記録を守る男
ラヴェンヌの朝は、思っていたよりも静かだった。
市場のある通りでは、すでに商人たちが店を開き始めていたが、少し離れた区画には人影が少ない。石畳の道を歩くシラス・ナハトとスズの耳には、遠くから聞こえる荷馬車の音だけが届いていた。
「本当にこっちで合っているの?」
スズが、隣を歩くシラスに尋ねた。
「ああ。宿屋の主人が教えてくれた場所だ」
「でも、ずいぶん静かな通りね。文書庫って、もっと人が集まるところにあるのかと思っていたわ」
「商人が集まる場所と、記録を保管する場所は別なんだろう」
シラスは前方を見たまま答えた。
昨夜、二人は宿屋の主人から東方街道文書庫の場所を聞いていた。
商業都市ラヴェンヌの中心部から歩いて二十五分ほど。かつて商人たちが利用していた行政施設の一角に、その建物はあるという。
シラスが調べたいのは、昔の街道や通行記録に関する資料だった。
今のところ、具体的な年代や記録の種類までは絞り込めていない。だからこそ、まずは文書庫の管理者に相談する必要があった。
やがて、通りの先に石造りの建物が見えてきた。
周囲の商館よりも装飾は少なく、窓も小さい。正面には重厚な木製の扉があり、その上には古い商業組合の紋章が刻まれていた。
建物の壁には、何度も修繕された跡が残っている。
入口の脇には小さな案内板が立っていた。
東方街道文書庫。
その文字を確認したシラスは、静かに息を吐いた。
「ここね」
スズが顔を上げた。
「ああ」
「どんな記録があるのかしら」
「それを確かめに来たんだ」
「もし、あなたの探しているものが見つかったら?」
シラスはすぐには答えなかった。
見つかればいい。
だが、期待しすぎるつもりはなかった。
記録が残っている保証はない。残っていたとしても、事件に関係するとは限らない。
「そのときは、次を考える」
「……相変わらずね」
スズは小さく笑った。
「でも、何も見つからなかったとしても、無駄にはならないわよ」
「どうしてそう思う?」
「だって、何が残っているのか分かったでしょう? 何も知らないまま諦めるより、ずっといいわ」
シラスは彼女を見た。
そして、ほんのわずかに頷いた。
「そうだな」
二人は扉を開けた。
◇
建物の内部は、外から見た印象よりも広かった。
高い天井を支える石柱が並び、壁際には書類棚や木製の収納箱が整然と置かれている。窓から差し込む光は控えめで、室内には紙と古い革の匂いが漂っていた。
受付の前には、書類を抱えた男が一人立っていた。
少し離れた机では、別の職員が帳簿を確認している。
静かな場所だった。
スズは思わず声を潜めた。
「……図書館みたい」
「似ているが、ここは記録を管理する場所だ。勝手に触るなよ」
「分かっているわ」
二人が受付へ近づくと、奥から一人の男性が顔を上げた。
四十代半ばほどの男だった。
濃い灰色の上着をきちんと着こなし、襟元には皺一つない。こめかみには白髪が混じり、灰色の瞳は静かに来訪者を観察していた。
机の上には鍵束と数冊の帳簿が置かれている。
男は手袋を外し、二人を見た。
「ご用件を伺います」
落ち着いた声だった。
シラスは一歩前へ出た。
「古い街道に関する記録を調べたい」
「具体的には、どのような記録でしょうか」
「過去の街道の位置や、通行に関する記録だ。昔の商人たちが、どの道を使っていたのか知りたい」
男は表情を変えずに尋ねた。
「対象となる年代は?」
「まだ絞り込めていない。現在使われている道と、古い街道の違いを確認したいんだ」
「対象地域は?」
「ラヴェンヌから東へ向かう街道を中心に考えている」
男は机の上の帳簿に目を落とした。
「申し訳ありませんが、その条件では範囲が広すぎます」
「……そうか」
「当文書庫には、街道の位置を記した地図、商人の通行記録、荷物の運搬記録、通行許可証など、さまざまな資料が保管されています。年代も形式も異なります。目的が曖昧なままでは、適切な資料を選び出せません」
スズが小声で囁いた。
「ずいぶん厳しい人ね」
「聞こえているぞ」
シラスが囁き返すと、男は淡々と答えた。
スズは肩を跳ねさせた。
「す、すみません……」
男は彼女を責めることなく、再びシラスへ視線を戻した。
「私はエドムント・ヴァイス。この文書庫で記録の管理を担当しています。資料を閲覧したいのであれば、調査の目的と、必要としている情報をもう少し具体的にしてください」
シラスはエドムントの目を見た。
融通が利かないというより、手続きを重視しているのだろう。
記録を守る立場なら、無関係な人間に大量の資料を渡すわけにはいかない。
無理に押し通そうとしても意味はなさそうだった。
「分かった。少し整理させてくれ」
「もちろんです。お急ぎでなければ、こちらの案内書をご覧ください」
エドムントは薄い冊子を差し出した。
そこには、文書庫で閲覧できる資料の種類と、申請方法が記されていた。
シラスは冊子を受け取り、目を通し始めた。
◇
「……これ、全部読むの?」
スズが、冊子を覗き込んで声を上げた。
「必要な部分を探すんだ」
「でも、文字が多いわ」
「読まなければ分からない」
「もう少し簡単に説明してくれてもいいのに」
「説明を受けるためにも、何を知りたいのか整理する必要がある」
スズは不満そうに頬を膨らませた。
それでも、冊子を受け取ると真剣に読み始めた。
シラスも別のページを確認する。
資料の分類は細かかった。
街道の位置を示す地図は年代ごとに分けられ、通行記録は地域や管理機関ごとに整理されている。商人の荷物に関する帳簿は、さらに別の分類だった。
その中に、古い通行記録を扱う項目があった。
シラスは指を止めた。
「……これか」
「何か見つかった?」
