記録をめぐる取引
朝日が山の稜線から顔を出すころ、シラスたちは川沿いの道を離れ、岩場の陰へと移動していた。
水門から十分ほど離れた場所に、小さな洞穴があった。入口は低く、周囲を灌木に覆われている。外からは見つけにくく、内部も三人が腰を下ろすには十分な広さがあった。
ローデンが以前から知っていた場所らしい。
「ここなら、しばらくは人目につかないはずだ」
「しばらく、か」
シラスは入口から外を確認しながら答えた。
「どうしても、その言い方が気になるな」
「安全を保証できない場所で、保証できるようなことは言わない。それだけだ」
「……正直なのは結構だが、もう少し安心できる説明をしてほしいものだ」
「なら、町の宿屋に泊まればよかっただろう」
「追手がいなければ、そうしていた」
シラスが洞穴の奥へ目を向けると、鈴はすでに岩の上に座り込んでいた。
「もう歩けない……」
「さっき、体力をつけると言ったばかりだぞ」
「それは次の話! 今は休憩!」
「都合のいい体力だな」
「シラスだって疲れてるでしょ!」
「否定はしない」
シラスは剣を手の届く位置に置き、鈴の隣に腰を下ろした。
彼女の白い髪には、まだ細かな砂埃がついていた。二本の低い coletas が少し乱れ、結び目からこぼれた髪が頬にかかっている。
鈴はそれに気づくと、指で髪を整え始めた。
「……ねえ、私の髪、変になってない?」
「多少な」
「多少ってどのくらい?」
「今まで見た中で、一番ひどい」
「そんなに!?」
鈴は慌てて両手で髪を押さえた。
「うそだ」
「シラス!」
抗議の声が洞穴に響いた。
ローデンが呆れたように二人を見た。
「お前たちは、こんな状況でもよくやり取りができるな」
「こいつが勝手に騒ぐんだ」
「シラスが意地悪を言うからでしょ!」
「なるほど。原因は分かった」
「どっちの味方なの!?」
鈴の問いに、ローデンは答えず、荷袋から水筒を取り出した。
「まずは水を飲め。話はそれからだ」
鈴は水筒を受け取り、勢いよく飲もうとして、途中でむせた。
「ごほっ……!」
「急ぐな。誰も取らない」
シラスが水筒を支える。
「……分かってるよ」
鈴は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
ようやく落ち着くと、ローデンは洞穴の入口を確認し、声を低くした。
「さて。約束の話をしよう」
シラスの表情が引き締まった。
「記録のことか」
「ああ。お前たちが持っているものを見せてほしい」
「その前に、あんたの知っていることを聞かせてもらおう」
ローデンは予想していたようにうなずいた。
「いいだろう。俺が以前、商隊の荷物を管理していたことは話したな」
「聞いた」
「当時の仕事は、荷物の数量と受け渡しの確認、それから各地の通過記録を照合することだった。商隊がどこを通り、どこで荷物を引き渡したのか。そうした記録を整理して、商会へ報告していた」
「つまり、今回のような記録の食い違いを調べる仕事だったわけか」
「そうだ。ただし、俺が扱っていたのは、あくまで一つの商隊と、その取引に関する記録だ。国の公文書や軍の記録まで扱っていたわけじゃない」
ローデンは慎重に付け加えた。
「だから、すべての記録について知っているわけではない。そこは勘違いしないでくれ」
「分かった。続けてくれ」
「ある時期から、受け渡しの記録に不自然な食い違いが見つかるようになった。荷物が届いたと記されているのに、受け取り側の記録には何もない。反対に、受け取った記録があるのに、送り出した側の帳簿には出荷の記載がない」
鈴が首を傾げた。
「書き忘れたとか、間違えたとかじゃないの?」
「最初はそう考えた。実際、記入ミスや転記の間違いは珍しくなかったからな」
ローデンは膝の上で手を組んだ。
「だが、何度か照合しても、説明がつかない記録が残った。別々の場所にある記録が、それぞれ違うことを示していたんだ」
「それで、原因は分かったの?」
「分からなかった。俺が調べられた範囲ではな」
シラスは黙って聞いていた。
ラヴェンヌの資料にあった、同じ商隊が同じ日に遠く離れた二つの地点で記録されていたという異常。今回の帳簿も、その問題と関係している可能性がある。
しかし、まだ同じ原因によるものだとは言い切れない。
