川辺の旅人
夜明け前の川辺に、冷たい風が吹いていた。
シラスは剣から手を離さないまま、岩陰にいる人物を見つめていた。
相手は二十代後半から三十代前半ほどの男だった。くすんだ茶色の外套を身につけ、足元には小さな荷袋が置かれている。頬には薄い傷があり、顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
男はシラスの問いにすぐ答えなかった。
代わりに、鈴へ視線を向ける。
「……二人だけか?」
「質問に答えるのが先じゃないのか」
シラスが静かに返す。
男は小さく息を吐いた。
「そう警戒するな。少なくとも、今ここでお前たちを襲うつもりはない」
「襲うつもりのある人間も、最初はそう言う」
「違いないな」
男は苦笑した。
その反応だけで信用する気にはなれなかったが、少なくとも、すぐに武器を抜く様子はない。
シラスは男の手元を確認した。右手には小さな布袋。左手は膝の上に置かれている。腰には短いナイフが見えたが、柄に手を伸ばしてはいなかった。
「さっき、宿場跡から来たのかと聞いたな」
「ああ」
「どうして分かった?」
「この先の道を通ってきた人間なら、あの場所を避けるはずだからだ。まして、こんな時間に川沿いを歩いている。何かあったと考える方が自然だろう」
「それだけか?」
「それだけだ」
シラスは黙った。
筋は通っている。だが、男が宿場跡について何を知っているのかは、まだ分からなかった。
そのとき、鈴がシラスの背後から顔を出した。
「ねえ、あそこって、そんなに危ない場所なの?」
「……君は知らずに入ったのか?」
「うん。古い建物があったから、何か手掛かりがないかと思って」
「鈴」
シラスが低い声で制した。
少女ははっとして口を閉じた。
男は二人を交互に見たあと、少しだけ眉を寄せた。
「手掛かり? 何を探している?」
「旅の途中で立ち寄っただけだ」
「そうか」
男はそれ以上追及しなかった。
その態度がかえって気になった。普通なら、見知らぬ二人が危険な宿場跡から逃げてきたと知れば、事情を聞きたがるものだ。
しかし、この男は何かを知っているようでいて、自分からは話そうとしない。
シラスは質問を変えた。
「あそこにいた連中を知っているのか?」
男の表情がわずかに強張った。
「……何人いた?」
「最初に三人。そのあと、別の連中が来た。さらに夜中にも、俺たちを探している声が聞こえた」
「金属の器具を持った男は?」
シラスの目が細くなった。
男は、器具のことを知っていた。
「知っているようだな」
「見たことがあるだけだ。詳しいことは知らない」
「どこで見た?」
「それを話す前に、一つ確認させてくれ」
男は荷袋を引き寄せ、ゆっくりと立ち上がった。
シラスはすぐに剣の柄を握り直す。
「動くな」
「分かった。これ以上は近づかない」
男は両手を見える位置に上げた。
「お前たちは、あの紙を持っているのか?」
鈴が息をのんだ。
シラスは表情を変えなかったが、男の視線が自分の外套の内側へ向けられたことを見逃さなかった。
「紙?」
「古い記録だ。荷物の受け渡しについて書かれたものだろう」
「どうして、それを知っている?」
「見たことがあるからだ」
「どこで?」
「昔、似たような記録を扱う仕事をしていた」
男はそこで言葉を切った。
まだ説明が足りない。
シラスは剣を抜かずに、男を見据えた。
「名前は?」
「ローデンだ。ローデン・フェルク」
「それで、ローデン。あんたは何者なんだ?」
「以前は商隊の荷物を管理していた。今は……まあ、仕事を失って、あちこちを歩いている」
「随分と曖昧な説明だな」
「詳しく話せるほど、立派な経歴じゃないんでね」
ローデンは肩をすくめた。
鈴は不思議そうに彼を見ていた。
「荷物を管理していたなら、あの印も知っているの?」
少女の言葉に、シラスはわずかに目を動かした。
ローデンは鈴を見た。
「印?」
「丸の中に、線が二本交差しているの。紙にも、金属の部品にもついていたよ」
今度こそ、ローデンの顔から余裕が消えた。
ほんの一瞬だった。
しかし、シラスには十分だった。
「……その部品を見つけたのか?」
「質問に質問で返すな。あんたが知っていることを先に話せ」
シラスの声は冷たかった。
ローデンはしばらく黙っていたが、やがて川の方へ目を向けた。
「その印が何を意味するのか、俺には断言できない。ただ、昔の荷物の記録に使われていたのは確かだ」
「どんな荷物だ?」
「普通の商隊が運ぶようなものだ。食料、布、金属製品、薬品……そういったものも含まれていた」
「なら、何が問題なんだ?」
「印そのものに問題があるわけじゃない」
ローデンは慎重に言葉を選んでいた。
「問題は、記録の残り方だ」
