許可を待つ朝
ラヴェンヌの朝は、思っていたよりも騒がしかった。
宿屋の窓から差し込む光が、部屋の床をゆっくりと照らしている。通りからは荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音や、商人たちが品物を売り込む声が聞こえてきた。
シラス・ナハトは身支度を整え、椅子の背に掛けていた黒い外套を手に取った。
昨夜、東部保管区へ入るための許可を商業組合に申請した。
返事は早ければ今日。
それが認められなければ、別の方法を考える必要がある。
「……起きているか?」
隣の寝台から、布が擦れる音がした。
「起きているわよ……たぶん」
鈴の声は、まだ眠気を引きずっていた。
シラスは振り返った。
少女は毛布を肩まで引き上げたまま、半分閉じた目で彼を見ている。
「たぶん、じゃ困るんだが」
「だって、朝が早すぎるもの……」
「もう十分に明るい」
「外が明るくなったら、すぐに起きなきゃいけない決まりでもあるの?」
「ない。だが、組合から返事が来るかもしれない」
その言葉を聞いた途端、鈴は毛布から顔を出した。
「許可の返事?」
「ああ」
「それなら、起きるわ」
先ほどまでの眠そうな様子が嘘のように、彼女は上半身を起こした。
シラスは思わず目を細めた。
「……ずいぶん都合のいい目覚ましだな」
「何か言った?」
「いや。準備をしろ。朝食を済ませたら組合へ行く」
「分かったわ!」
鈴は勢いよく返事をした。
その直後、毛布に足を取られて寝台の上で体勢を崩す。
「きゃっ!」
「……急ぐ必要はないと言ったはずだが」
「今のは毛布が悪いの!」
「そうか。毛布に謝っておけ」
「もう、意地悪!」
鈴は頬を膨らませた。
シラスは小さく息を吐いたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
二人は身支度を済ませると、宿屋の食堂へ向かった。
朝食を終え、宿屋を出た頃には、街の通りはすっかり活気づいていた。
荷馬車が行き交い、店先には新鮮な野菜や布地が並んでいる。かつて商業都市として栄えた名残なのか、通りの建物には立派な装飾が施されたものも多かった。
ただし、すべてが繁栄しているわけではない。
閉じられた店の扉や、修繕されないまま放置された建物も目につく。
鈴は歩きながら、左右の店を興味深そうに眺めていた。
「この街、朝から人が多いのね」
「商人が集まる街だからな」
「でも、閉まっているお店も多いわ」
「以前ほど商売が盛んではないんだろう」
「昔はもっと賑やかだったのかしら」
「さあな。俺も昔のラヴェンヌを知っているわけじゃない」
鈴は少し考え込んだあと、ふとシラスを見上げた。
「あなたって、知らないことはちゃんと知らないって言うのね」
「当たり前だろう」
「知っているふりをする人もいるじゃない」
「そういう人間の話を信じると、命取りになることもある」
シラスは周囲に視線を配りながら答えた。
「分からないなら、調べる。それだけだ」
「……うん。私もそうするわ」
鈴は小さく頷いた。
やがて、二人は商業組合の建物へ到着した。
入口には数人の商人が集まり、職員と書類をやり取りしている。中へ入ると、受付の周囲にも人が並び、複数の職員が忙しそうに働いていた。
シラスは昨日対応した職員を探した。
ほどなくして、カウンターの向こうに見覚えのある男性の姿を見つける。
「昨日、東部保管区への立ち入り許可を申請した者だ」
職員はシラスの顔を確認し、手元の書類をめくった。
「ああ、古い記録の参照を希望された方ですね。少々お待ちください」
職員は奥の棚から薄い書類束を取り出し、何枚かを確認した。
その間、シラスは黙って待っていた。
鈴も珍しく余計な口を挟まず、カウンターの上に置かれた帳簿や書類を眺めている。
やがて職員が顔を上げた。
「申請については、条件付きで許可が下りました」
「条件付き?」
シラスはすぐに尋ねた。
「東部保管区の建物は現在、組合が管理しています。ただし、すべての区画を自由に調べられるわけではありません。今回の許可は、旧保管棟のうち、指定された区画に限られます」
「指定された区画には、何が保管されている?」
「古い帳簿や、移管先が明確になっていない書類などです。内容の整理が終わっていないものも含まれています」
職員は書類の一枚を取り出し、シラスへ差し出した。
「こちらが許可証です。入る際には、管理担当者に提示してください。閲覧した資料を持ち出すことは禁止されています。また、書類の並べ替えや、許可のない資料への接触も認められません」
