失われた記録の行方
翌朝、ラヴェンヌの空は薄い雲に覆われていた。
宿屋の食堂で朝食を済ませたシラス・ナハトは、卓上に広げた地図を眺めていた。
古い商隊の記録。二つの地点に残された、同じ日の通行記録。そして、途中で失われた添付書類。
ここ数日、彼らが追い続けてきた情報は、少しずつ一つの方向へつながり始めていた。
だが、肝心の書類はまだ見つかっていない。
「……また難しい顔をしているわね」
向かいに座る鈴が、温めたミルクを両手で包みながら言った。
「考え事をしているだけだ」
「あなたの場合、考え事をしているときも、怒っているときも、顔があまり変わらないのよ」
「便利だろう」
「どこが便利なのよ……」
鈴は呆れたように息を吐いた。
それでも、すぐに表情を明るくする。
「でも、今日は何か分かるかもしれないんでしょう?」
「商業組合から回答が来るはずだ」
「なら、早く行きましょう!」
鈴は立ち上がりかけたが、シラスがまだ食事を続けていることに気づき、慌てて椅子に座り直した。
「……急がないの?」
「食事くらい落ち着いてさせてくれ」
「分かったわ。待っているから、早く食べてね」
「結局、急かしているじゃないか」
鈴は聞こえないふりをした。
食事を終えた二人は、商業組合へ向かった。
朝の通りには荷車が行き交い、商人たちが商品の値段を交渉していた。活気のある光景だったが、建物の隙間から見える閉ざされた店や、使われなくなった倉庫が、この街の衰退を静かに物語っている。
ラヴェンヌは完全に滅びた街ではない。
ただ、かつて持っていた役割を失い、その空白を埋められないまま、ゆっくりと変化しているのだ。
シラスは通りを歩きながら、古い街道について考えていた。
商人たちが別の道を選ぶようになった理由は、道の荒廃だけではないのだろう。
物流の変化、維持費、安全性。
いくつもの事情が重なり、古い道は使われなくなった。
だからといって、そこに残された記録まで消えてしまったわけではない。
二人が商業組合へ到着すると、昨日対応した職員が窓口で待っていた。
「お待ちしていました。追加申請について、確認が取れました」
シラスは足を止めた。
「受領記録が見つかったのか?」
「受領記録そのものではありません。ですが、該当する資料が移された際の記録について、重要な情報が確認できました」
職員は一枚の写しを取り出し、机の上に広げた。
「こちらは、旧東方街道沿いにあった保管所から、資料を移管した際の記録です。記載されている番号の一部が、あなた方の調査していた書類と一致しました」
シラスは写しに目を落とした。
そこには、資料の分類番号、移管された時期、受け取り側の施設を示す記号が記されている。
そして、その下に短い注記があった。
「……『本記録一式、旧街道東部中継所へ引き継ぐ』」
シラスが読み上げると、鈴が身を乗り出した。
「旧街道東部中継所?」
「はい。移管先として記録されています。ただし、これは古い呼称です。現在の地図では、その名称は使われていません」
「場所は分かるのか?」
「正確な位置を示す資料は、ここには残っていません。しかし、別の管理台帳に、当時の施設を記した略図が添付されていたようです」
「その台帳は?」
「所在を確認したところ、ラヴェンヌのものではなく、街道沿いの小さな集落で保管されていた記録に含まれていた可能性が高いと分かりました」
シラスの目が細くなった。
「集落の名前は?」
職員は別の紙片を確認した。
「現在の名称は、ドルンウィックです。かつて旧東方街道を利用する商人たちが、荷物の受け渡しや休憩に使っていた場所だそうです」
鈴は地図を取り出し、シラスと一緒に確認した。
ラヴェンヌから東へ延びる旧街道。その途中から北へ分かれる道の先に、小さな集落の名前が記されていた。
ドルンウィック。
以前の記録に登場した、古い街道沿いの集落の一つだった。
「つまり、そこへ行けば、探している書類の場所が分かるかもしれないのね?」
「可能性はあります。ただし、台帳そのものが残っている保証はありません」
職員は慎重に付け加えた。
「また、移管記録にあるのは、資料が引き継がれたという事実だけです。現在も同じ場所に保管されているかどうかまでは確認できていません」
「それでも十分だ」
シラスは写しを見つめた。
これまでの調査では、失われた添付書類の所在すら分からなかった。
だが、今回の記録によって、資料がどこへ引き継がれたのか、その手掛かりが得られた。
ようやく、次に向かうべき場所が見えたのだ。
「この記録の写しをもらえるか?」
「申請の範囲内であれば可能です。こちらをお持ちください」
職員は必要な手続きを済ませ、写しをシラスへ渡した。
シラスは丁寧に折り畳み、地図と一緒に外套の内側へしまった。
「助かった。ありがとう」
「お役に立てたのなら何よりです。ただ、これ以上の資料については、現地の管理者に確認してください。古い記録は失われているものも多いので」
「分かった」
二人は商業組合を後にした。
