夜明け前の追跡
夜の冷気が、岩場の窪みにまで染み込んでいた。
シラスは壁に背を預けたまま、旧街道の方へ意識を向けていた。剣はすぐに抜ける位置に置き、眠るつもりはなかった。
少し離れた場所では、鈴が外套にくるまっている。疲れ切っていたのだろう。最初こそ眠れずに何度も寝返りを打っていたが、やがて小さな寝息が聞こえ始めた。
シラスはその様子を一瞥し、再び暗闇へ視線を戻した。
今日一日で、厄介なことがいくつも起きた。
旧街道での襲撃。奇妙な金属製の器具。そして、古い宿場跡で見つけた記録を狙う者たち。
どれも偶然だと考えるには、少々出来すぎている。
だが、確かな証拠がない以上、結びつけるわけにもいかなかった。
「……考えても答えは出ないか」
小さくつぶやいた、そのときだった。
遠くから、石を踏む音が聞こえた。
シラスはすぐに呼吸を抑えた。
一人ではない。
足音は旧街道を進み、時折立ち止まっては、周囲を確かめるように動いている。
先ほどの連中が戻ってきたのか。それとも、別の者たちなのか。
シラスは剣を手に取り、鈴のそばへ移動した。
「鈴。起きろ」
「ん……? シラス……?」
「声を出すな。誰か来ている」
少女の眠気が一瞬で消えた。
彼女は慌てて口を押さえ、シラスの隣に身を寄せる。
足音は次第に近づいていた。
「こっちにはいないぞ」
「水路を探せ。あの二人が遠くまで行けるはずがない」
聞き覚えのない声だった。
シラスは眉をひそめた。
宿場跡で遭遇した男たちとは、声の調子が違う。少なくとも、同じ連中だと断定できる材料はなかった。
やがて、足音の一部が岩場の上を通り過ぎた。
鈴がシラスの袖をそっと引く。
「……私たちを探してるの?」
「そうらしいな」
「どうして?」
「それを知っていたら、もう少し楽に眠れたんだが」
「こんなときまで冗談を言うの?」
「冗談に聞こえるなら、まだ大丈夫だ」
鈴は納得していない顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
シラスは周囲を見渡した。
ここに隠れ続けるのは危険だ。相手が水路に気づけば、逃げ場を失う可能性がある。かといって、足音が近くにある今、無理に移動すれば見つかるかもしれない。
待つか、動くか。
数秒の判断が、生死を分けることもある。
シラスは岩場の奥にある狭い裂け目へ目を向けた。人が一人ずつ通れる程度の幅しかないが、向こう側は斜面になっている。地面の状態は分からないものの、ここよりは追手の視線を避けやすいだろう。
「鈴。あそこを通れるか?」
彼女は暗がりを見つめ、うなずいた。
「うん。でも、向こうがどうなっているか分からないよ」
「俺が先に確認する。合図するまで動くな」
「……分かった」
シラスは剣を持ったまま、音を立てないように裂け目へ近づいた。
岩の隙間から、冷たい風が吹き込んでいる。
彼は体を横にして通り抜け、向こう側へ出た。
そこは、旧街道から少し下った斜面だった。足元には細かな砂利が積もり、さらに先には枯れた灌木が続いている。転落するほど急ではないが、暗闇の中で走るには危険だった。
それでも、進める。
シラスは背後を確認し、鈴に合図した。
少女は慎重に裂け目を通り抜けてきた。最後に外套が岩に引っかかり、彼女は小さくうめいた。
「……抜けない」
「引っ張るな。布が裂ける」
「分かってるよ。分かってるけど……!」
シラスは彼女の外套を岩から外した。
「よし、行けるぞ」
「ありがとう……。今のこと、忘れてね」
「何を?」
「……そういうところ、ずるい」
鈴は頬を膨らませたが、すぐに真剣な表情へ戻った。
二人は斜面を慎重に下り始めた。
上からは、まだ人の声が聞こえている。
しかし、しばらく進んだところで、鈴が突然足を止めた。
「シラス、待って」
「どうした?」
「……何か聞こえない?」
シラスも立ち止まった。
最初は風の音しか聞こえなかった。だが、意識を集中させると、斜面の下から微かな水音が届いてきた。
近くに川があるらしい。
