照合台帳の行方
翌朝、シラス・ナハトは宿屋の窓から差し込む光で目を覚ました。
窓の外では、荷馬車が石畳を走る音や、商人たちの呼び声が聞こえている。ラヴェンヌの町は、昨日と変わらない朝を迎えていた。
しかし、シラスの頭の中には、昨夜から一つのことが引っかかっていた。
東方街道記録庫で見つけた、あの短い注記。
『第十七日、収穫月。東方街道経由の商隊記録について、照合を要す』
それだけでは、何も分からない。
単なる転記ミスかもしれないし、記録の形式が違っていただけかもしれない。
だが、誰かがわざわざ照合の必要性を書き残したのなら、当時の担当者には何らかの理由があったはずだ。
問題は、その理由がどこに残されているのかだった。
「……考えていても仕方ないか」
シラスはベッドから起き上がり、装備を整えた。
腰の剣を確かめ、外套を羽織る。
部屋を出ると、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。
「シラス!」
白い髪を左右の低い位置で結んだ少女が、小走りで近づいてくる。
セレスティーヌ――今はシラスがつけた仮の呼び名である鈴と呼ばれている少女は、両手で小さな包みを抱えていた。
「朝食を持ってきたわ!」
「……どうした、それは」
「宿屋の人が、部屋でも食べられるようにって用意してくれたの。パンと果物よ」
鈴は包みを開き、得意げに中身を見せた。
「昨日、あなたが食べ物を取り上げたから、今日は先に確保しておいたの」
「まだ根に持っていたのか」
「当然でしょう!」
彼女は胸を張った。
「食べ物の恨みは深いのよ」
「大げさだな」
「大げさじゃないわ!」
シラスは呆れたように息を吐いた。
だが、鈴の手元にあるパンを見て、少しだけ口元を緩める。
「好きに食べろ。今日は取り上げない」
「……本当?」
「そんなことで嘘をついてどうする」
鈴は疑うように彼の顔を見つめたあと、ようやく安心したように頷いた。
「なら、いいわ」
そう言ってパンを一つ手に取る。
その表情は、昨日までよりも少しだけ柔らかかった。
二人は食堂へ向かい、簡単な朝食を済ませた。
その後、シラスは東方街道記録庫へ向かう準備を整えた。
「今日は昨日の続きね?」
鈴が尋ねる。
「ああ。照合台帳を調べるための申請を出す」
「昨日の記録に書かれていたもの?」
「そうだ。関連する帳簿が残っていれば、何か分かるかもしれない」
「もし、何も残っていなかったら?」
「別の手がかりを探すだけだ」
シラスは淡々と答えた。
「一つの記録に頼りすぎるのは危険だからな」
鈴は少し考えてから頷いた。
「……分かったわ。私も地図を見直しておく」
「頼む」
二人は宿屋を出た。
朝のラヴェンヌは、昼間とは違う表情を見せていた。
店先では商品を並べる者たちが忙しく動き、荷馬車の御者たちは馬の具合を確かめている。市場へ向かう人々の手には、買い物用の籠や布袋があった。
活気はある。
だが、通りを一本外れると、閉じられたままの店や、使われなくなった倉庫が目についた。
かつてこの町が大きな商業拠点だったことを思わせる建物は、今では静かに朽ちつつある。
「昔は、もっと賑やかだったのかしら」
鈴が古い倉庫を見上げて呟いた。
「そうかもしれないな」
「どうして、こんなに使われなくなったの?」
「商人が別の道を使うようになった。そういうことは、どこにでもある」
「でも、少し寂しいわね」
シラスは答えなかった。
彼もまた、以前は賑わっていたはずの通りを眺めていた。
人が去った理由が分かれば、町の衰退も説明できるのだろう。
だが、今の彼らに必要なのは、町全体の歴史を調べることではない。
まずは、残された記録を追うことだった。
東方街道記録庫に到着すると、昨日と同じ受付にエドマンド・ヴァイスが立っていた。
