古い記録に残された違和感
翌日の朝、ラヴェンヌの空は薄い雲に覆われていた。
夜の間に降った雨の名残が石畳に残り、通りを歩く人々の靴音が、湿った路面に小さく響いている。
シラス・ナハトは宿屋の食堂で朝食を済ませると、向かいに座るスズへ視線を向けた。
白い髪を左右の低い位置で結んだスズは、焼きたてのパンを両手で持ち、真剣な顔で最後の一口を食べていた。
「……もう食べ終わったぞ」
「分かっているわ。今、食べているところでしょう?」
「そうか」
シラスはそれ以上何も言わず、椅子から立ち上がった。
スズは慌ててパンを口に押し込み、飲み込んでから彼の後を追う。
「ちょっと、待ってよ!」
「急げと言った覚えはない」
「だったら、そんなに早く歩かないで!」
「普通に歩いているだけだ」
「それが普通なの?」
シラスは振り返り、彼女の顔を見た。
スズは不満そうに頬を膨らませている。
彼は小さく息を吐いた。
「……行くぞ、鈴」
「うっ……」
言い返せなくなったスズは、悔しそうに口を閉じた。
胸元の銀色の飾りが、歩くたびにかすかに揺れる。
チリン。
その音を聞いたシラスは、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
「……やっぱり、その名前でいいだろう」
「な、何がよ!」
「いや、何でもない」
シラスは再び歩き始めた。
スズは顔を赤くしながら、その背中を追いかける。
「もう……!」
文句を言いながらも、彼女の足取りは昨日より少し軽かった。
二人が向かったのは、ラヴェンヌの中心部から少し離れた場所にある東方街道記録庫だった。
古い商業組織の建物を利用した施設で、外壁には長い年月を経た石の傷跡が残っている。入口の上には、かつて街道を管理していた組織の紋章が掲げられていた。
建物の周囲には、記録を運ぶための荷車が一台停まっている。
朝早い時間のためか、訪れる人の姿は少なかった。
シラスは扉を押し開け、受付へ向かった。
昨日と同じように、書類を整理していたエドムント・ヴァイスが顔を上げる。
「また来たのか」
「昨日の続きだ。通行記録を調べたい」
「対象となる時期と街道は?」
「まずは、古い東方街道の通行記録だ。現在使われている道と、以前使われていた道の違いも確認したい」
エドムントは手元の帳簿を閉じた。
「範囲が広いな。年代を絞る必要がある」
「分かっている。昨日確認した資料をもとに、調べる範囲を少しずつ狭めるつもりだ」
「なら、昨日の閲覧記録を持ってこい。どこまで調べたのか確認する」
シラスは差し出された用紙に必要事項を書き込み、エドムントへ渡した。
彼はそれを読み、いくつかの項目に目を通したあと、奥の棚を指さした。
「まずは第三保管室だ。東方街道の通行記録は年代ごとに分けてある。閲覧できるのは、こちらで許可した箱だけだ。持ち出しは禁止。記録への書き込みも認めない」
「分かった」
「不明な点があれば、その場で尋ねろ。勝手に別の棚を開けるな」
「約束しよう」
「その言い方は、少し気になるが……」
エドムントは眼鏡の位置を直し、ため息をついた。
「まあいい。案内する」
第三保管室には、木製の棚が整然と並んでいた。
棚には年代を示す札が付けられ、箱の側面には管理番号と記録の種類が記されている。
紙の匂いと乾燥した木の匂いが混じり、室内には独特の静けさがあった。
エドムントは一つの棚から数冊の帳簿を取り出し、長机の上へ置いた。
「これが、旧東方街道の通行記録だ。年代によって書式は違うが、基本的には通過した商隊、荷物の種類、通行時刻、担当者が記録されている」
「商隊の名前が分かれば、別の記録も探せるのか?」
「商業組合の帳簿や、各地の関所に残された記録と照合できる場合はある。ただし、すべてが保存されているわけではない」
エドムントは念を押すように続けた。
「記録が見つからないからといって、誰かが意図的に隠したとは限らない。破損、紛失、転記漏れ。理由はいくらでもある」
「分かっている」
「本当に分かっているといいがな」
エドムントはそう言い残し、別の閲覧者に呼ばれて部屋を出ていった。
扉が閉まると、室内には再び静寂が戻った。
シラスは椅子に腰を下ろし、最初の帳簿を開いた。
スズも隣の席に座り、机の上に地図と筆記用紙を広げる。
「私は地図を見比べればいいの?」
「ああ。昨日の地図と照らし合わせて、道の名前や関所の位置が変わっていないか確認してくれ」
「分かったわ」
スズは真剣な顔で地図を覗き込んだ。
シラスは帳簿のページをめくっていく。
記録されているのは、商隊の名称、荷物の内容、通過した日時、担当者の署名。
どれも一見すると、ありふれた業務記録だった。
麦、塩、鉄製品、布地、薬草。
商隊の規模もまちまちで、数台の荷車を連ねた小規模な集団もあれば、十台以上の荷馬車を引き連れた大商隊もある。
シラスは気になる項目を紙に書き写しながら、記録を確認していった。
しばらくすると、スズが小さく声を上げた。
「ねえ、シラス」
「どうした?」
「この地図なんだけど、同じ名前の関所が二つあるわ」
シラスは帳簿から顔を上げた。
スズが指さしているのは、旧東方街道の分岐を示した地図だった。
「同じ名前?」
「ええ。こっちは今の街道沿いにある関所。でも、こちらにも同じ名前が書かれているの。古い道のほうよ」
シラスは立ち上がり、彼女の隣へ移動した。
