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日暮れ前の宿場跡

石柱の分岐点を越えてから、シラスと鈴は足を速めていた。


空は少しずつ赤みを帯び始めている。


木々の隙間から差し込む夕日が、荒れた街道を長く照らしていた。道の両側には背の高い草が広がり、ときおり風に揺れた草むらから小さな動物が飛び出してくる。


鈴はそのたびに肩を跳ねさせていた。


「……ねえ、今の何?」


「小動物だろう」


「分かっているわ。分かっているけど、急に飛び出してくるんだもの」


「音を聞いていれば、ある程度は分かる」


「あなたは耳がいいのね」


「慣れだ」


シラスは短く答えた。


鈴は感心したように彼の横顔を見たあと、今度は意識して周囲の音に耳を澄ませた。


風の音。


草の擦れる音。


遠くで鳥が鳴く声。


そして、自分とシラスの足音。


しばらくすると、鈴は少し得意げに顔を上げた。


「どう? 私もちゃんと聞いているわよ」


「そうか」


「……それだけ?」


「何を期待しているんだ?」


「もういいわ!」


鈴はぷいと顔を背けた。


シラスは小さく息を吐いた。


だが、彼女が周囲に注意を向けるようになったのは良いことだった。


先ほどの襲撃以来、彼は警戒を緩めていない。あの三人が本当に盗賊だったとしても、同じ道を通る旅人を狙う者がほかにいないとは限らない。


まして、あの見慣れない金属筒を使う男がいたのだ。


普通の盗賊と決めつけるには、気になる点が多すぎた。


「シラス」


鈴が声を落とした。


「さっきの人が言っていた宿場跡って、この先にあるのよね?」


「ああ。地図にも記されている」


「どうして、夜になると近づかないほうがいいのかしら」


「本人に聞かなければ分からない」


「……あなたって、分からないことに対する答えが、いつも同じね」


「分からないものは分からない」


「もう少し想像してもいいと思うわ」


「想像で危険を判断するつもりはない」


鈴は唇を尖らせた。


「じゃあ、実際に危険があったらどうするの?」


「そのとき考える」


「それ、さっき私に言ったことと同じじゃない?」


シラスは一瞬、言葉に詰まった。


鈴はそれを見逃さなかった。


「ほら! あなたも、まだ起きていないことを考えているじゃない!」


「……状況を想定するのと、無意味に心配するのは違う」


「はいはい」


鈴は勝ち誇ったように笑った。


シラスは反論を諦め、前方へ視線を戻した。


そのとき、道の向こうに石造りの壁が見えた。


崩れかけた建物がいくつも並び、かつて荷車が通っていたと思われる広場には、雑草が膝の高さまで伸びている。


古い宿場跡だった。


街道から少し離れた場所には、屋根の一部が残った建物がある。壁に刻まれた文字は風化し、看板らしき木片も半ば土に埋もれていた。


「……ここが、そうなのね」


鈴は足を止め、周囲を見渡した。


「昔は、たくさんの人がここで休んでいたのかしら」


「位置から考えれば、街道を通る商隊が利用していた可能性は高い」


シラスは建物の配置を確かめた。


広場の周囲には、比較的大きな建物が二つ。奥には倉庫らしい石造りの建物があり、さらに道を挟んだ場所には井戸の跡が残っている。


商隊の休憩所として使われていたのなら、食料や荷物を一時的に保管していた可能性もある。


鈴は崩れた壁の近くへ歩きかけた。


「少し中を見てみてもいい?」


「待て。先に周囲を確認する」


シラスは広場の端から端まで目を走らせた。


足跡がある。


古いものも多いが、その中には比較的新しい跡も混じっていた。


建物の入口付近には、土を踏み固めたような部分がある。人が何度か出入りした形跡だろう。


「……誰かが来ているな」


「さっきの人?」


「分からない。足跡だけでは判断できない」


シラスは剣の柄に手を添えた。


「勝手に中へ入るな。俺が確認するまで、ここで待っていろ」


「分かったわ」


鈴は素直に頷いた。


シラスは最も近い建物へ近づき、入口から内部を覗き込んだ。


中は薄暗く、壁の一部が崩れている。床には木片や石が散らばっていたが、奥に置かれた木箱だけは、ほかの場所と違って不自然に整っていた。


箱の表面には埃が積もっている。


だが、その周囲の床には新しい足跡が残されていた。


誰かが最近、ここを調べたらしい。


シラスは入口から離れ、鈴のところへ戻った。


「どうだったの?」


「誰かが建物に入った形跡がある。中に箱もあった」


「宝物かしら?」


「ただの木箱だ」


「開けてみた?」


「まだだ」


「どうして?」


「罠がある可能性もある」


鈴は目を丸くした。


「罠……!」


「可能性の話だ。騒ぐな」


「騒いでないわよ!」


彼女は声を落としたが、その表情には明らかな不安が浮かんでいた。


シラスは周囲をもう一度確認した。


夕日がさらに低くなっている。


ここで長時間調べるのは避けたかったが、誰かが最近この場所へ来ていたのなら、手掛かりが残っているかもしれない。


「少しだけ調べる。俺から離れるな」


「うん」


二人は慎重に建物へ入った。


シラスが先に進み、鈴がその後ろにつく。


床板の残骸を避けながら奥へ進むと、例の木箱が見えてきた。


箱は古いが、蓋には新しい傷がいくつもついている。


シラスは剣の鞘で箱の周囲を軽く叩き、底や側面に不自然な仕掛けがないか確認した。


「……罠らしいものはないな」


「開けるの?」


