移管記録の行方
フェルンの朝は、静かだった。
宿屋の窓から差し込む光が、木製の床に細長い帯を作っている。通りからは荷車の車輪が石畳を転がる音と、店先で商品を並べる人々の声が聞こえてきた。
かつて街道の物流を支えていた町も、今では往時の賑わいを失っている。それでも、人々の暮らしは続いていた。
シラスは窓の外を一瞥してから、テーブルの上に広げた紙片へ視線を戻した。
昨日、オスカー・ベルンから見せられた古い管理記録。その中に残されていた、東部集積所に関する番号だった。
関連文書は別管理。
そして、用途が変更された際に、いくつかの書類が別の施設へ移されたという記録。
肝心の移管先は、まだ分かっていない。
「シラス、朝ご飯が冷めちゃうよ」
向かい側から声がした。
鈴が皿を抱えたまま、じっとこちらを見ている。白い髪は左右の低い位置で二つに結ばれ、寝起きのせいか、頬の横には少しだけ乱れた毛束が残っていた。
「考え事をしていただけだ」
「それ、昨日も言ってた」
「昨日も考え事をしていたからな」
「そういうところ、ほんとに変わらないね」
鈴は小さく頬を膨らませた。
その視線が、シラスの手元にある紙片へ移る。
「その番号、今日も調べるの?」
「ああ。オスカーが約束どおり調べてくれていれば、何か分かるはずだ」
「どこに書類が移されたのか、分かるといいね」
「そうだな。ただ、見つかったとしても、それで終わりとは限らない」
「どうして?」
「書類が移された先に、目的の記録が残っているとは限らないからだ。移管の途中で別の場所へ移された可能性もあるし、そもそも処分されているかもしれない」
「……朝から夢のない話」
「期待しすぎるよりはいい」
「でも、期待しないと見つかったときに嬉しくないよ?」
鈴の言葉に、シラスは一瞬だけ黙った。
確かに、彼女の言うことにも一理ある。
「好きに期待していろ」
「うん。じゃあ、見つかるって期待しておくね」
鈴は満足そうに笑い、ようやく朝食に手をつけた。
シラスはそんな彼女を見て、小さく息を吐く。
期待することそのものを否定するつもりはない。
ただ、期待が裏切られたときに、彼女が必要以上に落胆する姿を見たくなかった。
それを口にするつもりはなかったが。
「……シラス?」
「何でもない。食べたら役所へ向かうぞ」
「分かってる。あ、それと」
「何だ?」
「今日はお昼もちゃんと食べようね」
「調査が長引けばな」
「長引いても食べるの!」
鈴の声が宿屋の食堂に響いた。
隣の席にいた旅人が、思わずこちらを振り返る。
シラスは何事もなかったかのようにパンを口へ運んだ。
朝から騒がしい。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
◇
役所に到着すると、昨日と同じ受付係が二人を出迎えた。
シラスが用件を伝えると、職員は奥の事務室を指し示した。
「ベルンさんでしたら、すでにお待ちです。昨日の件について、確認できたことがあるそうです」
「そうか。助かる」
「ただし、すべての記録が見つかったわけではありません。その点は、あらかじめご了承ください」
「分かっている」
シラスは鈴と目を合わせ、事務室へ向かった。
扉を叩くと、中から落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
室内では、オスカーが机いっぱいに古い台帳を広げていた。
昨日見たものよりも分厚い。背表紙の革はひび割れ、何度も修繕された跡がある。紙の端には年月を経た黄ばみが浮かんでいた。
「来たか。待たせてすまない」
「いえ。調べていただいただけでも十分です」
「礼は、役に立つ情報が見つかってからにしてくれ」
オスカーは眼鏡の位置を直し、台帳の一冊を二人の前へ滑らせた。
「昨日の管理番号をもとに、施設の用途変更に関する記録と、書類の移管記録を照合した。番号の体系が途中で変更されていたせいで、少し時間がかかったがな」
「何か分かったんですか?」
鈴が身を乗り出す。
オスカーは彼女の勢いにわずかに目を細めたが、咎めることはしなかった。
「ああ。東部集積所に保管されていた文書の一部は、閉鎖の際に別の管理施設へ移されたらしい」
