失われた別紙の手がかり
翌朝、ラヴェンヌの町には薄い霧が残っていた。
夜明けの光はまだ弱く、通り沿いの建物は灰色がかった空の下に沈んでいる。露店の準備をする商人たちの声も、普段よりどこか遠くに聞こえた。
シラス・ナハトは宿屋の食堂で最後の一口を飲み込むと、卓上に置いていた手袋を取った。
今日の目的は決まっている。
東方街道記録庫で見つかった照合台帳。その中に記されていた、所在不明の別紙を探すことだ。
「今日は昨日の続きね?」
向かいに座っていた鈴が尋ねた。
白い髪を左右の低い位置で結んだ少女は、朝食の皿を片づけながら、シラスの顔を見上げている。
「そうだ。まずは別紙の保管場所を確認する。見つからなければ、参照番号から別の記録を探す」
「別紙って、そんなに大切なの?」
「重要かどうかは、内容を見てから判断する」
「……相変わらず慎重ね」
「何も分からないうちから決めつけるよりはいい」
鈴は少し考え、頷いた。
「それもそうね。じゃあ、今日も一緒に探すわ」
彼女が立ち上がると、胸元の銀色の飾りが小さく揺れた。
チリン。
「……鈴」
「な、何よ?」
「その飾り、歩くとよく鳴るな」
「今さら気づいたの?」
「いや、昨日も聞いた」
「だったら、わざわざ言わなくてもいいでしょう!」
鈴は頬を赤くし、飾りを服の内側に隠した。
シラスは不思議そうに首を傾げたが、何も言わずに扉へ向かった。
「ほら、行くぞ」
「待ってよ!」
鈴は慌ててその後を追った。
二人が東方街道記録庫に到着した頃には、町の通りも少しずつ賑わい始めていた。
昨日と同じ受付には、エドマンド・ヴァイスが立っていた。
彼は二人を見ると、手元の書類を置いた。
「昨日の照合台帳の件だな」
「ああ。参照されていた別紙の所在を確認したい」
シラスが答えると、エドマンドは一冊の帳簿を取り出した。
「昨夜、管理記録を確認しておいた。別紙そのものは、現在の保管一覧には登録されていない」
「失われたということか?」
「そこまでは分からない。別紙は、照合台帳の付属資料として扱われていたらしい。だが、古い資料を整理した際に、別の分類へ移された可能性がある」
「どこへ移された?」
「それを今から調べるところだ」
エドマンドは淡々と答え、帳簿を開いた。
「まず、当時の管理番号を現在の分類番号に対応させる必要がある。旧式の番号は、整理の過程で変更されたものが多いからな」
「昨日の参照番号も、変更されている可能性があるのか」
「その通りだ。番号だけを頼りに探すと、別の資料に行き着くこともある」
シラスは頷いた。
「なら、番号の変更記録を調べよう」
「話が早くて助かる」
エドマンドは受付の奥へ二人を案内した。
昨日まで利用していた保管室とは異なり、そこには比較的新しい帳簿や整理記録が並んでいた。棚の札には分類番号が記され、机の上には資料の移動を記録する台帳が積み重なっている。
「ここには、資料の移動や分類変更を記録した帳簿が保管されている」
エドマンドは一冊を取り出し、机に置いた。
「まずは該当する年代を探す。古い記録ほど、整理の仕方が統一されていないから時間がかかるぞ」
「分かった」
シラスは椅子に座り、帳簿を開いた。
鈴も隣に座り、別の台帳を手元へ引き寄せる。
「私はこっちを見ればいいの?」
「ああ。俺が旧式の番号を確認する。お前は分類変更の記録から、似た番号がないか探してくれ」
「任せて」
鈴は袖を少し捲り、真剣な表情で文字を追い始めた。
普段は食べ物や珍しいものに目を輝かせる彼女も、こうした作業に取り組むときは意外なほど集中する。
もっとも、難しい文字が続くと、時折眉を寄せて首を傾げていた。
「……ねえ、これ、何て書いてあるの?」
「見せてみろ」
シラスは彼女の帳簿を覗き込んだ。
