追われる理由
旧東方街道を進みながら、シラスは何度も背後を振り返っていた。
先ほどの襲撃から、すでに一時間ほどが過ぎている。
追っ手の姿は見えない。
それでも、シラスは警戒を解かなかった。人の通らない道で待ち伏せを仕掛けてきた相手だ。逃げたからといって、二度と現れないとは限らない。
「……ねえ、シラス」
隣を歩く鈴が、控えめな声で話しかけた。
「何だ?」
「さっきから、後ろばかり見ているわね」
「追ってきていないか確認している」
「分かっているけど……そんなに何度も振り返らなくてもいいんじゃない?」
「一度確認しただけで安心できる相手じゃない」
「それは、そうだけど」
鈴は少し考え込んだあと、わざとらしく後ろを振り返った。
そして、真剣な顔で言った。
「……誰もいないわ!」
「見れば分かる」
「じゃあ、私の確認は必要なかったわね」
「そうだな」
「そこは少しくらい褒めてくれてもいいでしょう?」
シラスは返事をせず、歩き続けた。
鈴は不満そうに頬を膨らませたが、やがて小さく笑った。
「もう。あなたって、本当に褒めるのが下手ね」
「褒める必要があることをしたら考える」
「今のは、ちゃんと確認したじゃない!」
「俺が確認したあとだった」
「そういう問題じゃないの!」
鈴の声が、静かな街道に響いた。
シラスは思わず口元を緩めた。
襲撃の直後だというのに、彼女はいつもの調子を少しずつ取り戻している。
無理をしている可能性もあったが、少なくとも今は、自分の足でしっかり歩いていた。
それを確認すると、シラスの肩からわずかに力が抜けた。
やがて二人は、街道の脇にある小さな水場へたどり着いた。
かつて旅人が休憩に使っていた場所らしく、低い石壁に囲まれた井戸と、崩れかけた木製の屋根が残っていた。
シラスは周囲を確認してから、鈴に休憩を告げた。
「少し休む。水を補給しておこう」
「やっと休めるのね……!」
鈴は近くの石に腰を下ろした。
「歩くのは平気だけど、ずっと緊張していると疲れるわ」
「それは分かる」
シラスは井戸の状態を調べ、問題がないことを確認してから水をくみ上げた。
二人は革袋に水を補給し、持参したパンと干し肉で簡単な食事を取った。
鈴はパンをかじりながら、ふとシラスの手元に目を向けた。
「ねえ。さっきの武器、あのまま置いてきてよかったの?」
「持ち帰る理由がなかった」
「でも、どんな仕組みなのか調べられたかもしれないわ」
「危険な道具を、仕組みも分からないまま持ち歩くわけにはいかない」
「確かに……」
鈴は納得したように頷いた。
しかし、すぐに別の疑問が浮かんだらしい。
「じゃあ、あの人たちはどうして、あんなものを持っていたのかしら?」
「それは俺も気になっている」
シラスは水袋の口を閉じた。
「魔道具を使う盗賊がいても不思議じゃない。だが、あの道具を使って何度も攻撃するつもりだったなら、普通の盗賊より準備がいい」
「誰かから買ったのかもしれないわね」
「可能性はある」
「それとも、誰かに渡されたとか?」
「それも否定できない」
鈴はパンを食べる手を止めた。
「……もしかして、私たちがここを通ると知っていたのかしら」
シラスはすぐには答えなかった。
今回の襲撃で、相手は二人に荷物を置いていけと要求した。
しかし、攻撃の仕方には違和感があった。
本当に金品が目的なら、最初から致命傷を与える必要はない。相手を脅し、抵抗できなくしてから荷物を奪えばいい。
それなのに、最初の一撃は二人のすぐ近くを狙っていた。
そして、丘の上にいた男は鈴へ視線を向けていた。
偶然なのか。
それとも、何か別の理由があったのか。
「……まだ分からない」
シラスはそう答えた。
「だが、次に誰かが近づいてきたら、すぐに警戒する」
鈴は真剣な顔で頷いた。
「私も、ちゃんと周りを見るわ」
「危険を感じたら、すぐに知らせろ。自分で何とかしようとする必要はない」
「分かっているわ。でも、さっきみたいに、何かできることがあるかもしれないでしょう?」
シラスは彼女を見た。
鈴の表情には、先ほどのような戸惑いだけではなく、少しの決意も見えた。
「……あの力を使おうとするな」
「どうして?」
「お前自身が、何が起きたのか分かっていないからだ。使おうとして、予想外のことが起きたらどうする?」
「それは……」
鈴は言葉に詰まった。
自分の力が誰かを傷つける可能性を、考えていなかったわけではない。
ただ、シラスが危険にさらされているのを見て、何もできないことが嫌だった。
「でも、あなたが危ないときに、何もしないのは嫌よ」
「何もしないでいろと言っているわけじゃない。周囲を見て、逃げ道を確保する。それも立派な助けだ」
シラスは静かに続けた。
「お前が無事でいてくれるだけでも、俺は動きやすい」
鈴は目を見開いた。
「……それって」
「何だ?」
「い、いえ。何でもないわ!」
彼女は急いで顔を背けた。
耳が少し赤くなっている。
シラスは不思議そうに首を傾げたが、結局それ以上は聞かなかった。
しばらく休んだあと、二人は再び街道へ戻った。