建物を出たところで、鈴が大きく息を吐いた。
「やっと、次に行く場所が決まったわね」
「ああ」
「ラヴェンヌでの調査は、これで終わり?」
「ここで確認できることは、ひとまず終わりだ。ドルンウィックへ行けば、新しい情報が得られるかもしれない」
「だったら、早く出発しましょう!」
鈴は勢いよく歩き始めた。
しかし、数歩進んだところで立ち止まる。
「……ところで、ドルンウィックって遠いの?」
シラスは地図を広げた。
「旧街道を使えば、一日半から二日ほどだろう。道の状態によっては、もっとかかる」
「一日半……」
鈴の顔から、先ほどまでの勢いが少しだけ消えた。
「途中に宿屋は?」
「確かな情報はない」
「食堂は?」
「分からない」
「お風呂は?」
「期待するな」
鈴は両手で顔を覆った。
「どうして、行き先が決まるたびに生活が不便になっていくのよ……」
「古い記録を探しているんだ。観光旅行じゃない」
「分かっているわ。でも、温かい食事くらいは期待してもいいでしょう?」
「食料は買っていく。食べられなくなる心配はない」
「そういうことじゃないの!」
鈴の抗議が、通りを歩く人々の間に響いた。
シラスは周囲から向けられる視線に気づき、彼女の肩を軽く押して歩き出した。
「騒ぐな。目立つぞ」
「誰のせいだと思っているのよ!」
「俺じゃない」
「絶対にあなたのせいよ!」
言い合いながらも、二人は市場へ向かった。
出発に必要な食料と水を買い足し、傷んだ革袋を交換する。鈴は保存の利くパンを選び、シラスは干し肉と乾燥果実の量を確かめた。
途中、鈴は露店に並んだ小さな銀細工に目を留めた。
「これ、きれいね」
彼女が手に取ったのは、小さな金属の飾りだった。
指でそっと触れると、かすかな音が鳴る。
シラスはその音に気づき、彼女の手元を見た。
「気に入ったのか?」
「ううん。ちょっと見ただけ」
鈴は飾りを元の場所へ戻した。
自分の持ち物には、まだ覚えていないことがある。
記憶を失う前に、どこで何をしていたのか。
なぜ、あれほどの魔法を使えるのか。
今も分からないことばかりだった。
それでも、以前よりは不安に押し潰されなくなっていた。
隣には、分からないことを無理に決めつけず、必要なときには一緒に考えてくれる相手がいる。
「鈴」
呼ばれて、彼女は顔を上げた。
「行くぞ」
「うん!」
鈴は小走りでシラスの隣に戻った。
夕方までに、二人は出発の準備を整えた。
宿屋の部屋で荷物をまとめながら、シラスは今回の調査で得た情報を整理した。
古い帳簿に残された、照合を求める注記。
欠落した添付書類。
移管記録に記された、旧街道東部中継所という名称。
そして、ドルンウィックに残されている可能性のある管理台帳。
一つ一つは断片的だ。
どれも、事件の真相を直接示すものではない。
しかし、少なくとも調査を続けるための道筋はできた。
「シラス」
鈴が荷物を背負いながら、彼を見た。
「次の場所でも、私にできることがあったら言ってね」
シラスは一瞬、返事をためらった。
旅を始めたばかりの頃、彼は彼女を連れていくつもりなどなかった。
自分の事情に巻き込めば、危険が増えるだけだと思っていた。
だが、今では彼女が隣にいることを、当たり前のように受け入れ始めている。
それが良いことなのか、まだ分からない。
それでも、彼女を一方的に遠ざけることが正しいとも思えなかった。
「分かった。ただし、危険を感じたら俺の指示に従え」
「もちろんよ」
「勝手に突っ込むな」
「突っ込まないわよ」
「無理をするな」
「分かっているってば!」
鈴は少しむっとしたあと、ふっと笑った。
「あなた、同じことを何度も言うのね」
「大事なことだからな」
その返事を聞き、鈴は柔らかな表情になった。
「……うん。分かったわ」
翌朝、二人はラヴェンヌを発った。
街の門を抜けると、商業都市の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。
前方には、かつて多くの商隊が行き交った旧東方街道が延びている。
石畳が残る区間もあれば、草に覆われて道の輪郭すら曖昧な場所もある。
シラスは地図を確認し、東へ向かう道を選んだ。
鈴はその隣に並び、遠くに続く街道を見つめた。
「ドルンウィックには、どんな人が住んでいるのかしら」
「行けば分かる」
「またそれね」
「事実だ」
鈴は笑い、歩き始めた。
ラヴェンヌで得られたのは、答えではない。
ただ、失われた記録がたどった道筋と、次に向かうべき場所だった。
それでも、彼らは前へ進む。
古い街道の先には、まだ知らない土地がある。
そこに残された記録が、何を明らかにするのか。
そして、二つの地点に同じ日に記された商隊の記録が、いったい何を意味するのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
シラスと鈴は、朝の風を受けながら歩き続けた。
失われた記録を追う旅は、新たな土地へと続いていく。




