忘れられた町の管理人
フェルンの門をくぐると、シラスはまず通りの様子を観察した。
町は静かだった。
石畳の道沿いには、古い倉庫や商人向けの建物が並んでいる。二階建ての建物もあれば、屋根の一部が崩れたまま放置されているものもあった。壁には長年の雨風による染みが広がり、閉ざされた窓の隙間からは草が伸びている。
それでも、完全に人がいなくなったわけではない。
通りの向こうでは、年配の女性が店先に野菜を並べていた。荷車を押す男が二人、何かを話しながら歩いている。小さな鍛冶屋からは、金属を打つ音も聞こえた。
町は衰退している。
だが、ここで暮らし続けている人々がいるのだ。
「思っていたより、人がいるな」
シラスが言うと、ローデンはうなずいた。
「昔のような賑わいはないが、完全に廃れたわけじゃない。街道が使われなくなっても、ここで生まれ育った人間まで、簡単にいなくなるわけじゃないからな」
「それもそうか」
鈴は通りの両側を興味深そうに見回していた。
「ねえ、あそこにパン屋があるよ」
「見れば分かる」
「いい匂いがする……」
「さっき食べただろう」
「もうお腹が空いたの!」
「お前の胃袋は底なしなのか?」
「失礼ね! ちゃんと限界はあるよ!」
「その限界を見たことがないんだが」
「シラスの意地悪!」
ローデンが小さく笑った。
「先に宿を探そう。荷物を置いてからなら、食事をする時間もある」
「本当!?」
鈴の表情がぱっと明るくなった。
「ローデンさん、話が分かるね!」
「食事の話をしただけで、そこまで評価が上がるとは思わなかったな」
「シラスと違って、優しい人だよ!」
「……そうか」
シラスは何も言い返さず、歩き始めた。
鈴は満足そうにその後ろをついていく。
町の中央に近づくと、古い倉庫の数が増えてきた。大きな扉には錆びた金具が取り付けられ、建物の前には荷車が通った跡が残っている。
しかし、ほとんどの倉庫は閉ざされていた。
ローデンは一つの建物を見上げ、しばらく黙っていた。
「ここも、ずいぶん変わったな」
「昔、来たことがあるのか?」
「フェルンそのものに来たことはない。ただ、以前の仕事で、この町の倉庫について書かれた報告書を読んだことがある」
「実際に見たわけじゃないんだな」
「ああ。だから、知ったかぶりはしない」
ローデンは苦笑した。
「ただ、昔はこの辺りに荷物を管理する施設がいくつもあったらしい。商隊が運んできた品を一時的に保管し、別の商隊へ引き渡す。そういう場所だったと聞いている」
「なら、記録を保管する場所もあったはずだ」
「その可能性はある。だが、倉庫と記録を管理する施設は別だったかもしれない」
シラスはうなずいた。
まずは、町に残された建物と、現在の管理状況を調べる必要がある。
やがて三人は、通りの角にある小さな宿屋を見つけた。
建物は古いものの、入口の扉はきれいに手入れされていた。窓辺には鉢植えが置かれ、看板には宿の名前が記されている。
シラスは看板を確認してから、扉を開けた。
室内には、木の床と小さな受付があった。奥からは煮込み料理の匂いが漂っている。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
受付に座っていた中年の女性が顔を上げた。
「三人だ。空いている部屋はあるか?」
「部屋ならあるよ。ただ、うちは高級宿じゃないからね。食事も普通のものしか出せないよ」
「十分だ」
「それなら、一人一泊で銀貨二枚。食事は別料金だ」
シラスは条件を確認し、必要な金額を支払った。
部屋の鍵を受け取ると、女性は三人を見比べた。
「旅の人かい? この町に何か用事でも?」
「古い街道について調べている」
シラスは慎重に答えた。
「以前、この町に荷物を管理する施設があったと聞いた。その場所を知りたいんだ」
女性は少し考え込んだ。
「荷物を管理する施設……。昔の倉庫のことかね?」
「それも含めて、記録を保管していた場所を探している」
「そういうことなら、町の管理所へ行ってみるといい。古い建物や土地の管理は、今でもそこが担当しているはずだよ」