「旧東方街道の南側支所だ。文字が崩れているだけだな」
「南側支所……。同じ名前の場所が、今もあるの?」
「名前が残っているだけかもしれない。建物が今も使われているとは限らない」
「そっか。昔の名前が残っていても、場所そのものが残っているとは限らないのね」
「そういうことだ」
鈴は頷き、帳簿に視線を戻した。
作業は地道だった。
古い分類番号を一つずつ確認し、移動先が記されていないか調べる。記録の途中で書式が変わっているものもあれば、番号そのものが欠けているものもあった。
しばらくして、鈴が手を止めた。
「シラス、これを見て」
彼女が指さしたのは、帳簿の端に記された小さな記録だった。
『旧式照合資料。付属書類一式、東部保管区へ移管』
その下には、移管された年代と管理番号が記されている。
「東部保管区……?」
シラスは眉を寄せた。
「昨日の参照番号と一致するのか?」
「番号の最後が少し違うけれど、最初の部分は同じよ。それに、記録の年代も近いわ」
シラスは自分の手元にある控えと照らし合わせた。
確かに、番号の形式はよく似ている。
ただし、これだけで同じ資料だと断定することはできなかった。
「エドマンドに確認しよう」
彼は帳簿を持って受付へ戻った。
エドマンドは記録を確認すると、しばらく考え込んだ。
「東部保管区か……」
「何か分かるのか?」
「現在は使われていない保管区画だ。昔、東方街道沿いの小規模な関所から送られてきた資料を、一時的に保管していた場所らしい」
「今はどうなっている?」
「保管区画としての役割は終えている。中の資料は何度か移動されたはずだが、すべてが現在の一覧に反映されているとは限らない」
「つまり、別紙がそこにある可能性は?」
「否定はできない。ただし、実際に残っているかどうかは別の話だ」
エドマンドは棚から古い施設管理図を取り出した。
「東部保管区は、町の東側にある旧商業倉庫群の一角に設けられていた。今も建物の一部は残っているが、記録庫の管理下にある場所ではない」
「中に入れるのか?」
「許可なく入ることはできない。現在の管理者を確認する必要がある」
シラスは施設管理図を見つめた。
町の東側。
古い倉庫群。
そこは、かつて商人たちが荷物を保管し、街道を行き交う者たちが利用していた地区だという。
現在は使われなくなった建物も多く、地図に記された道の一部はすでに通行できないらしい。
「管理者の記録は残っているか?」
「調べてみよう。だが、すぐには分からないかもしれない」
エドマンドは管理台帳を開き、該当する施設名を探し始めた。
シラスと鈴は、受付のそばで待つことになった。
鈴は施設管理図を覗き込み、古い倉庫の位置を指でなぞった。
「ここ、町の中心から少し離れているのね」
「ああ。歩いて行ける距離だが、今の街道からは外れている」
「昔は、ここにも人がたくさんいたのかしら」
「倉庫が使われていたなら、荷物を運ぶ人間は多かっただろうな」
「今は静かなのね……」
鈴は地図を見つめた。
その表情には、どこか寂しそうな色が浮かんでいた。
「何だ?」
シラスが尋ねると、彼女は慌てて首を振った。
「ううん。何でもないわ。ただ、昔は賑やかだった場所が静かになっているのを見ると、不思議な気持ちになるだけ」
「人も町も、変わっていくものだ」
「……そうね」
鈴は小さく頷いた。
自分にも、忘れてしまった過去がある。
どこで生まれ、誰と暮らし、なぜ記憶を失ったのか。
何一つ思い出せない。
それでも、目の前の古い地図を見ていると、どこかに自分の知らない時間が積み重なっているのだと感じられた。
鈴は胸元の銀色の飾りに触れた。
チリン。
小さな音が鳴る。
「……いつか、私のことも分かるのかな」
