴は深呼吸し、川へ足を踏み入れた。
最初の数歩は順調だった。
しかし、中央に差しかかったところで、彼女の足が滑った。
「わっ……!」
「鈴!」
シラスはすぐに振り返り、手を伸ばした。
鈴は反射的にその手をつかむ。
一瞬、体が流れに引かれたものの、シラスがしっかりと腕を支えたことで、転倒は免れた。
「大丈夫か?」
「う、うん……。ごめん」
「謝る必要はない。足元を見ろ。次の石は右だ」
「分かった」
鈴は彼の手を握ったまま、慎重に足を運んだ。
最後の数歩を越え、ようやく向こう岸へたどり着く。
彼女は安堵の息を吐き、濡れたブーツを見下ろした。
「……川って、思っていたより怖いね」
「流れがある場所は、浅くても危険だ」
「次は、もっと上手に渡れるようになるかな」
「経験を積めばな」
「じゃあ、次も一緒に渡ってね」
シラスは彼女を見た。
鈴は少し恥ずかしそうにしながらも、まっすぐこちらを見返している。
「……状況次第だ」
「もう! そこは普通に頷くところでしょ!」
「次に川があるかどうかも分からない」
「そういう問題じゃないの!」
鈴の抗議が、川のせせらぎに混じって響いた。
シラスは小さく笑い、再び歩き始めた。
◇
川を越えてから、道はさらに細くなった。
地図に記された線は、この辺りから曖昧になっている。草に覆われた道筋を頼りに進んでいると、やがて木々の向こうに、石造りの建物らしきものが見えた。
崩れた壁。
傾いた屋根。
そして、建物の周囲に並ぶ、いくつもの低い石積み。
シラスは歩みを止めた。
「……あれか?」
鈴も彼の隣で目を凝らす。
「北部整理所?」
「まだ分からない。地図にある位置とは大きくずれていないが、建物の形までは記されていなかった」
シラスは周囲を慎重に見渡した。
建物の前には、かつて荷車が通っていたと思われる広い空間がある。草の間から石畳がのぞき、片側には崩れた塀が続いていた。
だが、奇妙なことに、入口付近の草だけが不自然に踏み倒されている。
最近、誰かが通った形跡だ。
シラスは剣の柄に手を添えた。
「鈴、俺の後ろへ」
「……うん」
彼女はすぐに従った。
二人は足音を抑えながら、建物へ近づいていく。
入口の脇には、半ば埋もれた石板があった。
シラスは腰を落とし、表面の土を手袋で慎重に払った。
削れた文字の下に、古い施設名がかすかに残っている。
北部整理所。
間違いない。
「ここだ……」
鈴が小さく呟いた。
ようやくたどり着いた目的地。
だが、シラスの表情に安堵はなかった。
入口から建物の奥へ続く地面に、複数の足跡が残っている。
しかも、その一部は新しい。
彼らが来るより前に、誰かがここへ入ったのだ。
そして、建物の内部からは、風の音とは違う、かすかな物音が聞こえていた。
シラスは剣の柄を握り直す。
「……誰かいる」
鈴の顔から笑みが消えた。
二人は視線を交わし、崩れた入口の向こうへ意識を集中させる。
長い年月の中で忘れられたはずの施設。
そこには、今も誰かが足を踏み入れている。
そして、その理由はまだ分からなかった。




