忘れられた集積地
洞穴を出るころには、太陽はすでに高く昇り始めていた。
シラスは最後に周囲を確認し、川辺に新しい足跡がないことを確かめてから、外套の襟を整えた。
数時間の休息で疲労は多少和らいだものの、十分とは言えない。剣を握る腕にはまだ重さが残り、眠気も完全には消えていなかった。
それでも、立ち止まり続けるわけにはいかない。
「フェルンまでは、どれくらいだ?」
地図を広げていたローデンに尋ねる。
「この道を進めば、今日中に町の近くまで行けるはずだ。ただ、旧街道の状態によっては遅れるかもしれない」
「また曖昧な答えだな」
「正確な距離を知りたいなら、道を測ってくれる人間を雇えばいい」
「そんな余裕があるように見えるか?」
「見えないな」
ローデンは地図を畳んだ。
鈴は二人のやり取りを聞きながら、持っていた小さな包みを開いた。中には、昨夜のうちに残しておいたパンが二つ入っている。
「ねえ、出発する前に食べようよ。歩きながらだと、またシラスに取られそうだし」
「人聞きの悪いことを言うな」
「だって、前に私のパンを取ったでしょ?」
「お前が食べきれないと言ったからだ」
「一口だけって言ったのに、半分も食べた!」
「一口ではなかったな」
「認めた!」
鈴がパンを胸元に抱え込む。
ローデンは呆れたように二人を見た。
「……お前たち、食べ物のことでよくそこまで揉められるな」
「これは大事な問題なの!」
鈴が真剣な顔で言い切った。
シラスは肩をすくめた。
「食べ物を粗末にするわけにはいかないからな」
「だったら、自分の分だけ食べてよ!」
「次からはそうする」
「本当?」
「たぶんな」
「絶対に信用できない!」
鈴は警戒するようにパンを一口かじった。
その様子に、ローデンが小さく笑う。
「……まあ、食欲があるのはいいことだ」
シラスも否定はしなかった。
食べられるときに食べ、休めるときに休む。それは旅を続けるうえで欠かせないことだった。
三人は簡単に食事を済ませると、フェルンへ向けて歩き始めた。
旧街道は、川から離れるにつれて緩やかな丘陵地帯へと入っていった。
道の両側には背の高い草が生い茂り、ときおり古い石柱や崩れた壁が姿を現す。かつては荷車が頻繁に行き交っていたのだろう。道幅は広いが、石畳の多くは割れ、隙間から草が伸びていた。
ところどころに、車輪が通った跡らしき窪みが残っている。
しかし、それもかなり古いものだった。
「この道を使う商隊は、今ではほとんどいないのか?」
シラスが尋ねた。
「ああ。少なくとも、俺が知る限りではな」
ローデンは周囲を見渡した。
「昔は東西の荷物を運ぶために使われていたが、新しい街道が整備されてから、少しずつ利用者が減っていった。橋や宿場の修繕も後回しになり、やがて商隊は別の道を選ぶようになった」
「つまり、特別な理由があって封鎖されたわけじゃない?」
「少なくとも、俺はそう聞いている。通るには不便で、危険も多い。それなら、多少遠回りでも整備された道を使う方がいい」
ローデンは淡々と説明した。
「古い道が使われなくなる理由なんて、たいていはそんなものだ。すべてに裏があると思わない方がいい」
「分かっている」
シラスは道の先を見た。
彼も、すべてを陰謀に結びつけるつもりはなかった。
ただ、ラヴェンヌで見つけた記録と、宿場跡の書類。そして水門の冊子に残された注記。それらが示すものを確かめる必要がある。
古い街道が衰退した理由と、記録の食い違いは別の問題かもしれない。
だからこそ、実際に残された資料を追うしかなかった。
しばらく歩くと、鈴が道端にある石柱の前で立ち止まった。
「これ、何だろう?」
石柱の表面には、風雨で削られた文字が刻まれている。上部は欠けていたが、下の方にはいくつかの線が残っていた。
鈴は顔を近づけ、目を細めた。
「文字があるよ。ほとんど読めないけど……」
「昔の道標だろう」
ローデンが答えた。
「町や宿場までの距離を示すために置かれていたものだ。ここから先にも、似たものが残っているはずだ」
「じゃあ、フェルンまでの距離も書いてあったのかな?」
「そうかもしれないな。ただ、今となっては読めない」
鈴は残念そうに石柱を見つめた。
「昔の人は、どうしてもっと分かりやすく書かなかったんだろう」
「当時は読めたんだろう」
シラスが答える。
「今の俺たちが読めないだけだ」
「……それはそうだけど」
「それに、文字が残っているだけでも幸運だ。石柱そのものが倒れていたら、何も分からなかったかもしれない」
鈴は少し考えてから、うなずいた。
「そっか。じゃあ、これも大事な手掛かりだね」
「道を示すという意味ではな」
「もう。シラスって、すぐに現実的なことを言うんだから」
「現実を無視して旅を続けられるほど、俺は器用じゃない」
鈴は小さく笑い、再び歩き始めた。
昼を過ぎたころ、三人は小さな橋にたどり着いた。
橋は石造りで、幅は荷車が一台通れる程度しかない。欄干の一部は崩れ、中央付近には大きな亀裂が走っていた。下には細い水路があるが、水量は少なく、底には乾いた泥が広がっている。
ローデンは橋の手前で足を止めた。
「ここは慎重に進んだ方がいい」
「渡れるのか?」
「一人ずつなら、おそらくな。荷車が通らなくなった理由の一つも、これだろう」