「管理所か」
「町の広場を北へ進めば、石造りの建物がある。入口に古い鐘が掛かっているから、すぐ分かるさ」
「助かる」
シラスが礼を言うと、女性は鈴へ視線を向けた。
「そっちのお嬢ちゃんは、ずいぶん疲れているみたいだね。食事はどうする?」
「食べます!」
鈴は即答した。
シラスは思わず彼女を見た。
「……さっき、もう食べられないと言っていなかったか?」
「そんなこと言ってないよ!」
「限界があるとも言っていたな」
「今はまだ限界じゃないの!」
受付の女性が声を上げて笑った。
「元気でいいね。温かいスープも出せるから、あとで食べにおいで」
「ありがとうございます!」
鈴は嬉しそうに頭を下げた。
部屋に荷物を置いた三人は、短い休憩を取ったあと、町の管理所へ向かった。
広場は小さかったが、中央には古い井戸があり、周囲には何軒かの店が並んでいた。町の人々が行き交い、荷車がゆっくりと石畳を進んでいる。
北側に目を向けると、確かに古い鐘を掲げた石造りの建物があった。
入口の扉は重く、壁には過去の修繕跡がいくつも残っている。
シラスが扉を叩くと、中から返事があった。
「どうぞ」
室内には書類棚が並び、机の上には何冊もの帳簿が積まれていた。
窓際では、四十代ほどの男性が書類を整理していた。灰色がかった茶髪を短く整え、袖をまくったシャツを着ている。
男は三人を見ると、手元の書類を置いた。
「何かご用ですか?」
「古い街道の管理記録について調べたい」
シラスが答えた。
「特に、フェルンで荷物を保管していた施設と、当時の記録の保管先を知りたいんだ」
男は少し眉を上げた。
「かなり古い時代の話ですね。何年ごろの記録をお探しですか?」
「正確な年代は、まだ分からない。ただ、古い東方街道が使われていたころのものだ」
「なるほど……」
男は机の端に置かれた帳簿を一冊開いた。
「私は町の管理を担当している、オスカー・ベルンです。土地や建物の登録、町の施設に関する記録などを管理しています」
「シラス・ナハトだ。こちらは鈴、そしてローデン」
ローデンは軽く頭を下げた。
オスカーは三人を見比べたあと、机の上に紙を一枚広げた。
「まず、誤解のないように説明しておきます。町の管理所に残っているのは、主に土地や建物の記録です。商隊が運んだ荷物の詳細や、受け渡しの記録まで、すべて保管しているわけではありません」
「それでも、古い施設の所在が分かれば十分だ」
「でしたら、調べられると思います。ただし、すべての記録が残っているとは限りません」
オスカーは棚から古い台帳を取り出した。
「この町も、管理する人間が何度か変わっています。使われなくなった施設の記録は、整理されたものもあれば、別の帳簿へ移されたものもあります。建物が取り壊された場合には、土地の記録だけが残っていることもあります」
「なるほど」
シラスは台帳を見つめた。
ローデンが横から口を開く。
「昔、荷物の集積に使われていた倉庫や、商隊の受け渡しを管理する施設について、記録は残っていますか?」
「倉庫についてなら、いくつかあります。ですが、荷物の管理を専門にしていた施設となると、別の記録を確認する必要があるでしょう」
「その記録はどこに?」
「まずは、この台帳で当時の施設を特定します。そのうえで、関連する管理記録が残っていれば、そちらを調べることになります」
オスカーは淡々と説明した。
手続きを省いて、いきなり目的の記録を出してくれるわけではないらしい。
しかし、シラスにとっては好都合だった。
ここで必要なのは、曖昧な噂ではなく、実際に残っている記録だ。
「お願いします」
シラスが答えると、オスカーはうなずいた。
「少し時間をください。古い台帳を確認します」
彼はページをめくり始めた。
室内には、紙の擦れる音だけが響いた。
鈴は邪魔にならないよう、シラスの隣で静かに待っていた。時折、棚に並ぶ帳簿へ視線を向けている。
やがて、オスカーの指が一つの項目で止まった。
「……これか」
彼は古い台帳を机の中央へ移した。