「その記録は、どうなった?」
「一部は商会へ報告した。だが、すべてが正式な調査に回されたわけじゃない。古い帳簿の中には、確認が終わらないまま保管されたものもあった」
「なぜ、調査を続けなかった?」
ローデンは少しだけ視線を落とした。
「俺一人で決められることじゃなかった。それに、当時の商会は、古い街道の管理を縮小し始めていた。記録の整理に人手を割く余裕もなくなっていたんだ」
「それで仕事を失ったのか?」
「直接の理由は別だ。商会の事業縮小で、俺の仕事そのものがなくなった」
ローデンは顔を上げた。
「それ以上のことは、今ここで話すつもりはない。今回の記録とは関係があるかどうかも分からないからな」
シラスは彼の顔を見つめた。
何かを隠している可能性はある。だが、関係のない過去まで無理に聞き出すつもりはなかった。
「分かった。少なくとも、あんたが何を知っているのかは理解できた」
「なら、次はお前たちの番だ」
ローデンが手を差し出した。
「記録を見せてくれ」
シラスは外套の内側から油紙に包んだ冊子を取り出した。
鈴も、宿場跡で見つけた書類のことを思い出したように身を乗り出した。
「こっちは、古い宿場跡の箱に入っていたものだよね」
「ああ。水門で見つけた冊子とは別の記録だ」
シラスはまず、宿場跡で見つけた紙をローデンに渡した。
ローデンは両手で慎重に受け取り、破れないように広げた。
しばらくの間、彼は黙って文字を追っていた。
ときおり指先で行をなぞり、読みにくい箇所では顔を近づける。
「……やはり、受け渡しに関する記録だな」
「何か分かったか?」
「全部は読めない。欠けている部分も多い。ただ、この欄は荷物を引き渡した側の記載、その隣は受け取り側の確認欄だと思う」
ローデンは紙の端を指さした。
「ここを見てくれ。受け取りを確認する印があるはずの場所に、別の記号が書かれている」
シラスが目を細める。
「円と、交差する二本の線……」
「そうだ。ただし、この印が何を示すのかは、まだ分からない。受領の確認を保留した印なのか、書類の分類記号なのか、それとも別の意味なのか。今の段階では判断できない」
「その印は、ほかの記録にもあったのか?」
「俺が見た古い帳簿の中にも、似たものがあった。ただ、同じ印だからといって、すべてが同じ用途とは限らない」
ローデンは紙を丁寧に戻した。
「次は、もう一冊の方を見せてくれ」
シラスは水門で見つけた冊子を差し出した。
ローデンは表紙を確認し、ページを慎重にめくった。
数ページ進んだところで、彼の手が止まった。
「……この記載は」
「何か知っているのか?」
「いや。少し待ってくれ」
ローデンは文字を読み直した。
そこには荷物の数量らしき数字と、日付のような記述が並んでいる。隣には、先ほどと同じ印があった。
さらに、その下には短い注記が残されていた。
照合未了。
「この言葉は、俺が扱っていた帳簿にも使われていた」
ローデンが言った。
「記録に食い違いが見つかったとき、すぐに誤記だと判断せず、確認を続ける必要がある場合に使われることがあった」
「なら、この帳簿も、何か食い違いがあった可能性があるのか?」
「その可能性はある。だが、この一言だけでは断定できない」
ローデンはページを閉じず、さらに数枚めくった。
ところどころに、別の帳簿の番号らしき数字が記されている。
そのうちの一つに、短い注記があった。
――原記録参照。
シラスの目が鋭くなった。
「原記録……」
「写しや転記された記録ではなく、最初に作られた記録を確認しろ、という意味だろう」
「つまり、ここに書かれている内容だけでは足りない」
「そういうことだ。別の場所に、元になった記録が残っているかもしれない」
鈴が二冊を見比べた。
「じゃあ、私たちが探しているのは、この紙の元になった記録なの?」
「それも候補の一つだな」
シラスは答えた。
「ただ、まだ決まったわけじゃない。まずは、この帳簿に書かれた番号を調べる必要がある」
ローデンはうなずいた。
「番号の付け方が当時のものと同じなら、保管先や移管先を調べる手掛かりになる。俺が以前扱っていた帳簿でも、別の記録を参照するときには番号を記していた」
「その番号から、保管先を特定できるか?」