シラスは橋の表面を確かめた。
石はところどころ浮いており、踏み方を誤れば崩れる可能性がある。向こう岸までは短い距離だが、油断はできない。
「鈴、俺の後ろを歩け。石が浮いている場所には足を置くな」
「分かった」
「ローデンは最後だ。俺たちが渡ってから続いてくれ」
「了解した」
シラスは先に橋へ足を踏み入れた。
石の状態を確かめながら、ゆっくりと進む。中央付近まで来たところで、足元から小さな音がした。
石が動いた。
「止まれ」
シラスはすぐに後ろへ手を伸ばした。
鈴は驚いて足を止める。
「どうしたの?」
「そのまま動くな。右足の前にある石を踏むな」
鈴は足元を見た。
彼女の右足のすぐ前には、亀裂の入った石があった。踏み込めば、崩れる可能性がある。
「……危なかった」
「焦るな。左側に、まだ使えそうな石がある。そこへゆっくり足を置け」
シラスは自分の足元を示した。
鈴は慎重に体重を移し、指示された場所へ足を置く。
石はわずかに沈んだものの、崩れなかった。
「よし。そのまま進め」
二人は時間をかけて橋を渡り切った。
最後にローデンも続き、三人が向こう岸へ着いたところで、橋の中央から乾いた音が響いた。
石の一部が崩れ、水路へ落ちていく。
鈴は思わず振り返った。
「……今の、私が渡っているときに崩れていたら」
「考えない方がいい」
シラスが静かに言った。
「だが、次からは足元だけじゃなく、周囲もよく見ることだ」
「うん。気をつける」
鈴は素直にうなずいた。
ローデンは橋を振り返り、短く息を吐いた。
「こういう場所が増えたから、商隊は新しい道を選ぶようになったんだ。古い道を維持するには金がかかる。利用する者が減れば、修繕する理由もなくなる」
「そして、記録だけが残る」
シラスが言った。
「……そういうことだな」
ローデンは静かに答えた。
その言葉が、シラスの頭に残った。
道が使われなくなっても、そこを通った人間や荷物の記録まで、すぐに消えるわけではない。
人々が忘れた場所にも、過去の痕跡は残っている。
フェルンに向かう理由は、少しずつ明確になりつつあった。
やがて、丘の向こうに建物の屋根が見え始めた。
最初は小さな影にすぎなかったが、進むにつれて、いくつもの建物がまとまっているのが分かった。
周囲には低い石壁があり、その内側には大きな倉庫らしき建物が並んでいる。屋根の一部は崩れ、窓が板で塞がれた建物もあった。
それでも、町の中央付近には人の姿が見える。
「あれがフェルンか?」
シラスが尋ねた。
「ああ。昔は、もっと多くの商隊が出入りしていたらしい」
ローデンは目を細めた。
「俺が最後に聞いた話では、古い倉庫の一部はまだ使われていたはずだ。ただ、今も同じかどうかは分からない」
「なら、まずは町の様子を確認しよう。記録の保管先を知っている人間がいるかもしれない」
「そうだな。ただし、あまり大っぴらに聞き回るのは避けた方がいい」
ローデンの表情が真剣になった。
「俺たちが探している記録に、どれだけの価値があるのかは分からない。だが、宿場跡で襲ってきた連中がいる以上、慎重に動くべきだ」
シラスはうなずいた。
鈴も、いつになく真面目な顔で二人の話を聞いていた。
「私も気をつける。勝手に何かを触ったりしないから」
「それは助かる」
「……シラス、今、少し疑ってたでしょ?」
「気のせいだ」
「絶対に気のせいじゃない!」
ローデンが小さく笑った。
三人は旧街道を進み、フェルンの入口へと向かった。
近づくにつれて、町の様子がはっきりしてきた。
門は木製で、塗装が剥がれている。門番は一人しかおらず、脇には古い荷車が放置されていた。門の内側には、使われなくなった倉庫がいくつも並び、通りには雑草が伸びている。
しかし、すべてが廃墟になったわけではない。
小さな食料品店や修理屋が営業しており、荷物を積んだ馬車も一台だけ停まっていた。人々は少ないながらも、日常の営みを続けている。
シラスは門の前で立ち止まり、町を見渡した。
ここに、原記録が残っている可能性がある。
ただし、何が見つかるのかは分からない。記録が失われているかもしれないし、保管先を知る者がすでに町を離れているかもしれない。
それでも、ここまで来た以上、確かめずに帰るわけにはいかなかった。
「まずは宿を探そう」
シラスが言った。
「情報を集めるにしても、町の人間と話すなら、少し休んでからの方がいい」
「賛成。私、お腹も空いたし」
鈴が即座に答えた。
「……さっきパンを食べただろう」
「あれだけじゃ足りないよ!」
「よく走り、よく食べるな」
「誰かさんが私のパンを取るからでしょ!」
「まだその話をしているのか」
「忘れるわけないでしょ!」
ローデンは二人を見ながら、苦笑した。
「フェルンに着く前から、ずいぶん賑やかだな」
「こいつが騒がしいだけだ」
「シラスも意地悪だよ!」
鈴の声が、古い町の入口に響いた。
その声に、門の近くにいた何人かが振り返る。
シラスは小さくため息をついた。
「……頼むから、目立つのは町の中に入ってからにしてくれ」
「もう遅いよ」
ローデンの指摘に、シラスは返す言葉を失った。
三人はそのまま門をくぐった。
忘れられた集積地、フェルン。
ここに残された記録が、彼らをどこへ導くのか。
その答えは、まだ町の片隅に眠っていた。




