迫り来る影
足音が近づいていた。
崩れかけた宿場跡の奥。シラスは古びた書類を片手に、目の前の男を観察していた。
男は三十代ほどに見えた。汚れた外套を羽織り、腰には短剣を差している。顔色は悪く、何度も入口の方を振り返っていた。
「その書類を渡せ。ここに置いていけば、お前たちは何も知らずに帰れる」
「随分と親切な話だな。初対面の相手に、わざわざ帰り道まで用意してくれるとは」
「冗談を言っている場合か!」
「冗談に聞こえたなら、少しは余裕があるらしい」
シラスは書類を外套の内側へ滑り込ませた。
男の眉が跳ね上がる。
「おい! 何をしている!」
「お前がそれを欲しがる理由を考えていた」
「理由などどうでもいい。渡せば済む話だ」
「なら、どうしてそんなに焦っている?」
男は答えなかった。
代わりに、入口の向こうから複数の足音が響いた。
一人ではない。少なくとも三人。足音の間隔からして、走っているわけではないらしい。こちらを急いで追い詰めるというより、逃げ道を塞ぐように近づいている。
シラスは視線だけを動かし、壁の崩れた箇所と、奥へ続く細い通路を確認した。
「鈴、俺の後ろに」
「う、うん」
少女は小さくうなずき、シラスの外套をつかんだ。
その手が、わずかに震えている。
シラスは気づいていたが、何も言わなかった。今は彼女を安心させる言葉を探すより、無事にここから出る方法を考えるべきだった。
入口に、黒い影が現れた。
「いたぞ」
低い声だった。
続いて、革鎧を身につけた男が二人、建物の中へ入ってきた。どちらも武器を持っている。一人は片手剣、もう一人は短い槍。さらに外にも、誰かが残っている気配があった。
先頭の男は、最初からいた男に目を向けた。
「何をしている。書類は?」
「まだだ。こいつらが先に見つけた」
「余計なことを……」
新しく現れた男の視線が、シラスと少女へ移る。
「その紙をこちらに渡せ。そうすれば、二人とも傷つけずに済む」
「さっきも似たようなことを言われたんだが、この辺りではそれが流行っているのか?」
「口の減らない男だな」
「よく言われる」
シラスは平然と返した。
だが、頭の中では状況を整理していた。
彼らは最初から書類を狙っている。ということは、宿場跡に何かが残っていると知っていたのだろう。先にいた男が彼らを恐れているように見えたのも気になる。
仲間同士なら、あの男があそこまで怯える理由は何だ。
そして、彼らはシラスたちがここへ来ることを知っていたのか。
まだ判断するには材料が足りなかった。
「最後の警告だ。書類を置け」
「断る」
シラスは短く答えた。
次の瞬間、槍を持った男が踏み込んできた。
狙いはシラスの肩。動きは直線的だが、踏み込みは速い。
シラスは少女を背後へ押しやり、半歩だけ横へずれた。槍先が外套をかすめる。相手が引き戻すより早く、シラスは槍の柄を剣の腹で弾いた。
金属音が廃屋に響く。
続けて、片手剣の男が斬り込んできた。
シラスは槍の男との間合いを利用し、相手の剣を受け流す。二人が互いの動きを邪魔した一瞬、彼は片手剣の男の手首を柄で打ち、武器を床へ落とさせた。
「ぐっ!」
「二人がかりなら、せめて息を合わせろ」
言いながら、シラスは後退した。
敵を倒すことが目的ではない。少女を連れて、この場を抜けること。それだけは間違えてはいけなかった。
「鈴、奥の通路が見えるか?」
「見えるけど……あそこ、壁が崩れてるよ!」
「通れる幅は?」
「たぶん、私なら!」
「よし。俺が合図したら先に行け」
「シラスは?」
「後から行く」
「それ、危ないときに言うやつじゃない?」
「よく分かっているな」
「感心してる場合じゃないよ!」
緊張した声の中に、いつもの調子が少しだけ戻った。
その直後、入口の男が懐から小さな金属製の器具を取り出した。
見覚えのある形だった。
シラスの脳裏に、旧街道で襲ってきた男たちの姿がよぎる。彼らが使っていた、奇妙な金属の装置に似ている。
同じものとは限らない。だが、無視できる共通点でもなかった。
「動くな」
男が器具をこちらへ向ける。
金属の表面に刻まれた細い溝が、淡い光を帯び始めた。
シラスは目を細めた。
「……厄介なものを持っているな」
「おとなしくしろ。これは警告だ」
「警告にしては、随分と物騒だ」
器具の奥で、小さな音が鳴った。
次の瞬間、青白い光が走った。
シラスは身をひねってかわした。光は背後の石壁にぶつかり、乾いた破裂音とともに石片を散らした。
「きゃっ!」
鈴が頭をかばう。
シラスは彼女の前に立ち、剣を構え直した。
魔法ではない。少なくとも、彼が知っている一般的な術式とは違う。あの器具が何を動力にしているのかも分からない。
分からないものを相手にするのは、好きではなかった。
だが、敵は待ってくれない。
「次は外さない」
器具を持つ男が照準を合わせ直す。
その瞬間、最初からいた男が叫んだ。
「やめろ! ここで使うな!」
「黙れ。お前がしくじったからだ!」
「そういう意味じゃない! これ以上壊したら――」
言葉は、轟音にかき消された。
器具から放たれた光が、天井近くの石柱を直撃したのだ。
ひび割れていた柱が大きく傾き、頭上から石材が落ちてくる。
「鈴、走れ!」
シラスは少女の腕をつかみ、奥の通路へ駆け出した。
背後で怒号が上がる。
崩れた石が床を砕き、粉塵が視界を覆った。シラスは落ちてくる小さな破片を腕で払いながら、鈴を先へ押し出す。