「ああ。ただし、俺がやる」


シラスは箱の蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。


中に入っていたのは、古い布と、折り畳まれた紙だった。


鈴が思わず身を乗り出す。


「本当に何かあったわ!」


「声が大きい」


「ご、ごめんなさい」


シラスは布を慎重に取り除いた。


紙は湿気で変色し、端が破れていた。文字の多くは読めなくなっているが、中央付近にはいくつかの数字と短い記号が残っている。


シラスは紙を広げ、目を細めた。


「……これは、荷物の受け渡しに使う記録かもしれない」


「商隊の記録?」


「断定はできない。ただ、日付らしい数字と、荷物を示す記号がある」


鈴は紙の端を覗き込んだ。


「ここ、何か書いてあるわ」


彼女が指したのは、右下の小さな印だった。


円形の枠の中に、交差する二本の線。


シラスの表情が変わった。


ラヴェンヌで調べた古い書類。


そして、街道で見つけた金属片。


それらに刻まれていたものと、よく似ている。


「……やはり、この印か」


「同じものなの?」


「まだ断言はできない。だが、偶然にしては気になる」


シラスは紙を破らないように注意しながら、記号の周辺を確認した。


そのときだった。


建物の外から、石を踏む音が聞こえた。


二人は同時に顔を上げた。


足音は一つではない。


ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。


シラスは紙を元の布に包み、箱の中へ戻した。


「鈴、後ろへ下がれ」


「……また?」


「声を出すな」


シラスは入口の横へ移動し、壁に身を寄せた。


外の足音が止まる。


しばらくして、男の声が聞こえた。


「おい。中に誰かいるのか?」


返事はしない。


「いるのは分かっている。隠れていないで出てこい」


シラスは剣を抜いた。


鈴は彼の背後で息を潜めていた。


やがて、入口に一人の男が姿を現した。


粗末な外套をまとい、腰には短い剣を下げている。


その男は室内を見回し、箱に目を留めた。


「……お前たちか。箱を開けたのは」


シラスは剣先をわずかに上げた。


「ここはお前の場所なのか?」


男は答えず、警戒するように二人を見比べた。


「その箱の中身を渡せ」


「理由を聞こう」


「お前たちには関係ない」


「なら、渡す理由もないな」


男の表情が険しくなった。


「面倒なことになる前に、渡しておけ」


「面倒なことを起こしに来たのは、そっちだろう」


一瞬、空気が張り詰めた。


男は腰の剣に手を伸ばしかけたが、シラスが一歩前へ出ると、その動きを止めた。


「……お前、何者だ?」


「質問に答えるのは、そっちが先だ」


男は舌打ちした。


その視線が、シラスの背後にいる鈴へ移る。


ほんの一瞬だった。


しかし、シラスはその目の動きを見逃さなかった。


「彼女を見るな」


低い声が、室内に響いた。


男は驚いたように目を戻した。


「……女連れか。なら、なおさら賢く立ち回れ。こんな場所で騒ぎを起こしても、誰も助けには来ないぞ」


「脅しのつもりか?」


「忠告だ」


男はそう言った。


その言葉に、シラスは先ほど分岐点で出会った男を思い出した。


日暮れ前に宿場跡を通り過ぎろ。


夜になると、近づかないほうがいい。


まさか、目の前の男が同じ人物というわけではないだろう。声も体格も違う。


だが、彼らがこの場所で何かを警戒していることは明らかだった。


「ここで何をしている?」


シラスが問いかける。


男は答えなかった。


代わりに、入口の外へ視線を向けた。


その瞬間、遠くから別の足音が聞こえた。


男の顔色が変わる。


「……ちっ。もう来たのか」


「誰が来る?」


シラスが尋ねる。


男は舌打ちし、後ずさった。


「今は説明している時間がない。箱には触るな。紙も持ち出すな」


「お前の指図を受ける理由はない」


「なら、好きにしろ。ただし、夜までここにいるな」


男はそう言い残し、建物の外へ飛び出した。


シラスは追いかけようとしたが、外から聞こえてきた複数の足音に気づき、踏みとどまった。


今、追えば鈴を一人にすることになる。


それに、相手が何人いるのか分からない。


シラスは剣を構え直し、入口の外を窺った。


夕日は、すでに丘の向こうへ沈みかけていた。


「……シラス」


鈴が不安そうに囁く。


「ああ」


「私たち、どうするの?」


シラスは箱と入口を交互に見た。


この場所には、何かがある。


古い記録に似た紙。


見覚えのある印。


そして、それを渡せと要求してきた男。


偶然にしては、状況が重なりすぎていた。


しかし、ここで無理に調べ続ければ、危険が増すだけだ。


「まずは外の人数を確認する。それから、ここを離れる方法を考える」


「……分かった」


鈴は震える手を握りしめた。


彼女も怖いのだろう。


それでも、逃げ出そうとはしなかった。


シラスは一瞬だけ彼女を振り返り、静かに言った。


「大丈夫だ。状況を見て、必ず道を探す」


鈴は彼の目を見つめた。


そして、小さく頷いた。


建物の外では、足音が増えていた。


古い宿場跡に、夜の気配が迫る。


ドルンウィックへ向かうはずだった二人の旅は、思いがけない場所で、新たな問題に直面していた。

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