「別の管理施設……」
「ただし、移管先の名称は、現在使われている地名では記されていない。当時の施設番号と旧称だけだ」
オスカーは台帳の中央を指で示した。
そこには、いくつかの番号と短い文章が並んでいた。ところどころ文字が薄れ、後から書き直されたらしい箇所もある。
シラスは記載を慎重に追った。
東部集積所。
用途変更。
関連文書の移管。
そして、その横に記された別の管理番号。
「この番号が、移管先の施設を示しているんですか?」
「そう考えるのが自然だ。ただし、断定はできない。旧式の番号には、施設そのものではなく、管理部門を示すものもある」
「つまり、番号だけでは場所が分からない?」
「そういうことだ」
オスカーは別の台帳を開いた。
「そこで、当時の施設管理表も調べた。だが、こちらは欠落が多い。すべての施設が記録されているわけではないし、名称が変わったものもある」
「それでも、何か手掛かりはあったんですね」
シラスが尋ねると、オスカーは一枚の紙を取り出した。
「旧称の一つが、フェルンの北側にあった施設の記録と一致した」
鈴の表情が明るくなる。
「じゃあ、近くにあるんですか?」
「近くにあった、というだけだ。現在も同じ場所に施設が残っているかは分からない」
オスカーは淡々と訂正した。
「当時の記録によれば、そこは一般的な倉庫ではなかったらしい。物資の一時保管と、受領記録の整理を行うための施設だったようだ」
シラスの目が細くなる。
一時保管。
受領記録の整理。
これまでに見つけた書類の内容と、無関係とは思えなかった。
だが、それだけで同じものだと決めつけることはできない。
「その施設に、今回探している記録が移された可能性は?」
「ある。しかし、移管記録には文書の種類までは書かれていない。箱単位でまとめて移したのか、特定の書類だけを移したのかも不明だ」
「実際に行って調べるしかない、ということですね」
「そうなるな」
オスカーは別紙に記された古い名称を示した。
「記録上の呼び名は『北部整理所』だ。少なくとも、この町の管理記録ではそう呼ばれていた」
鈴がその名前を口の中で繰り返す。
「北部整理所……。今もそう呼ばれているのかな?」
「おそらく違うだろう。施設が使われなくなった後、土地の用途が変わった可能性もある」
「じゃあ、どうやって探すの?」
「そこが次の問題だ」
シラスは台帳から目を離さずに尋ねた。
「北部整理所の所在地を示す地図は残っていませんか?」
「古い地図ならある。ただ、当時の地図は現在の町の区画と一致しない部分が多い。川の流れが変わった場所もあるし、道そのものが消えているところもある」
オスカーは机の脇から巻かれた地図を取り出した。
「これが、当時の施設配置を記録した地図だ。閲覧は構わないが、持ち出しは認められない」
「十分です」
シラスは地図を受け取り、机の上に広げた。
フェルンの町を示す区画から北へ伸びる古い道。その先に、小さな四角形がいくつか描かれている。
その一つに、薄れた文字で「北部整理所」と記されていた。
位置は、現在の町の中心から歩いて一時間ほどの距離に見える。
だが、途中には川と、現在の地図には載っていない道があった。
「この道は今も通れますか?」
「一部は残っているはずだ。ただし、北へ向かうほど整備されていない。地元の者でも、普段はあまり近づかない場所だ」
「危険な場所なんですか?」
鈴の問いに、オスカーは少し考えた。
「危険というより、行く理由がない場所だな。古い建物が残っているという話は聞くが、管理されていない土地も多い。足場が崩れている可能性はある」
「なるほど……」
鈴は地図を覗き込みながら、真剣な顔で頷いた。
シラスは道筋を確認し、分岐点と川の位置を頭に入れた。
「この地図のほかに、施設の閉鎖後について記した記録はありますか?」
「残念だが、まだ見つかっていない。今回確認できたのは、移管先の旧称と、おおよその位置までだ」
「それでも十分な進展です。ありがとうございます」
シラスが頭を下げると、オスカーはわずかに表情を和らげた。