その呟きは、シラスに聞こえるかどうか分からないほど小さかった。
だが、彼は何も聞き逃さなかった。
「分からないことを、今すぐ全部知る必要はない」
鈴は顔を上げた。
「え?」
「焦っても、答えが見つかるとは限らない。分かることから一つずつ調べればいい」
それは、記録を調べるときと同じ言葉だった。
鈴はしばらく彼を見つめたあと、少しだけ頬を赤くした。
「……あなたって、時々まともなことを言うのね」
「時々は余計だ」
「だって、普段は意地悪なんだもの」
「お前が勝手に騒いでいるだけだろう」
「なっ……!」
鈴は口を尖らせた。
「もう! せっかく少しだけ感心したのに!」
「少しだけか」
「少しだけよ!」
シラスは小さく息を吐いた。
そのとき、エドマンドが一冊の帳簿を持って戻ってきた。
「確認できたぞ」
二人はすぐに彼へ向き直った。
「旧東部保管区の管理記録は、現在の施設台帳とは別に保管されていた。管理を引き継いだ者の名前も記されている」
「誰だ?」
「当時の商業組合に所属していた倉庫管理人の一族だ。だが、現在もその一族が管理しているかどうかまでは分からない」
エドマンドは帳簿の一部を示した。
「最後に確認された記録によれば、倉庫群の一部は町の商業組合へ管理が移されている。ただし、東部保管区の建物そのものが含まれているかは、これから確認する必要がある」
「商業組合に聞けばいいのか」
「まずはそうするのが妥当だろう。私から照会状を出すこともできるが、返事が来るまで時間がかかる」
シラスは少し考えた。
「俺たちが直接行って、話を聞くことはできるか?」
「商業組合が応じるかどうかは分からない。だが、施設の管理状況を尋ねるだけなら、問題はないはずだ」
「分かった」
シラスは必要な情報を紙に書き留めた。
別紙が見つかったわけではない。
それでも、その所在を追うための手がかりは一つ増えた。
記録庫を出る前に、シラスはエドマンドへ礼を述べた。
「助かった」
「まだ何も解決していない。調べるなら、記録に書かれた事実と推測を混同しないことだ」
「分かっている」
エドマンドは頷き、帳簿を閉じた。
「それと、旧倉庫群は建物の傷みが激しい場所もある。立ち入りが許されたとしても、勝手に奥まで入らないほうがいい」
「忠告として受け取っておく」
二人は記録庫を後にした。
外へ出ると、朝の霧はすっかり消えていた。
空には薄い雲が広がり、通りには昼前の活気が戻っている。
鈴は地図を胸に抱えながら、シラスの隣を歩いていた。
「次は商業組合ね」
「ああ。旧東部保管区の管理者が誰なのか、まずは確認する」
「別紙が見つかれば、昨日の記録のことも分かるかもしれないわね」
「そうだな。ただ、見つかったとしても、何が書かれているかは分からない」
「……あなたって、本当に期待させてくれないわね」
「期待するのは自由だ。だが、事実が変わるわけじゃない」
鈴は呆れたように彼を見た。
「少しくらい、希望を持たせてくれてもいいでしょう?」
「別紙が見つかる可能性はある」
「それだけ?」
「今のところはな」
「もう!」
鈴は頬を膨らませた。
それでも、すぐに表情を戻し、手元の地図を開いた。
「……でも、行ってみる価値はありそうね」
「ああ」
シラスは短く答えた。
二人の視線の先には、古い倉庫群がある東側の通りが続いていた。
かつて多くの商人たちが荷物を運び、街道を行き交っていた場所。
今では使われなくなった建物が並び、その一角には、古い記録が眠っているかもしれない。
シラスは腰の剣に軽く触れた。
記録庫での調査は、少しずつ前に進んでいる。
しかし、見つかった手がかりは、まだ細い糸にすぎない。
それをたどる先に何があるのか。
彼らはまだ知らなかった。




