古き街道の先へ
ラヴェンヌを出発してから、数時間が過ぎていた。
シラス・ナハトと鈴は、かつて多くの商隊が行き交った旧東方街道を東へ進んでいた。
道の両側には、背の高い草が生い茂っている。ところどころに古い石畳が顔を覗かせているものの、その多くは土に埋もれ、長年の風雨によって崩れていた。
かつては荷車が何台も並んで通れるほど整備されていたらしい。
しかし、今では人の足跡さえまばらだった。
「……本当に、この道で合っているの?」
鈴が地図と目の前の道を交互に見比べた。
「地図では、ここを進むことになっている」
「でも、道がほとんどなくなっているわよ」
「残っている部分を見れば、昔の街道だと分かる」
「そういうものなの?」
「石の敷き方が違う。自然にできた道じゃない」
シラスは足元の石を指先で示した。
草に覆われた地面の下には、一定の間隔で並べられた平らな石が続いている。長い年月を経てひび割れ、端が欠けているものも多いが、人の手によって造られた道であることは明らかだった。
鈴はしゃがみ込み、石の表面を覗き込んだ。
「こんなところにも、昔の人が造ったものが残っているのね」
「道そのものは残っている。ただ、使う人間がいなくなっただけだ」
「……少し寂しいわね」
シラスは返事をしなかった。
使われなくなった道。
人が去った集落。
忘れられた記録。
どれも、今の彼らが追いかけているものと無関係ではない。
しかし、道が廃れた理由と、探している記録が失われた理由が同じだとは限らなかった。
シラスは地図をしまい、先へ進んだ。
鈴もすぐに立ち上がり、その隣へ並ぶ。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「ドルンウィックに着いたら、最初に誰に話を聞くの?」
「まずは、集落の管理人か、古い商人を探す。商業組合の記録に名前が残っているなら、資料を管理している人間がいるかもしれない」
「その人が、私たちに教えてくれるとは限らないわよね?」
「そうだな」
「もし、何も知らないと言われたら?」
「別の人間に聞く」
「もし、誰も知らなかったら?」
「……鈴」
「な、何?」
「着く前から、失敗した場合の話ばかりするな」
鈴は頬を膨らませた。
「だって、先に考えておいたほうがいいでしょう?」
「備えは必要だ。だが、まだ起きてもいないことを全部心配していたら、目的地に着く前に疲れ果てるぞ」
「それは……そうかもしれないけど」
彼女は少し考え込んだあと、顔を上げた。
「じゃあ、着いたらおいしいものを探すことにするわ」
「話を聞いていたか?」
「もちろんよ。失敗した場合のことを考えるのはやめて、楽しみを考えることにしたの!」
「……都合のいい解釈だな」
シラスは小さく息を吐いた。
鈴は満足そうに笑い、軽い足取りで歩き始めた。
その様子を見て、シラスの口元もわずかに緩んだ。
以前なら、旅の途中で誰かの歩調を気にすることなどなかった。
自分の体力と食料、そして周囲の危険。それだけを考えていればよかった。
今は違う。
隣にいる少女が疲れていないか、無理をしていないか、ときどき気にするようになっていた。
それを面倒だと思うこともある。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
昼を過ぎる頃、二人は街道沿いに残された石造りの建物を見つけた。
屋根は半分ほど崩れ、窓には枠だけが残っている。入口の横には、風化した石板が埋め込まれていた。
「ここ、何かしら?」
鈴が建物へ近づこうとした。
「待て」
シラスが手で制した。
「どうしたの?」
「足跡がある」
彼は地面に視線を落とした。
建物の入口付近には、乾いた土に残された靴跡がいくつもあった。風雨で輪郭は崩れかけているが、すべてが古いものではない。
少なくとも、最近ここを通った人間がいる。
シラスは周囲を見渡した。
道の先には低い丘があり、その向こう側は木々に遮られている。風の音以外に、目立った物音はなかった。