「調査を続けるなら、無理はしないことだ。古い施設は、記録に残っている姿のままとは限らない」
「肝に銘じておきます」
「それと、もう一つ」
オスカーが二人を呼び止めた。
「北部整理所が何を保管していたのか、私にも確かなことは分からない。今回の記録だけで、何か不正があったと考えるのは早計だ」
シラスは彼の目を見た。
「分かっています。俺たちが探しているのは、まず記録そのものです」
「ならいい」
オスカーは台帳を閉じ、慎重に元の場所へ戻した。
「見つかったものが何を示しているのか。それは、実際に確認してから判断すればいい」
その言葉を最後に、二人は事務室を後にした。
◇
役所を出ると、鈴はすぐにシラスの隣へ並んだ。
「ねえ、次は北部整理所へ行くんだよね?」
「そのつもりだ」
「何が残っているのかな。古い書類とか、倉庫とか……もしかしたら、すごく大事なものが眠っているかもしれないよね」
「ただの空き地になっている可能性もある」
「……シラスって、どうしてそういうことばかり言うの?」
「可能性を考えているだけだ」
「もう少し、わくわくする可能性も考えようよ」
「建物が残っていて、屋根が落ちていない可能性なら考えている」
「それ、全然わくわくしない!」
鈴は頬を膨らませた。
シラスは口元が緩みそうになるのを抑えながら、地図を懐へしまった。
「行く前に準備が必要だ。水と食料、それから足場を確認するための道具もいる」
「分かった。買い物だね!」
「必要な物だけだぞ」
「もちろん!」
即答だった。
シラスは疑わしそうに彼女を見た。
「……本当に分かっているのか?」
「分かってるってば。必要な物だけ。例えば、パンと干し肉と水と、それからお菓子」
「最後のは必要な物に含まれない」
「長い道を歩くんだから、甘いものも必要だよ!」
「それはお前の希望だろう」
「シラスだって、昨日のお菓子を食べてたじゃない!」
「食料の確認をしただけだ」
「食べたんだね?」
「……少しな」
鈴は勝ち誇ったように笑った。
「じゃあ、今日も必要だね!」
シラスは反論を諦めた。
少量なら、持っていっても問題はない。
問題は、彼女がその少量をどこまで拡大解釈するかだが。
◇
買い物を終えた二人は、宿屋へ戻って地図をもう一度確認した。
北部整理所へ向かう道は、町の北門を出てから古い街道を進み、途中で川沿いの道へ入るらしい。そこから先は地図の記載も曖昧で、現在の道がどこまで残っているのか分からなかった。
シラスは道具袋の中身を確かめ、必要な物を順番に並べていく。
鈴もその隣で、買ってきた食料を小分けにしていた。
「ねえ、これって全部持っていくの?」
「必要な分だけだ。残りは宿に置いていく」
「じゃあ、このお菓子は?」
「……持っていけ」
「やった!」
嬉しそうな声が上がった。
「ただし、道中で全部食べるなよ」
「分かってるよ。ちゃんと大事に食べるもん」
「その言葉を信じておく」
鈴は菓子袋を大切そうにしまい込んだ。
その様子を見ながら、シラスは地図へ目を戻した。
北部整理所。
移管された記録が、今も残っている保証はない。
そこへ行けば、これまでの手掛かりが一つにつながるのか。それとも、新たな疑問が増えるだけなのか。
まだ分からないことばかりだった。
それでも、進むべき方向は見えている。
東部集積所から移された文書。
受領記録と照合記録。
そして、複数の記録に残されていた、円に二本の線を交差させたような印。
それらが何を意味するのか、今はまだ断定できない。
だからこそ、実物を確かめる必要があった。
「シラス」
鈴が声をかけてきた。
「明日は早く出発するんだよね?」
「ああ。道の状態が分からないから、日が高いうちに現地へ着きたい」
「じゃあ、今日は早く寝よう」
「そうだな」
シラスは地図を丁寧に巻き、道具袋の横へ置いた。
鈴は満足そうに頷くと、窓の外へ目を向けた。
フェルンの北側には、古い建物が点在する土地が広がっている。
長い年月の中で忘れられ、地図からも少しずつ姿を消していった場所。
そのどこかに、探している記録が残されているかもしれない。
翌朝、二人は北部整理所へ向かう。
まだ誰も答えを知らない記録の行方を確かめるために。