彼は二人を見ると、手元の書類を整えた。
「昨日の件だな」
「ああ。照合台帳の閲覧申請を出したい」
シラスは用意していた申請書を差し出した。
エドマンドは受け取り、内容を慎重に確認する。
「対象は旧東方街道の通行記録。収穫月の第十七日に関係する照合記録……か」
「昨日見つけた注記に関係するものだけでいい」
「それなら、調査範囲は限定できるな」
エドマンドは書類の端に何かを書き込み、別の用紙と照らし合わせた。
「ただし、すぐに閲覧できるとは限らない。照合台帳は通常の通行記録とは保管区分が異なる。古い資料の中には、番号が変更されたものもあるからな」
「どのくらいかかる?」
「資料の所在が確認できれば、今日中に閲覧許可を出せる可能性はある」
「分かった。待つことにする」
エドマンドは申請書を受理し、管理用の帳簿に必要事項を記入した。
「確認が済むまで、別の記録を調べていて構わない。ただし、昨日と同じ規則を守ってもらう」
「もちろんだ」
「……それと」
エドマンドはシラスの顔を見た。
「古い記録を調べていると、少しの不一致が大きな意味を持つように見えることがある。だが、記録の不備と不正は別物だ。そこを混同しないようにな」
シラスは一瞬だけ黙った。
「分かっている。俺は、何が起きたのかを確かめたいだけだ」
「ならいい」
エドマンドはそれ以上追及せず、二人を第三保管室へ案内した。
室内には、昨日と同じように木箱と帳簿が整然と並んでいた。
シラスは許可された資料を机に置き、昨日の記録番号と照らし合わせる作業を始めた。
鈴も隣で地図を広げ、古い関所や街道の名称を確認していく。
最初の一時間は、ほとんど進展がなかった。
似たような番号がいくつも見つかったものの、該当する照合台帳は見つからない。
年代の表記が異なるものもあり、同じ記録を別の形式で写したらしい帳簿もあった。
「……思ったより大変ね」
鈴が疲れたように呟いた。
「古い資料だからな。整理し直されたものも多い」
「もっと簡単に見つかると思っていたわ」
「簡単に見つかるなら、昨日の時点で分かっている」
「それはそうだけど……」
鈴は頬を膨らませた。
それから、地図を机の端へ寄せ、別の帳簿を開く。
「でも、何も見つからないよりはいいわ。少なくとも、調べるものは増えたんだもの」
シラスは彼女を一瞥した。
「……前向きだな」
「悪い?」
「いや」
シラスは再び帳簿に目を落とした。
「助かる」
その一言に、鈴の手が止まった。
「え……?」
「一人で調べるより、二人のほうが早いという意味だ」
「そ、そう……」
鈴は視線をそらした。
「最初からそう言えばいいのに。わざわざ変な言い方をするんだから……」
「変な言い方をした覚えはない」
「もういいわ!」
彼女は赤くなった頬を隠すように、帳簿へ顔を近づけた。
シラスは首を傾げたものの、特に追及せずに調査を続けた。
昼を少し過ぎた頃、受付から一人の職員が第三保管室へやってきた。
「ヴァイスさんから伝言です。申請された照合台帳の一部が見つかったそうです」
シラスはすぐに顔を上げた。
「閲覧できるのか?」
「はい。ただし、確認できたのは該当する年代の台帳が保管されていることまでです。中身の照合には、もう少し時間がかかるとのことでした」
「分かった。案内してくれ」
職員は頷き、二人を別の保管区画へ案内した。
そこは第三保管室よりも狭く、棚の間隔も広く取られていた。古い帳簿を保管するためか、窓は小さく、室内には乾燥した紙の匂いが漂っている。
棚の一角に、年代ごとの分類札が並んでいた。
職員は一つの木箱を取り出し、机の上へ置いた。
「こちらが旧式の照合台帳です。閲覧できるのは、この箱に収められた資料のうち、申請された年代に該当する部分だけになります」