「古い管理台帳が残っていればな。だが、どこにあるのかは分からない」
シラスは二冊を見つめた。
確かなことが一つ増えた。
この記録は、単に古いというだけではない。別の記録を参照するための番号が残されている。そして、その原記録が確認されないままになっている可能性がある。
だが、どこに保管されているのかは分からない。
記録を作成した者も、照合が終わらなかった理由も、まだ謎のままだ。
「ローデン。あんたなら、この番号を調べられるか?」
「すぐには無理だ。だが、番号の形式を見れば、どの時期に使われていたものか、ある程度は推測できるかもしれない」
「それで十分だ」
シラスは冊子を受け取った。
「次に何を調べるべきか、手掛かりが欲しい」
「なら、一つ提案がある」
ローデンは荷袋から、折り畳まれた古い地図を取り出した。
地図は何度も使われたらしく、折り目が白くなり、端には小さな破れがあった。
彼は地図を岩の上に広げた。
「ここが、俺たちのいる川だ。そして、さっき通った水門がこの辺りだ」
指先が、旧街道に沿って東へ移動する。
「この道を進めば、かつて荷物の集積に使われていた小さな町がある。今では商隊もほとんど立ち寄らないが、古い倉庫や管理施設が一部残っていると聞いたことがある」
「町の名前は?」
「フェルンだ」
シラスは地図をのぞき込んだ。
ラヴェンヌから続く古い街道の先に、小さな地名が記されている。
フェルン。
聞いたことのない町だった。
「そこに、原記録が残っている可能性があるのか?」
「可能性があるだけだ。俺自身、最後にその町の名前を聞いたのは何年も前だからな。施設が今も残っているかどうかも分からない」
「それでも、何も知らずに探し回るよりはましだ」
シラスは地図の位置を確認した。
「そこへ向かおう」
「待って。すぐに出発するの?」
鈴が不安そうに尋ねた。
「追手がいる以上、ここに留まる理由はない」
「それはそうだけど……シラスもローデンさんも、ほとんど寝てないでしょ?」
「休んでいる時間があるなら、少しでも距離を稼ぎたい」
「でも、疲れたまま歩いたら、また危ないことになるかもしれないよ」
鈴の言葉に、シラスは返事をしなかった。
彼女の言うことも正しい。
先ほどの戦いで大きな怪我はしていないが、睡眠不足と疲労は確実に蓄積している。判断を誤れば、次は逃げ切れない可能性もあった。
ローデンが地図を畳んだ。
「少なくとも、ここで数時間は休んだ方がいい。追手が水門を抜けたとしても、こちらの進路をすぐに特定できるとは限らない」
「さっきは急いで逃げるべきだと言っていたな」
「状況が変わったんだ。俺たちは今、追手の姿を見ていない。無理に進むより、体力を回復させた方がいい」
シラスはしばらく考え、やがてうなずいた。
「……分かった。数時間だけだ」
鈴の表情が明るくなった。
「本当? じゃあ、私も少し眠っていい?」
「見張りを交代する。俺が先に起きているから、今のうちに休め」
「ありがとう、シラス」
鈴はほっとしたように微笑んだ。
その笑顔を見て、シラスはわずかに視線をそらした。
守らなければならない相手がいるというのは、思っていた以上に気を遣うものだった。
だが、悪い気分ではない。
ローデンは地図をしまい、洞穴の入口へ目を向けた。
「フェルンに何が残っているのかは分からない。だが、少なくとも、次に調べる場所は決まった」
「ああ」
シラスは冊子を油紙で包み直し、外套の内側へしまった。
古い記録が示すのは、まだ断片的な事実だけだ。
照合されなかった記録。
参照先として残された番号。
そして、今は忘れられつつある古い集積地。
それらが何を意味するのか、まだ誰にも分からない。
しかし、手掛かりを一つずつ追っていけば、いつか答えに近づけるかもしれない。
シラスは剣を手の届く場所に置き、洞穴の入口へ背を向けずに座った。
「少し眠っておけ、鈴」
「うん……。シラスも、あとでちゃんと休んでね」
「ああ」
鈴は外套をかぶり、ほどなく静かな寝息を立て始めた。
ローデンも壁際に腰を下ろし、目を閉じた。
シラスだけが、しばらく入口を見張り続けていた。
朝の光が洞穴の奥まで差し込むころ、彼はようやく目を閉じた。
次の目的地は、フェルン。
古い街道の先にある、小さな町だった。