午後になると、道は少しずつ下り坂になり、遠くに低い丘陵地帯が見えてきた。
地図によれば、この先には古い分岐点がある。
そこを間違えなければ、ドルンウィックへ続く道に入れるはずだった。
シラスは歩きながら、道の状態と周囲の地形を確認した。
そのとき、鈴が足を止めた。
「……待って」
シラスも立ち止まる。
「どうした?」
鈴は道の端を指さした。
草むらの中に、小さな金属片が落ちていた。
シラスはすぐには近づかず、周囲を確認してから、剣の鞘の先で草を払った。
金属片は、掌に収まるほどの大きさだった。
表面には泥が付着していたが、端の部分に刻まれた模様が見える。
円形の枠の中に、交差する二本の線。
シラスの目が細くなった。
「……これは」
「昨日、書類にあった印と似ているわ」
鈴が小声で言った。
シラスも同じことを考えていた。
ラヴェンヌで見た古い記録の端にあった印。
そして、目の前の金属片に刻まれた模様。
形はよく似ている。
だが、それだけで同じ組織や同じ目的に結びつけることはできない。
シラスは布を取り出し、金属片を包んだ。
「持っていくの?」
「ああ。あとで確認する」
「これが、あの人たちのものだったら?」
「そうだとしても、今は判断できない」
シラスは周囲をもう一度見渡した。
金属片が落ちていた場所は、先ほどの襲撃現場からそれほど離れていない。
ただし、誰かが落としたものなのか、以前からここにあったものなのかは分からなかった。
「……また、分からないことが増えたわね」
鈴が呟いた。
「そうだな」
「でも、少しずつ進んでいる気もする」
シラスは彼女を見た。
鈴は金属片ではなく、街道の先を見つめていた。
「ラヴェンヌでは古い記録を見つけた。ここでは、記録にあった印と似たものを見つけた。まだ何も分かっていないけれど、全部がばらばらというわけでもないのかもしれないわ」
「……その可能性はある」
シラスは慎重に答えた。
「だが、結論を急ぐな。似ているものがあっても、関係があるとは限らない」
「分かっているわ」
鈴は微笑んだ。
「ただ、少し期待しているだけよ」
シラスは何も言わなかった。
期待すること自体を否定するつもりはない。
ただ、その期待を事実と取り違えないことが大切だった。
二人は再び歩き始めた。
やがて、道の先に古い石柱が見えてきた。
左右に一本ずつ立つ石柱は、どちらも上部が欠けている。表面には、かすれた文字と地図に似た線が刻まれていた。
街道の分岐点だ。
シラスは地図を取り出し、石柱の位置と道筋を照らし合わせた。
「こっちだ」
彼が北へ続く道を示す。
鈴は石柱を見上げた。
「昔は、ここにも案内板があったのかしら」
「おそらくな。文字が残っている部分もあるが、今では読めない」
「なんだか、昔の人たちが残した手紙を読もうとしているみたいね」
「手紙なら、もう少し分かりやすく書いてほしいものだ」
「あなた、昔の人にも文句を言うのね」
「読めないものを残されても困る」
鈴はとうとう笑い出した。
「もう、そういうところが本当に変よ!」
「そうか?」
「そうよ!」
笑い声が、古い石柱の間に響いた。
シラスは呆れたように息を吐きながらも、彼女を急かさなかった。
少しだけ、緊張が和らいだ。
だが、彼らが分岐点を越えようとしたとき、シラスは道の向こうに動く影を見つけた。
人影だった。
一人。
道の脇に立ち、こちらを見ている。
旅人なのか。
それとも、先ほどの襲撃者たちと関係があるのか。
シラスは歩みを止め、鈴を自分の後ろへ下がらせた。
人影はすぐには動かなかった。
ただ、二人を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……その道を進むつもりか?」
低い声が、静かな街道に響いた。
シラスは剣の柄に手を添えた。
「そうだ。何か問題でもあるのか?」
男は答える前に、二人の姿を注意深く見比べた。
やがて、わずかに眉を寄せる。
「なら、忠告しておく。ドルンウィックへ行くなら、日が暮れる前にこの先の宿場跡を通り過ぎろ」
「なぜだ?」
男は一瞬、周囲を気にするように振り返った。
「夜になると、あの辺りには近づかないほうがいい」
それだけ言うと、男は道を外れ、草の生い茂る斜面へ歩いていった。
シラスはその背中を見送った。
鈴が不安そうに尋ねる。
「……どういう意味かしら?」
「分からない」
「また、それね」
「事実だ」
鈴は困ったように笑った。
シラスは地図を畳み、男が消えた斜面へ一度だけ目を向けた。
襲撃者たち。
古い印に似た金属片。
そして、日暮れ前に通り過ぎろという忠告。
偶然の出来事が重なっているだけなのか。
それとも、この街道には、まだ知られていない何かがあるのか。
答えは分からない。
ただ一つ確かなのは、ドルンウィックへ続く道が、思っていたほど単純ではないということだった。
シラスは鈴へ視線を戻した。
「急ぐぞ。日が暮れる前に、先へ進む」
「……うん」
鈴は頷き、彼の隣へ並んだ。
二人は古い石柱を後にし、北へ続く道を進み始めた。
遠くの丘の向こうでは、夕暮れがゆっくりと近づいていた。