地形を見れば、かつてこの一帯には水路が張り巡らされていたのだろう。古い街道沿いの宿場を支えるための設備だったのかもしれない。
「水があるなら、下流へ進める可能性がある」
「でも、川沿いって足跡が残りやすいんじゃない?」
「その通りだ」
「じゃあ、どうするの?」
「まずは水場まで行って確かめる。状況次第だな」
鈴は少しだけ不満そうに口を尖らせた。
「シラスって、いつも『状況次第』って言うよね」
「状況が分からないのに、先のことを決めても仕方ないだろう」
「それはそうだけど……」
「それに、最初から全部の答えが分かるなら、俺だって苦労しない」
その言葉に、鈴は小さく笑った。
「じゃあ、私も考える。シラスだけに任せるのは嫌だから」
「無理はするな」
「無理をしないことと、何もしないことは違うよ」
シラスは一瞬、返事に詰まった。
以前なら、彼女を危険から遠ざけることだけを考えていたかもしれない。
だが、鈴はただ守られているだけの存在ではない。まだ力の使い方も分からず、危険な状況では怯えることもある。それでも、自分にできることを見つけようとしている。
その気持ちまで否定するつもりはなかった。
「……分かった。何か気づいたら、すぐに言え」
「うん!」
鈴は嬉しそうにうなずいた。
二人が斜面を下り切ると、そこには細い川が流れていた。水深は浅く、底には丸い石が敷き詰められている。月明かりが水面に揺れ、周囲の岩肌を淡く照らしていた。
シラスはしゃがみ込み、川岸を調べた。
新しい足跡がいくつか残っている。
大きさはまちまちだった。少なくとも二人分。泥のつき方からして、つい最近ここを通ったように見える。
「……先客がいるな」
「宿場跡の人たち?」
「分からない。足跡だけで決めつけるのは危険だ」
彼は水辺から少し離れた場所を調べた。
すると、岩陰に小さな布切れが落ちているのを見つけた。暗い灰色の布で、端が鋭いもので切られたようになっている。
シラスはそれを拾い上げ、月明かりにかざした。
布の表面には、泥とは違う黒い汚れがついていた。血なのか、油なのか、それとも別の何かなのかは分からない。
「何か見つけたの?」
「布切れだ。持ち主も、汚れの正体も分からない」
「……また分からないことが増えたね」
「そうだな」
「それ、少しは困った顔をしたら?」
「困っている」
「全然そう見えないよ!」
鈴の声が少し大きくなり、シラスはすぐに指を唇へ当てた。
彼女は慌てて口を閉じた。
二人はしばらく耳を澄ませたが、追手の声は遠くなっていた。今なら、川沿いを少し進む時間がありそうだった。
シラスは布切れをしまい、少女に手を差し出した。
「行こう。夜が明ける前に、この場所を離れる」
「うん」
鈴はその手を取った。
川沿いの道は狭く、ところどころ岩がせり出していた。二人は何度も立ち止まり、周囲を確認しながら進んだ。
やがて東の空が、ほんのわずかに明るくなり始めた。
夜明けは近い。
だが、安心するには早かった。
川が大きく曲がる場所に差しかかったとき、シラスは前方の岩陰に人影を見つけた。
一人。
こちらに背を向け、川岸にしゃがみ込んでいる。
傍らには小さな荷袋が置かれていた。
シラスは鈴を手で制し、足を止めた。
相手はこちらに気づいていないようだった。
逃げるべきか。声をかけるべきか。それとも、別の道を探すべきか。
判断を下す前に、岩陰の人物がゆっくりと顔を上げた。
そして、こちらを見た。
「……こんな時間に、旅人か」
疲れた声だった。
シラスは剣から手を離さず、慎重に答えた。
「そっちも同じだろう」
人物はすぐには答えなかった。
代わりに、視線をシラスの外套へ移し、続いて鈴の顔を見た。
その目が、わずかに見開かれる。
「お前たち……宿場跡から来たのか?」
シラスの表情が変わった。
この人物は、あの場所で何が起きたのかを知っている。
そして、二人がそこから逃げてきたことにも気づいているようだった。
シラスは一歩も近づかず、低い声で尋ねた。
「……あんたは、何者だ?」




