古い水門の秘密
夜明けの光が、川面を淡く照らし始めていた。
シラスたちは川沿いの細い道を走っていた。先頭を進むローデンは、何度も岩の間を曲がり、草木に覆われた斜面を下っていく。
道は悪かった。濡れた石は滑りやすく、伸び放題の草が足元を隠している。
「こっちだ! 足元に気をつけろ!」
ローデンが振り返らずに叫んだ。
「もう少し分かりやすい道はないのか!」
シラスは鈴の手を引きながら答えた。
「文句なら、追われなくなってから言え!」
「追われている原因の一部は、あんたにもありそうだがな!」
「俺だって好きで追われているわけじゃない!」
「それは俺も同じだ!」
二人のやり取りを聞いて、鈴は息を切らしながら口を挟んだ。
「二人とも、今は言い合いしてる場合じゃないよ!」
「……そうだな」
シラスは素直に認めた。
ローデンも返事をしなかったが、少しだけ走る速度を落とした。
やがて、川が大きく曲がる場所に出た。
そこには、古い石造りの水門が残っていた。
左右の岸をつなぐように石壁が築かれ、その中央には巨大な鉄製の扉がある。長い年月のせいで表面は錆びつき、扉の周囲には枯れた蔓が絡みついていた。
水門の上部は一部が崩れ、壁の隙間から木の根が伸びている。
かつては、この水路を通じて宿場や周辺の施設へ水を供給していたのかもしれない。
「ここだ」
ローデンは水門の脇にある低い石壁を指さした。
「昔、管理人が使っていた通路がある。水門が閉じていても、こちら側から向こうへ抜けられるはずだ」
「はず、か」
「何度も言わせるな。俺は未来を予知できない」
「それなら、道案内をする前に言ってほしかったな」
「今からでも戻るか?」
「追手がいるのに?」
「そういうことだ」
シラスは小さく舌打ちした。
鈴が隣で、くすりと笑った。
「シラス、ローデンさんと少し似てるね」
「どこがだ?」
「二人とも、素直じゃないところ」
「……そうか」
「否定しないんだ?」
「否定しても、お前は納得しないだろう」
「うん!」
鈴は元気よくうなずいた。
シラスは、それ以上何も言わなかった。
水門の脇へ回ると、崩れた石壁の下に、人一人が通れそうな隙間があった。内部は暗く、湿った空気が漂っている。
ローデンは荷袋を下ろし、腰の小さな袋から火打ち石と短い蝋燭を取り出した。
「明かりをつける。だが、煙が外へ漏れるかもしれない。長くは使えないな」
「暗闇を歩くよりはましだ」
シラスは剣を抜き、先に通路へ入った。
石壁には、一定の間隔で四角いくぼみが並んでいた。古い金具が残っている場所もある。水門の操作に関わる設備だったのだろう。
足元には泥が積もり、壁際には小さな水たまりができていた。
鈴は慎重に歩きながら、周囲を見回した。
「ここ、本当に昔から使われていたんだね」
「ああ。石の積み方も、今の建物とは違う」
シラスは壁の一部を指でなぞった。
石と石の間には、細かな溝が刻まれていた。何かを固定するためのものか、それとも装飾なのかは分からない。
鈴が近づいて、溝をのぞき込む。
「これ、魔法の模様かな?」
「どう見える?」
「うーん……。魔法っぽい気もするけど、違う気もする」
「ずいぶん曖昧だな」
「だって、分からないんだもん!」
鈴は頬を膨らませた。
「それに、私が魔法を使えるからって、何でも分かるわけじゃないよ」
「分かっている。だから、触るなよ」
「触らないよ!」
言いながら、鈴の指が壁へ伸びかけていた。
シラスは無言で彼女の手首をつかんだ。
「……何?」
「今、触ろうとしただろう」
「ちょっとだけだよ!」
「その『ちょっと』で何が起こるか分からない」
「シラスって、心配性だよね」
「お前が無警戒すぎるんだ」
ローデンが二人を振り返った。
「夫婦喧嘩なら、外に出てからにしてくれ」
「夫婦じゃない!」
鈴が即座に叫んだ。
声が通路に響き、三人とも動きを止めた。
シラスは眉間を押さえた。
「……声が大きい」
「だ、だって、変なこと言うから!」
「今の声の方が、よほど危険だったな」
「シラスまで!」
ローデンは肩を震わせていた。
「悪かった。だが、少し元気が出たようで何よりだ」
鈴は不満そうに顔をそむけた。