「ああ。昔の通行記録を調べるなら、この分類から始めるのがよさそうだ」
彼は冊子を持って受付へ戻った。
「古い街道の通行記録を調べたい。まずは、ラヴェンヌ周辺と東へ続く街道について、現在の道が整備される以前の資料を確認したいんだ」
エドムントは冊子を受け取り、該当する項目を確認した。
「それでしたら、街道の変遷を記した資料と、古い通行記録の目録を参照するのが適切でしょう。ただし、年代によって保存状態が異なります」
「閲覧は可能か?」
「申請内容を確認したうえで判断します。目録の一部は閲覧できますが、原本の取り扱いには制限があります」
「分かった。必要な手続きを教えてくれ」
エドムントは、机の引き出しから申請用紙を取り出した。
シラスは必要事項を記入し、調査目的を簡潔に書いた。
過去の街道の位置と、その変遷を確認するため。
余計な情報は記さなかった。
やがて、エドムントは申請用紙を確認し、短く頷いた。
「これなら、まず目録を確認していただけます。こちらへどうぞ」
彼は受付の奥にある扉を開けた。
その先には、小さな閲覧室があった。
木製の机がいくつか並び、壁際には鍵のかかった書棚がある。机の上には、資料を傷めないための布や、記録を取るための紙が用意されていた。
「資料の持ち出しは禁止です。閲覧が終わったら、必ずこちらへ返却してください。原本への書き込みや、許可のない複写も認められていません」
「分かった」
「分からないことがあれば、職員にお尋ねください。資料の所在については案内できますが、内容の解釈まで保証するものではありません」
エドムントはそう説明すると、目録の冊子を机に置いた。
「まずは、こちらから始めてください」
シラスは目録を開いた。
古い街道の名前。
管理されていた時期。
通行記録の保存状況。
そこには、これまで知らなかった情報がいくつも並んでいた。
すぐに事件の手掛かりが見つかるとは思わない。
それでも、調べるための入口には立てた。
スズは隣の椅子に座り、目録を覗き込んだ。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「こういう記録って、誰が書いていたのかしら」
「商人や、通行を管理する役人だろう」
「じゃあ、間違えることもあるの?」
シラスはページをめくる手を止めた。
「……あるだろうな」
「書いた人が間違えたり、あとから写した人が間違えたり?」
「可能性はある。だから、記録を一つ見ただけで全部を信じるわけにはいかない」
スズは目録を見つめた。
「それなら、いくつも比べる必要があるのね」
「ああ。違う記録を照らし合わせれば、間違いに気づけることもある」
「大変そう……」
「簡単に答えが見つかるとは思っていない」
シラスは静かに答えた。
自分を罪人にした報告書も、何らかの記録を根拠に作られたはずだった。
そこに何が書かれ、何が書かれなかったのか。
誰が情報を集め、誰が報告書を作ったのか。
そのすべてを、今すぐ知ることはできない。
だからこそ、一つずつ確かめるしかなかった。
◇
しばらくして、シラスは目録の中に古い通行記録の分類を見つけた。
年代は複数に分かれており、保存されている資料の種類も異なる。
彼は必要な項目を紙に書き留めた。
「……まずは、この年代の地図と通行記録を比較するか」
「何か分かったの?」
「まだだ。ただ、どの資料を調べればいいかは見えてきた」
スズは少し安心したように笑った。
「よかった。何も見つからなかったら、どうしようかと思っていたの」
「まだ何も見つかっていないぞ」
「分かっているわよ。でも、最初の一歩は大切でしょう?」
シラスは彼女を見た。
昨日も、似たようなことを言われた気がする。
何も分からなくても、調べたこと自体に意味がある。
そう考えるのは、彼には少し難しかった。
これまでの彼は、結果を出さなければ生き残れなかった。
しかし、今は違う。
すぐに答えが出なくても、歩みを止めなければ、いつか何かにたどり着けるかもしれない。
「……そうだな」
シラスは小さく頷いた。
そのとき、閲覧室の扉が開いた。
エドムントが新しい書類を抱えて入ってくる。
「調査は順調ですか?」
「まだ目録を確認しているところだ。必要な資料は少しずつ絞り込めてきた」
「それなら何よりです。古い記録は分類が複雑ですので、焦らず進めてください」
エドムントは机の上の目録を確認し、必要な箇所を指さした。
「こちらの年代には、街道の変更に関する記録がまとまっています。ただし、通行記録そのものは別の分類です。両方を確認するのであれば、申請を分けたほうがよいでしょう」
「助かる」
「仕事ですので」
エドムントは淡々と答えた。
彼は必要な説明を終えると、書類を抱えて閲覧室を出ていった。
スズは、その背中を見送りながら小さく呟いた。
「厳しい人だけど、ちゃんと教えてくれるのね」
「記録を管理するのが仕事だからな」
「もっと怖い人かと思ったわ」
「手続きを守ることと、意地悪をすることは違う」
シラスは目録へ視線を戻した。
エドムントが何を知っているのか、何を知らないのか。
今の段階では判断できない。
だが、少なくとも彼は、必要な手続きを踏めば資料を調べる機会を与えてくれる。
それなら、まずは目の前の仕事に集中するだけだった。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めていた。
ラヴェンヌの街は、今日も商人や旅人で動いている。
その一方で、この建物の中には、何年も前に書かれた記録が静かに眠っていた。
シラスは新しい紙を取り出し、調べるべき資料の一覧を作り始めた。
まだ、答えはない。
だが、調査はようやく始まったのだった。