シラスは許可証を受け取った。
「分かった。指定された区画だけを調べる」
「管理担当者の指示には必ず従ってください。保管棟は古く、床や棚が傷んでいる場所もあります。安全のため、立ち入りを制限している区画もありますので」
「承知した」
シラスは書類に目を通し、必要な条件を確認した。
これで、東部保管区へ入るための手続きは済んだ。
だが、目的の資料が残っている保証はない。
記録が別の場所へ移されている可能性もあるし、探している書類そのものが失われているかもしれない。
それでも、何もせずに待つよりは前進だった。
「ありがとうございます」
シラスが礼を述べると、職員は頷いた。
「資料が見つかるといいですね。ただし、古い書類は整理されていないものも多いので、時間がかかるかもしれません」
「覚悟している」
二人は組合の建物を出た。
外へ出ると、鈴が許可証を覗き込んだ。
「これで入れるのね?」
「ああ。ただし、許可された場所だけだ」
「どんなものが見つかるのかしら。昔の商人の日記とか、珍しい地図とか……」
「目的を忘れるな」
「忘れていないわよ。あなたの村について調べるんでしょう?」
鈴は許可証から顔を上げた。
「でも、調べている途中で、ほかのことが分かるかもしれないじゃない」
「それは否定しない」
シラスは許可証を外套の内側へしまった。
「ただ、まずは昨日見つけた記録の続きだ。別紙がどこへ移されたのか、それを確かめる」
以前、東方街道文書庫で見つけた古い帳簿には、記録の詳細を別紙で確認するようにという注記があった。
その別紙は、通常の書類とは別に保管されていた可能性がある。
もし東部保管区に残っていれば、記録の食い違いについて、もう少し具体的な情報が得られるかもしれない。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「もし、何も見つからなかったら?」
シラスはすぐには答えなかった。
通りを行き交う人々の声が、二人の間を流れていく。
「そのときは、別の場所を調べる」
「……それだけ?」
「ほかに何がある?」
「せっかく許可をもらえたのに、何も分からなかったらがっかりするでしょう?」
「がっかりはするだろうな」
シラスは淡々と答えた。
「だが、何も見つからなかったことと、何も存在しないことは同じじゃない」
鈴は彼を見つめた。
「探す場所が違ったのかもしれないし、記録が失われたのかもしれない。あるいは、まだ見つけていないだけかもしれない」
「……あなたらしい考え方ね」
「どういう意味だ?」
「諦めが悪いってこと」
「生き残るには必要な性質だ」
「ふふっ。そうかもしれないわね」
鈴は楽しそうに笑った。
そのとき、彼女の視線が通りの向こうにある菓子店へ向いた。
店先には、焼きたてらしい小さな菓子が並んでいる。
「ねえ、シラス」
「今度は何だ」
「あそこのお菓子、おいしそう」
「……さっき朝食を食べたばかりだろう」
「別腹よ」
「便利な言葉だな」
「でしょう?」
鈴は得意げに胸を張った。
シラスはしばらく店先を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「一つだけだ」
「本当?」
「ああ。調査の前に食べすぎるなよ」
「分かっているわ!」
彼女は嬉しそうに店へ向かった。
シラスはその後ろ姿を見ながら、ほんの少しだけ表情を緩めた。
彼女が何を考えているのか、すべて分かるわけではない。
自分の過去についても、まだ何一つ解決していない。
それでも、今は一緒に歩いている。
それだけは確かなことだった。
菓子を買い終えた鈴が戻ってくる。
「はい、これ」
彼女は買った菓子の一つをシラスへ差し出した。
「俺はいらないと言っていないが、買うとも言っていないぞ」
「一つだけって言ったでしょう? だから、あなたの分も買ったの」
「……そうか」
シラスは菓子を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
鈴は満足そうに笑った。
二人は菓子を食べながら、東部保管区へ向かう道を歩き始めた。
古い記録が、そこに残っているのか。
別紙が見つかるのか。
そして、その記録がシラスの追い求める真実につながるのか。
まだ、何も分からない。
だが、ようやく次の扉を開くための鍵を手に入れた。
あとは、その先に何が待っているのかを確かめるだけだった。