そのとき、通路の奥から小さな音が聞こえた。
何かが石の床をこすっているような音だった。
シラスの表情が変わる。
「止まれ」
三人は足を止めた。
音は一度途切れ、しばらくして再び聞こえてきた。
通路の先に、何かがいる。
シラスは剣を構え、蝋燭の光が届く範囲を慎重に調べた。
やがて、床に散らばった小石の向こうに、古い木箱が見えた。
箱は壁際に押し込まれている。蓋は半分開き、中から布の切れ端が垂れ下がっていた。
音の正体は、その布が風に揺れて石へ触れていたものらしい。
「……驚かせてくれる」
シラスは剣を下ろした。
「何か入っているのかな?」
鈴が箱へ近づこうとした。
「待て」
今度は彼女も素直に足を止めた。
シラスは木箱の周囲を調べた。罠らしき仕掛けは見当たらない。蓋の端は腐食し、金具も錆びついている。
彼は剣の先で蓋を押し開けた。
中には、古い縄と割れた木片、そして油紙に包まれた小さな冊子が入っていた。
「記録か?」
ローデンが近づいてきた。
「まだ分からない」
シラスは油紙を慎重に持ち上げた。
紙は乾燥して硬くなっていたが、完全には破れていない。包みを開くと、薄い冊子が現れた。
表紙には文字が書かれていたものの、汚れと摩耗でほとんど読めない。
シラスは最初のページをめくった。
そこには、日付らしき数字と短い記述が並んでいた。
さらに数ページ進むと、見覚えのある印が目に入った。
円の中に、二本の線が交差している。
「……これだ」
シラスの声が低くなった。
鈴も横からのぞき込む。
「宿場跡の紙と同じ印……」
「そうだな」
ローデンは冊子を見つめ、顔を強張らせた。
「間違いない。古い荷物の管理記録だ」
「ここに保管されていた理由は?」
「分からない。水門の管理人が預かったのか、誰かが隠したのか……」
「どちらも可能性がある、ということか」
「ああ」
シラスは冊子のページを慎重にめくった。
記録には荷物の種類、数量、日付らしき数字が書かれていた。ところどころ文字が消え、紙の端も欠けている。
それでも、いくつかの記述は読み取れた。
同じ記号の横に、異なる日付が書かれている箇所がある。
さらに、その下には短い注記が添えられていた。
――照合未了。
シラスはその言葉をじっと見つめた。
「照合未了……」
「何か分かったの?」
鈴が尋ねた。
「まだ何も。ただ、記録を確認しきれていなかったらしい」
ローデンはページの端を見ながら、慎重に答えた。
「この記号が荷物の分類を示すものなら、同じ記号が何度も出てくること自体は不自然じゃない。問題は、その横に書かれた日付と注記だ」
「つまり、これだけでは何が起きたのか分からない?」
「そうだ。だが、調べる価値はある」
シラスは冊子を閉じた。
この記録が、ラヴェンヌで見つけた資料と関係している可能性はある。しかし、今ここで結論を出すことはできない。
まずは記録の内容を確かめ、どこから来たものなのかを調べる必要がある。
そのとき、通路の入口から、かすかな物音が響いた。
三人は同時に振り返った。
足音。
誰かが、水門の外側を歩いている。
ローデンが顔を青くした。
「……早すぎる」
「追手か?」
シラスは冊子を油紙へ戻し、外套の内側にしまった。
「分からない。だが、ここを調べている人間がほかにもいる可能性はある」
「なら、別の出口は?」
「水門の向こう側にあるはずだ。ただし、扉が開くかどうかは分からない」
「また、それか」
「何度も言わせるな」
ローデンは苦々しく答えた。
シラスは鈴を見た。
「歩けるか?」
「うん。大丈夫」
「今度は、何があっても勝手に触るなよ」
「もう触らないってば!」
「本当だな?」
「本当!」
シラスはうなずき、剣を構え直した。
三人は通路の奥へ進み始めた。
背後では、誰かが水門の隙間を見つけたらしい。石を動かす音が聞こえ、やがて低い声が響いた。
「中に誰かいるぞ」
シラスは歩みを速めた。
古い記録を見つけたことで、手掛かりは確かに増えた。
しかし同時に、ここが安全な場所ではないことも明らかになった。
この水門には、彼ら以外にも何かを探している者がいる。
そして、その目的が同じ記録なのかどうかさえ、まだ分からなかった。




