水門の向こう側
石造りの通路に、複数の足音が響いていた。
シラスは剣を握り、前方を警戒しながら進んでいた。すぐ後ろには鈴、そのさらに後ろにはローデンが続いている。
蝋燭の火は小さく揺れ、壁に三人の影を映し出していた。
「あとどれくらいだ?」
シラスが低い声で尋ねる。
「もう少しだ。水門の向こう側に出られれば、川沿いの道を離れられる」
「その道にも追手がいる可能性は?」
「ないとは言えない」
「便利な案内人だな」
「俺は道を知っているだけで、未来までは知らないんだ」
「それはさっき聞いた」
「なら、何度も聞くな」
ローデンが不機嫌そうに答えた。
鈴は二人の間で、困ったように首を傾げている。
「……二人って、本当に仲がいいの?」
「よくない」
シラスとローデンの声が重なった。
鈴は思わず吹き出した。
その笑い声は、すぐに通路の奥へ消えていった。
シラスは一瞬だけ彼女を見た。追われ続けているせいで、鈴の顔から笑顔が消えていた時間も長かった。こうして少しでもいつもの調子を取り戻してくれるなら、それは悪いことではない。
だが、今はまだ安心できなかった。
背後から聞こえる足音は、確実に近づいていた。
「急ぐぞ。追いつかれる」
シラスが告げると、ローデンはうなずき、通路の先を指さした。
「あそこだ」
蝋燭の光の先に、石造りの階段が見えた。
階段を上った先には、錆びた鉄格子が設置されている。格子の向こう側からは、薄い朝の光が差し込んでいた。
出口だ。
しかし、鉄格子は閉じられていた。
「……おい」
シラスがローデンを見た。
「開くんだろうな?」
「昔は開いた」
「過去形なのが気になるんだが」
「俺だって、何十年もここを使っていたわけじゃない」
ローデンは鉄格子の前にしゃがみ込み、錆びた留め金を調べ始めた。
鈴も隣からのぞき込む。
「鍵がかかってるの?」
「いや、鍵穴はない。向こう側から固定されているらしい」
「じゃあ、壊せばいいんじゃない?」
「大きな音を立てれば、追手に居場所を教えることになる」
シラスは格子を押してみた。
わずかに揺れたが、それ以上は動かない。鉄は古くなっているものの、簡単に折れるほど脆くはなかった。
「何か方法はないのか?」
「待て。下の留め金が外れれば、持ち上げられるかもしれない」
ローデンは腰の袋から小さな金属片を取り出し、格子の隙間へ差し込んだ。
そのとき、背後から怒鳴り声が響いた。
「いたぞ! 奥だ!」
鈴の顔が青ざめた。
「シラス……!」
「分かっている」
シラスは通路を振り返った。
暗闇の向こうに、揺れる明かりが見え始めている。追手はもうすぐそこまで来ていた。
「ローデン、急げ」
「急いでいる!」
「なら、もっと急げ!」
「無茶を言うな!」
金属片が留め金に引っかかり、嫌な音を立てた。
ローデンが舌打ちする。
「くそっ、錆びついている!」
シラスは周囲を見渡した。
鉄格子を壊す時間はない。通路を戻れば追手と正面からぶつかる。ほかに道があるかどうかも分からない。
そのとき、鈴が格子の脇にある石壁を指さした。
「ねえ、あそこ!」
壁の下部に、小さな四角いくぼみがあった。周囲の石とは色が違い、何かを取り外した跡のようにも見える。
「昔の操作装置かな?」
ローデンが振り返った。
「……いや。水門の補助機構かもしれない」
「動かせるのか?」
「分からない。だが、調べる価値はある」
シラスは短くうなずいた。
「鈴、ローデンと一緒にそこを調べろ。俺が時間を稼ぐ」
「えっ、でも……!」
「大丈夫だ。倒す必要はない。通路を塞げばいい」
シラスは剣を構え、階段の下へ移動した。
すぐに、最初の追手が姿を現した。
革鎧を身につけた男だった。片手には剣、もう片方の手には小型の金属製器具を持っている。
シラスの姿を見ると、男は足を止めた。
「やはりここにいたか。記録を渡せ」
「そればかりだな。ほかに話すことはないのか?」
「抵抗しても無駄だ」
「そう言われて、おとなしく従う人間ばかりなら苦労しない」
男の表情が険しくなった。
彼が器具を構えるより早く、シラスは床に転がっていた石片を蹴り飛ばした。
石片は男の足元へ跳ね、相手の踏み込みを一瞬だけ鈍らせる。
シラスはその隙に距離を詰めた。
剣を振り下ろすのではなく、相手の腕を横から打つ。金属製の器具が手から離れ、石床を滑って壁際へ転がった。
男が舌打ちし、剣を振るう。
シラスは後退しながら受け流した。
狭い通路では、大きく動くことができない。だからこそ、相手の足場と間合いを崩す必要があった。
背後から、さらに二人の足音が近づいてくる。
シラスは階段の幅を利用し、先頭の男を押し戻した。
「どけ!」
男が怒鳴る。
「断る」
シラスは短く返した。
剣と剣がぶつかり、火花が散った。