地図を覗き込むと、確かに二つの地点に似た名称が記されていた。
ただし、片方は文字が薄く、古い記録を後から写し取ったものらしい。
「……書き間違いかもしれないな」
「でも、場所が違うわ。こちらは川の近くで、もう一つは山道の入口よ」
スズは地図の上を指でなぞった。
「同じ場所の名前が移されたのかしら。それとも、同じ名前の関所が二つあったの?」
「まだ分からない。地図だけでは判断できないな」
シラスは該当する地名を手元の紙に書き留めた。
今すぐ何かが分かったわけではない。
だが、街道の変遷を調べるうえでは、確認する価値がありそうだった。
二人は再び机に戻り、帳簿の調査を続けた。
それからしばらくして、シラスは一冊の記録を閉じた。
「この年代の記録には、特に変わったところはないな」
「そうね。少なくとも、今のところは」
スズは地図を重ね、確認した地名に小さな印を付けていた。
そのとき、シラスの目に、帳簿の端に書かれた短い注記が留まった。
通行記録の本欄ではなく、ページの余白に小さく記された文字だった。
彼は帳簿を少し手前に引き寄せる。
注記には、こう書かれていた。
『第十七日、収穫月。東方街道経由の商隊記録について、照合を要す』
それだけだった。
商隊の名前も、照合の理由も書かれていない。
日付の横には、別の記録番号らしき数字が添えられていたが、文字がかすれていて一部を読み取れなかった。
シラスは眉を寄せた。
「……照合を要す、か」
「何か見つかったの?」
スズが隣から覗き込む。
「この記録だ。通行記録に、別の資料との照合が必要だと書かれている」
「でも、理由は書いていないのね」
「ああ。これだけでは何も分からない」
シラスは余白の注記を丁寧に書き写し、帳簿の管理番号も控えた。
それから、ページの前後を確認する。
該当する商隊の記録は見当たらなかった。
少なくとも、この帳簿だけでは注記の意味を判断できない。
「別の資料を探す必要がありそうね」
スズが言った。
「そうだな。まずは、この記録番号が何を指しているのか調べる」
シラスは記録を閉じ、エドムントが戻ってくるのを待った。
やがて、扉が開き、彼が数冊の帳簿を抱えて入ってきた。
「何か見つかったか?」
「確認したいことがある」
シラスは書き写した注記を見せた。
エドムントは紙を受け取り、目を細めた。
「……これは、照合記録の注記だな」
「照合記録?」
「通行記録と別の資料を比較した際、確認が必要になった場合に残すものだ。だが、これだけでは何を照合したのか分からない」
「対応する資料は?」
「記録番号を調べれば、関連する帳簿が見つかる可能性はある。ただし、古い管理番号は整理の過程で変更されていることもある」
「探せるか?」
エドムントはすぐには答えなかった。
書き写された番号と、シラスが控えた帳簿の管理番号を見比べ、しばらく考え込む。
「……この形式なら、旧式の照合台帳に対応しているはずだ。現在の分類では別の保管区分に移されているかもしれない」
「閲覧できるのか?」
「申請が必要だ。照合台帳には、複数の関所や商業組合から集められた記録が含まれている。関係のない個人情報もあるから、無条件で見せることはできない」
シラスは頷いた。
「なら、必要な範囲を指定して申請する」
「それが正しい手順だ」
エドムントは注記の写しを返した。
「ただし、期待しすぎないことだ。照合が必要だと記されていても、単なる書式の違いや転記ミスだった可能性はある」
「それも含めて調べるつもりだ」
「なら、明日の朝までに申請書を提出しろ。確認でき次第、閲覧できる範囲を伝える」
シラスは短く礼を述べ、写しをしまった。
記録庫を出る頃には、窓の外の雲が少し薄くなっていた。
通りには荷馬車が行き交い、商人たちの呼び声が響いている。
一見すれば、何の変哲もない商業都市の昼下がりだった。
スズは隣を歩きながら、手元の地図を見つめていた。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「さっきの記録、何か大きな秘密につながっていると思う?」
シラスは少し考えた。
「まだ何とも言えない。記録の不備なんて、珍しいものじゃないからな」
「じゃあ、調べる必要はないの?」
「逆だ。普通の間違いなのか、それとも別の理由があるのか。それを確かめるために調べるんだ」
スズは納得したように頷いた。
「そっか。最初から怪しいって決めつけちゃいけないのね」
「そういうことだ」
「……あなた、こういうときはちゃんとしているのね」
「どういう意味だ?」
「べ、別に! いつもは食事のことで細かいくせに、という意味よ!」
シラスは呆れたように息を吐いた。
「まだパンのことを根に持っているのか」
「当然でしょう! あれは私のパンだったんだから!」
「次は自分で守れ」
「そういう問題じゃないわ!」
スズの声が通りに響く。
シラスは口元をわずかに緩めたが、彼女が振り向いたときには、いつもの無表情に戻っていた。
二人は宿屋へ向かって歩き続けた。
記録庫で見つかったのは、ほんの短い注記にすぎない。
そこに何が記され、なぜ照合が必要になったのか。
今の段階では、まだ何も分からなかった。
それでも、シラスは一つだけ確信していた。
手がかりを探すなら、曖昧な噂ではなく、残された記録を一つずつ確かめるしかない。
そして明日、彼らはそのための新たな帳簿を調べることになる。