細い通路を抜けると、建物の裏手へ続く半ば崩れた壁があった。
「そこをくぐれ!」
鈴は身をかがめ、外へ飛び出した。
シラスも続こうとしたが、背後から伸びた手が外套の裾をつかんだ。
「逃がすか!」
片手剣を落とした男だった。
シラスは振り返らず、腰を落として相手の腕を引いた。男の体勢が崩れたところへ肘を入れ、手を離させる。
さらに追撃しようとしたところで、天井の一部が崩れた。
シラスは舌打ちし、男をその場に残して壁の隙間へ滑り込んだ。
外へ出ると、夜風が頬を打った。
鈴が数歩先で待っていた。白い髪についた埃を払いながら、必死に息を整えている。
「シラス、大丈夫?」
「今のところはな」
「今のところって……」
「先のことまで保証できるほど、俺は親切じゃない」
「そこは親切にしてよ!」
少女の声には怒りと安堵が混じっていた。
シラスは彼女の頭や腕に怪我がないことを確かめると、すぐに周囲へ目を向けた。
宿場跡の正面には、もう一人の男が回り込んでいた。こちらに気づくと、手を上げて合図を送る。
追手は建物の中だけではない。
「こっちだ!」
シラスは鈴の手を引き、崩れた石壁に沿って走った。
古い宿場の裏手には、かつて荷車が通ったと思われる細い道が残っていた。草に覆われ、ところどころ石が抜けている。夜の闇に紛れるには都合がよかったが、足元は悪い。
背後から足音が追ってくる。
「止まれ! 書類を置いていけ!」
「ずいぶんと紙切れに執着する連中だな!」
シラスは振り返らずに言った。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!」
「お前まで同じことを言うのか」
「当たり前でしょ!」
鈴の返事に、シラスはほんの少しだけ口元を緩めた。
だが、笑っている場合ではなかった。
道の先で、月明かりが岩肌を照らしていた。その向こうには、斜面に沿って伸びる古い水路がある。水は枯れているが、身を隠しながら移動するには使えそうだった。
「鈴、あの溝へ入るぞ。滑るから気をつけろ」
「分かった!」
二人は斜面を下り、水路の底へ身を隠した。
追手の足音は、しばらく上の道を行き来していた。誰かが怒鳴り、別の誰かが短く答える。やがて、足音の一部が遠ざかっていった。
完全に離れたわけではない。
シラスは壁に背を預け、耳を澄ませた。
鈴は隣で膝を抱えていた。暗闇の中でも、その青い瞳が不安そうに揺れているのが分かった。
「……ねえ、シラス」
「何だ?」
「私たちが見つけた紙って、そんなに大事なのかな」
「少なくとも、あいつらはそう思っているらしい」
「でも、ただの古い記録に見えたよ」
「俺にもそう見えた」
「じゃあ、どうして?」
「それを調べるために、ここまで来たんだろう」
シラスは外套の内側を確かめた。書類は無事だった。紙の端は折れていたが、破れてはいない。
かすかな月明かりを頼りに、彼は記録の一部をもう一度見た。
古い文字。荷物の受け渡しを示すらしい記述。そして、円の中に二本の線が交差した印。
ラヴェンヌの資料で見たものと、よく似ている。
だが、同じ印が使われているからといって、同じ組織が関わっているとは限らない。古い商会の共通記号かもしれないし、単に荷物の分類に使われた印かもしれない。
今の段階で決めつけるのは危険だった。
「シラス?」
「何でもない。少し考えていただけだ」
「また難しい顔してる」
「生まれつきだ」
「絶対うそ」
「証明できるか?」
「……できないけど!」
鈴は頬を膨らませた。
その様子を見て、シラスは小さく息を吐いた。さっきまで命の危険があったというのに、彼女はこうして言い返してくる。
それが、妙にありがたかった。
やがて、上の道から聞こえる声が遠のいた。
シラスは書類をしまい、慎重に立ち上がった。
「ここに長居するのは危険だ。少し離れた場所まで移動する」
「うん。……でも、あの人たちは何者なの?」
「分からない」
「私たちを知っていたのかな?」
「それも分からない」
「分からないことばっかりだね」
「旅というのは、だいたいそんなものだ」
「シラスの旅って、いつもこんなに大変なの?」
「お前と出会う前は、もう少し静かだった」
鈴は目を丸くした。
「それって、私のせい?」
「そうは言っていない」
「今、そう聞こえたよ!」
「気のせいだ」
「絶対に気のせいじゃない!」
小声で言い合いながら、二人は水路を進んだ。
やがて岩場の陰に、風をしのげそうな窪みを見つけた。追手の気配はまだ消えていない。今夜はここで休み、夜明け前に動く方がいいだろう。
シラスは入口から周囲を確認してから、鈴に座るよう促した。
「少し休め。交代で見張る」
「シラスが先?」
「ああ」
「……無理しないでね」
鈴の声は、先ほどまでより静かだった。
シラスは一瞬だけ彼女を見た。
「分かっている」
そう答えて、彼は暗い旧街道の方へ視線を戻した。
宿場跡で出会った男は、書類を渡せと要求してきた。だが、追手が現れた途端、彼は明らかに怯えていた。まるで、書類が彼らの手に渡ることだけは避けたかったかのように。
敵だったのか。それとも、別の何かから逃げていたのか。
答えはまだない。
ただ一つ確かなのは、あの記録を見つけたことで、二人は知らない誰かの思惑に触れてしまったということだった。
シラスは腰の剣に手を添えた。
夜は、まだ長い。