しかし、長くは持たない。相手が増えれば、こちらが不利になる。
「シラス!」
鈴の声が響いた。
「このくぼみ、押せそうな部分があるよ!」
「やってみろ!」
「分かった!」
鈴が両手で石壁の一部を押した。
何も起きない。
「……動かない!」
「引いてみろ!」
ローデンが声を上げた。
「引くの?」
「いや、待て。横に動く仕組みかもしれない!」
「どっちなの!」
「俺に聞くな!」
シラスは思わず顔をしかめた。
この二人に任せて、本当に大丈夫なのだろうか。
いや、今は信じるしかない。
シラスは迫ってきた男の剣を弾き、相手の肩を蹴って距離を取った。
「鈴、壁の端を探せ! 何か引っかかる場所があるはずだ!」
「分かった!」
少女は壁を手で探り始めた。
指先が、石の隙間に触れる。
「あった! ここ、少しだけ出っ張ってる!」
「引いてみろ!」
今度はローデンも迷わず叫んだ。
鈴が出っ張りを引く。
かちり、と小さな音がした。
直後、壁の内部から重い機械音が響き始めた。
鉄格子がわずかに揺れた。
「動いた!」
ローデンが留め金を持ち上げる。
格子が、ゆっくりと上へ動き始めた。
「よし、開いたぞ!」
ローデンが叫ぶ。
「鈴、先に行け!」
シラスは敵の剣を受け止めながら指示した。
「でも、シラスがまだ……!」
「先に行け! ローデン、鈴を頼む!」
「分かった!」
ローデンは鈴の腕を引き、鉄格子の向こうへ通した。
少女は何度も振り返ったが、ローデンに促されて先へ進む。
シラスは最後の一人を押し返し、階段を駆け上がった。
鉄格子の下をくぐり抜けた瞬間、ローデンが留め金を外した。
重い格子が落ち、鈍い音とともに通路を塞ぐ。
直後、向こう側から怒号が響いた。
「開けろ!」
鉄格子が激しく揺れた。
だが、すぐには開きそうになかった。
「こっちだ!」
ローデンが走り出す。
三人は出口から離れ、川沿いの岩場へ出た。
朝の光が広がり始めていた。水面には薄い霧が漂い、遠くの山々が青く霞んでいる。
シラスは周囲を確認し、追手が見えないことを確かめてから、ようやく足を止めた。
「……何とか抜けられたな」
「本当にね……」
鈴は膝に手をつき、息を整えていた。
「私、もう走れないかと思った」
「なら、もう少し体力をつけることだな」
「今それを言う!?」
「次に逃げるときのためだ」
「次がある前提なの、やめてよ!」
シラスは答えず、わずかに笑った。
ローデンは二人のやり取りを眺めたあと、真剣な顔で水門の方を振り返った。
「……あいつら、あの記録を本気で取り戻すつもりらしい」
「どういうことだ?」
「ただの古い帳簿なら、あそこまで追いかけてくる必要はない。少なくとも、連中は記録に何か価値があると考えている」
「それは俺たちも同じだ」
「違う。お前たちは何が書かれているか知りたい。だが、あいつらは……」
ローデンは言葉を切った。
「いや、今はまだ分からない。俺の推測だけで決めつけるべきじゃないな」
シラスは彼を見つめた。
「さっきから、何かを言いかけてはやめているな」
「確証がないからだ」
「確証がなくても、手掛かりはあるんだろう?」
ローデンは少し考え、やがてうなずいた。
「ある。だが、それを話すには、まずお前たちが持っている記録を確認したい」
「交換条件か?」
「そう考えてくれて構わない。俺が知っていることを話す代わりに、お前たちも記録を見せてくれ。少なくとも、互いに何を追っているのかは確かめたい」
シラスはすぐには答えなかった。
この男が何を隠しているのかは分からない。だが、追手から逃げるために道を案内し、水門の出口を開くために動いたことも事実だった。
完全に信用することはできない。
しかし、話を聞く価値はある。
「……分かった。安全な場所へ移動してからだ」
「それでいい」
ローデンはうなずいた。
鈴が二人を見上げた。
「じゃあ、これからどうするの?」
「まずは休む。それから、記録を調べる」
シラスは東の空を見た。
夜は明けた。
だが、追手が諦めたとは思えない。水門の向こう側に閉じ込めた時間も、長くは続かないだろう。
それでも、手掛かりは手に入った。
古い帳簿と、同じ印。そして、記録の食い違いを知る男。
ばらばらだった情報が、少しずつ形を持ち始めている。
シラスは外套の内側に手を当て、冊子が無事であることを確かめた。
「行くぞ。ここから先は、慎重に進む」
鈴は力強くうなずいた。
「うん。今度は私も、ちゃんと周りを見るから」
「期待している」
「……本当に?」
「半分くらいはな」
「もう!」
鈴の抗議を背に、三人は朝の川辺を歩き始めた。
水門の向こうからは、まだ人の声が聞こえていた。
追跡は終わっていない。
そして、彼らが手にした古い記録の意味も、まだ明らかになってはいなかった。