「十分だ」
シラスは箱の蓋を開けた。
中には、厚さも大きさも異なる帳簿が何冊も収められていた。
一冊ずつ表紙を確かめ、記録の年代を確認する。
やがて、目的の年代に該当する一冊が見つかった。
シラスは慎重にページをめくった。
そこには、各地の関所から集められた通行記録の照合結果が記されていた。
商隊の名称、荷物の種類、通過した日時、記録元となった関所。
そして、一部の項目には、照合を行った担当者の署名が添えられている。
鈴も隣から帳簿を覗き込んだ。
「これが、昨日の記録に関係するものなのね」
「まだ分からない。まずは日付を探す」
シラスは収穫月の記録を順番に確認していった。
第十五日。
第十六日。
そして、第十七日。
該当するページには、複数の商隊の記録が並んでいた。
その中の一つに、別の帳簿への参照を示す印が付けられている。
シラスは手を止めた。
「……これか」
参照先には、昨日見つけたものとよく似た管理番号が記されていた。
ただし、末尾の数字が異なっている。
「同じ番号じゃないの?」
鈴が尋ねた。
「いや。似ているが、別の番号だ。記録の分類が違うのかもしれない」
シラスは該当する商隊の名称を確認した。
しかし、記録されているのは名称と荷物の種類、そして関所を通過した時刻だけだった。
照合が必要になった理由は、そこには書かれていない。
ページの下には、短い追記があった。
『詳細は別紙参照。原記録との確認が必要』
「別紙……?」
鈴が呟いた。
「その別紙が見つかれば、理由が分かるかもしれないわね」
「そうだな」
シラスは追記と管理番号を控えた。
だが、帳簿の中に別紙らしきものは見当たらない。
記録が別の箱へ移されたのか、それともすでに失われているのか。
今の段階では判断できなかった。
二人は職員に確認したが、別紙の所在までは分からなかった。
結局、その日はそれ以上の調査を進められなかった。
記録庫を出る頃には、日が傾き始めていた。
通りには夕方の買い物をする人々が増え、荷馬車の往来も少しずつ落ち着いている。
シラスは歩きながら、手元の記録を頭の中で整理していた。
照合が必要だと記された通行記録。
別の台帳に残された参照番号。
そして、所在の分からない別紙。
それぞれが何らかの形でつながっている可能性はある。
しかし、まだ断定できることは何もなかった。
「ねえ、シラス」
隣を歩く鈴が声をかけた。
「明日も、あの記録庫へ行くの?」
「ああ。別紙の所在を確認する。それが無理なら、参照先の番号をもとに別の記録を探す」
「……まだまだ時間がかかりそうね」
「そうだな」
シラスは空を見上げた。
雲の隙間から、夕暮れの光が差し込んでいる。
焦るつもりはなかった。
わずかな手がかりに飛びつき、間違った答えを信じるわけにはいかない。
自分が探しているものは、ただの古い記録ではないのだから。
「でも、何も分からなかったわけじゃないでしょう?」
鈴が言った。
「昨日よりは、少し先に進めたもの」
シラスは彼女を見た。
白い髪が夕風に揺れ、胸元の銀色の飾りが小さく鳴る。
チリン。
「……そうだな」
彼は短く答えた。
鈴は嬉しそうに微笑んだ。
「なら、明日も頑張りましょう!」
「お前は、まず朝食を食べすぎないことだな」
「なっ……! まだその話をするの!?」
「昨日、パンを取り上げられたと騒いでいたのは誰だ?」
「それはあなたのせいでしょう!」
夕暮れの通りに、鈴の抗議の声が響いた。
シラスは小さく息を吐きながら、歩く速度をわずかに落とした。
彼らが見つけたのは、まだ断片的な記録にすぎない。
けれど、その断片を一つずつつなげていけば、いつか何かにたどり着くかもしれない。
翌日、二人は別紙の行方を確かめるため、もう一度東方街道記録庫を訪れることになる。