「フェルンには、かつて東部集積所と呼ばれる施設があったようです。町の東側にある倉庫群とは別に、荷物の受け渡しや一時保管を管理する建物が登録されています」
シラスの目が鋭くなった。
「今も残っているのか?」
「建物そのものは、現在の登録では用途変更となっています。正確な状態は、現地を確認しないと分かりません」
「記録は?」
「施設の登録に関する記録は残っています。ただ、商隊の帳簿までここに保管されているかは、別の話です」
オスカーは該当箇所を指さした。
そこには、東部集積所という名称と、古い地番らしき数字が書かれていた。
さらに、その下には小さな注記があった。
――関連文書、別管理。
シラスは、その文字をじっと見つめた。
「別管理……。つまり、関連する文書は別の場所にある可能性がある?」
「その解釈で間違いないと思います。ただ、どこへ移されたのかまでは、この台帳には記されていません」
オスカーは別の帳簿を探し始めた。
「移管記録が残っていれば、保管先を確認できるかもしれません。少しお待ちください」
シラスは静かにうなずいた。
ローデンも台帳をのぞき込み、古い地番を目で追っている。
鈴は二人の様子を見てから、小さな声で尋ねた。
「ねえ、東部集積所って、どんな場所だったんだろう?」
「荷物を一時的に保管し、別の商隊へ引き渡すための施設だったんだろう」
ローデンが答えた。
「ただし、名前だけでは詳しい役割までは分からない。実際に残っている記録を見て確かめる必要がある」
「そっか……」
鈴は台帳の文字を見つめた。
「でも、少しずつ進んでいるね」
「ああ」
シラスは答えた。
ここへ来るまで、彼らが持っていたのは断片的な記録と、いくつかの手掛かりだけだった。
今は、調べるべき施設の名前が分かった。
まだ原記録の保管先は不明だが、少なくとも、次に何を確認すればいいのかは見えてきた。
オスカーが別の帳簿を机に置いた。
「こちらに、古い施設の管理変更を記録した台帳があります。東部集積所についても、何か残っているかもしれません」
彼はページを開き、ゆっくりと目を走らせた。
そして、ある箇所で手を止めた。
「……少し気になる記載がありますね」
シラスは身を乗り出した。
「何が書いてある?」
オスカーは該当箇所を確認しながら答えた。
「東部集積所の用途変更に伴い、関連文書の一部を別施設へ移した、とあります。ただし、移管先の名称が、この台帳には記されていません」
「移管先が分からないのか?」
「ええ。ここには、別の管理番号が記されているだけです」
オスカーはその数字を紙に書き写した。
シラスは数字を見つめた。
また、番号だ。
水門の冊子に残されていた参照番号と同じものかどうかは、まだ分からない。しかし、文書が移されたことを示す記録が見つかったのは大きな進展だった。
「この番号を調べることはできるか?」
「古い移管台帳が残っていれば可能です。ただ、ここにある記録だけでは判断できません。別の帳簿を探す必要があります」
オスカーは紙を丁寧に折り、シラスへ渡した。
「明日までに、関連する台帳が残っていないか確認してみます。何か分かれば、お知らせしましょう」
「助かる」
シラスは礼を言った。
管理所を出るころには、昼の光が町の建物を明るく照らしていた。
鈴は外へ出ると、両腕を大きく伸ばした。
「ふう……。ずっと座って待っているのも、意外と疲れるね」
「何もしていなかっただろう」
「何もしていないから疲れたんだよ!」
「……そういうものなのか?」
「そういうものなの!」
ローデンが笑った。
「まあ、少し歩こう。明日の返事を待つ間に、町の様子を見ておくのも悪くない」
シラスはうなずいた。
東部集積所の跡地。そして、別の施設へ移された関連文書。
次に調べるべき場所は、確実に絞られつつある。
ただし、番号が示す先に何があるのかは、まだ分からない。
シラスは紙を外套の内側へしまい、町の東側へ視線を向けた。
忘れられた集積地フェルン。
この町には、まだ過去の記録が眠っている。
そして、その記録を追う者が自分たちだけとは限らないことを、彼は忘れていなかった。