「誰かが使っているの?」
鈴が小声で尋ねた。
「分からない。だが、勝手に入るのはやめておこう」
「調べなくていいの?」
「目的は古い建物を探すことじゃない。記録のある場所へ向かうことだ」
シラスは建物から距離を取り、街道の先を確かめた。
そのときだった。
乾いた音が、頭上で弾けた。
シラスは反射的に鈴の腕を引き、地面へ身を沈めた。
直後、彼らが立っていた場所の石が砕け、鋭い破片が飛び散った。
「きゃっ!」
鈴が息を呑む。
シラスは彼女を自分の背後へ押しやり、腰の剣を抜いた。
「動くな」
声は低く、短かった。
丘の上に、人影が見えた。
一人ではない。
岩陰から現れた男が二人、少し離れた木立の向こうに、さらに一人の姿がある。
いずれも旅人のような格好をしていたが、身につけた装備は統一されていない。腰には剣や短い武器を下げ、こちらを警戒するように見下ろしていた。
「おい、そこの二人!」
丘の上から男が叫んだ。
「その場から動くな!」
シラスは剣を構えたまま、相手の位置と距離を確認した。
先ほどの攻撃は、警告のつもりだったのかもしれない。
だが、警告にしては狙いが近すぎる。
「何の用だ?」
シラスが問い返す。
「ここを通るなら、荷物を置いていけ。命までは取らねえ」
鈴がシラスの外套をつかんだ。
「……盗賊?」
「その可能性が高い」
「どうするの?」
「まずは、相手の人数と位置を把握する」
「そんなことをしている間に、また撃ってくるんじゃないの?」
「だから、俺の後ろにいろ」
シラスは相手から目を離さなかった。
三人。
見えている範囲では、それ以上の姿はない。
しかし、崩れた建物や木立の陰に別の人間が潜んでいる可能性もある。
先ほどの攻撃がどこから放たれたのかも、まだ断定できなかった。
「最後に言うぞ! 荷物を置け!」
男が再び叫んだ。
シラスは答えず、相手の足元を観察した。
丘の斜面は急で、石が多い。正面から登れば不利になる。一方、右手には低い岩場が続いており、そこを利用すれば相手の視線を避けながら距離を詰められるかもしれない。
ただし、鈴を連れて動く以上、無理はできない。
「鈴」
「な、何?」
「俺が合図したら、あの岩の後ろへ移動しろ」
彼が視線で示したのは、数歩先にある大きな岩だった。
「あなたは?」
「俺はこいつらを引きつける」
「駄目よ!」
鈴は思わず声を上げた。
「一人で戦うつもりなの?」
「三人とも俺を狙っている。お前まで前に出る必要はない」
「でも……!」
「鈴」
シラスは一瞬だけ振り返った。
「俺を信じろ」
その言葉に、鈴は口を閉じた。
不安は消えていない。
それでも、彼が真剣に状況を見極めていることは分かった。
鈴は唇を引き結び、小さく頷いた。
「……分かった。でも、無茶はしないで」
「ああ」
シラスは再び前を向いた。
丘の上の男が苛立ったように舌打ちした。
「聞こえなかったのか!」
男が腕を振り上げた瞬間、シラスは動いた。
地面を蹴り、街道脇の岩場へ向かって斜めに走る。
直後、再び攻撃が飛んできた。
石畳が砕け、土が跳ねる。
シラスは岩陰へ滑り込むと、鈴へ短く合図した。
「今だ!」
鈴は走った。
小さな身体を低くして岩の後ろへ移動し、身を隠す。
その直後、丘の上から男の怒鳴り声が響いた。
「逃がすな!」
三人のうち二人が斜面を下り始めた。
シラスは岩の陰から様子を窺い、剣の柄を握り直した。
相手は盗賊か、それとも別の目的を持つ者たちなのか。
なぜ、こんな人通りの少ない街道で待ち伏せしていたのか。
今は、考えるべきことが多すぎる。
まずは生き延びる。
そのうえで、何者なのかを確かめる。
シラスは呼吸を整え、迫ってくる足音に意識を集中させた。
そして、背後の岩陰から、鈴の小さな声が聞こえた。
「……シラス、気をつけて」
彼は振り返らず、短く答えた。
「分かっている」
剣を握る手に力がこもる。
旧東方街道での旅は、まだ始まったばかりだった。
だが、その道の先には、古い記録だけではなく、彼らを歓迎しない者たちも待ち受けているらしい。