シラスは黙って続きを促した。
「同じ荷物について書かれた記録が、別々の場所に残っていた。片方には受け渡しが済んだと書かれているのに、もう片方には、まだ到着していないと書かれていた。そういう食い違いがあったんだ」
シラスの脳裏に、ラヴェンヌの資料が浮かんだ。
二つの地点に残された、同じ日に記録された一つの商隊。
ただの記入ミスなのか、それとも別の理由があるのか。まだ結論は出ていない。
「……どこの記録だ?」
「今は言えない」
「言えない理由は?」
「俺が知っているのは、昔の話だからだ。それに、記録が食い違っていた理由も分からない。確かなことのように話せば、余計な誤解を生む」
ローデンはシラスをまっすぐ見た。
「俺は、自分が知らないことまで知っているふりをするつもりはない」
その言葉に、シラスはわずかに警戒を緩めた。
少なくとも、この男は何もかも説明できると主張しているわけではない。
それでも、信用するには早すぎる。
「じゃあ、どうしてあの宿場跡を避けろと言わなかった?」
「お前たちに会うと思っていなかったからだ」
「夜中に人を探している連中がいることは?」
「知っていた」
ローデンは答えた。
「だから、俺もここに隠れていたんだ。連中が通り過ぎるのを待っていた」
「それなら、どうして俺たちを見て逃げなかった?」
「お前たちが追われているのか、それとも追っている側なのか、確かめたかった」
「今はどう思っている?」
「まだ分からない」
ローデンは正直に答えた。
シラスは思わず小さく息を吐いた。
「なるほど。お互いに相手を疑っているわけか」
「そういうことだな」
「面倒な話だ」
「まったくだ」
妙なところで意見が一致した。
鈴が二人の顔を見比べる。
「じゃあ、三人とも、まだ誰も信用していないってこと?」
「少なくとも、俺はそうだ」
シラスが答える。
「俺もだ」
ローデンも続けた。
鈴は困ったように頬を膨らませた。
「……じゃあ、話が全然進まないじゃない」
「信用する理由がないのに、信用したふりをする方が危険だ」
「でも、少しずつ話せばいいんじゃないかな。全部を一度に話さなくても」
その言葉に、ローデンは少し意外そうな顔をした。
シラスは少女を見た。
「お前は、こいつを信用するのか?」
「まだ分からないよ。でも、何も話さないままだったら、何も分からないままでしょ?」
「……それはそうだな」
シラスは認めた。
鈴は少しだけ得意そうに胸を張った。
「でしょ?」
「ただし、相手の言うことを全部信じるなよ」
「分かってるってば!」
「本当に?」
「シラス、私のこと何だと思ってるの?」
「好奇心で危険な場所に入っていく人間」
「うっ……」
鈴は言葉に詰まった。
ローデンが、こらえきれないように小さく笑った。
「仲がいいんだな」
「そう見えるなら、目の検査を勧める」
「シラス!」
鈴が抗議する。
ほんの短い時間だったが、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
しかし、その瞬間だった。
川の上流から、鋭い口笛が響いた。
ローデンの顔色が変わった。
「……もう来たのか」
シラスはすぐに川岸の向こうを確認した。
岩場の間に、人影が動いている。
一人ではない。
「知り合いか?」
「違う。だが、ここに長くいるのはまずい」
「どうしてだ?」
「説明している時間がない。そいつらに見つかれば、話し合いどころじゃなくなる」
ローデンは荷袋を肩にかけた。
シラスは剣を抜き、鈴を背後へ寄せた。
「待て。まだ質問は終わっていない」
「分かっている。だから、場所を変えるんだ」
ローデンは川下を指さした。
「この先に、古い水門がある。今は使われていないが、脇に人が通れる道が残っている。そこまで行けば、身を隠せるかもしれない」
「かもしれない、か」
「絶対に安全な場所を知っているなら、俺だってそこにいる」
シラスは一瞬だけ考えた。
この男についていくのは危険だ。だが、ここに残って追手と戦えば、鈴を守りながら複数の相手を退けなければならない。
地形を知っている者がいるという利点は大きい。
「鈴、走れるか?」
「うん!」
「よし。ローデン、先導しろ。ただし、妙な動きをしたら容赦しない」
「好きにしろ」
ローデンは川沿いの道を走り始めた。
シラスは鈴の手を引き、その後を追った。
背後から、誰かの声が響く。
「いたぞ! 川沿いだ!」
続いて、金属がぶつかる音がした。
シラスは振り返らなかった。
追手が何者なのか、ローデンがどこまで本当のことを話しているのか。そして、あの記録がなぜ狙われているのか。
まだ、何一つ解決していない。
それでも、今は進むしかなかった。
夜明けの光が、東の空をゆっくりと染め始めていた。




