かつて栄えた商業都市
ベルフォードを出発してから、二日目の午後。
シラス・ナハトとスズは、東へ続く街道を歩いていた。
道は南側へ緩やかに曲がり、これまでの丘陵地帯とは違って、比較的平坦な土地が広がっている。街道の両側には畑や牧草地が点在し、ところどころで荷馬車の轍が重なっていた。
ベルフォードを出てから、何台もの馬車とすれ違った。
そのたびに、スズは荷台を覗き込もうとし、シラスに袖を引かれて止められていた。
そして今も、彼女の視線は前方を進む馬車に向けられている。
「……何を見ているんだ?」
シラスが尋ねた。
「荷物よ。あの馬車、ずいぶん大きな箱を積んでいるでしょう?」
「商人の荷物だろう」
「中には何が入っているのかしら」
「知る必要があるのか?」
「気になるじゃない」
「知らないほうがいいこともある」
「ただの荷物でしょう?」
「中身が分からない以上、断言できない」
スズは呆れたように肩を落とした。
「あなたって、何でも危険かもしれないって考えるのね」
「危険なものを見分けるには、そう考える必要がある」
「でも、全部を疑っていたら疲れない?」
シラスはすぐには答えなかった。
疑うことに疲れるかどうかなど、ずっと前に考えなくなっていた。
警戒しなければ生き残れない場所を歩いてきた。相手の言葉をそのまま信じれば、取り返しのつかないことになる場合もある。
それは、彼が望んで身につけた習慣ではなかった。
「……慣れれば、どうということはない」
「それ、慣れないほうがいいことだと思うわ」
スズは真面目な顔で言った。
シラスは彼女を見た。
「どうしてだ?」
「だって、ずっと緊張していたら、旅を楽しめないでしょう?」
「楽しむために旅をしているわけじゃない」
「私は少しは楽しみたいわ」
彼女は前を向いた。
「おいしいものを食べたり、知らない町を見たり、今まで知らなかったことを覚えたり。そういうのも旅の一部でしょう?」
シラスは何も言わなかった。
スズは記憶を失っている。
彼女にとって、この世界の多くは初めて見るものなのかもしれない。
どこで生まれ、どんな生活をしていたのか。誰と過ごし、何を大切にしていたのか。
そのすべてを忘れてしまった彼女にとって、今の旅は、失った過去とは別の何かを見つける機会なのだろう。
「……好きにすればいい」
シラスはようやく答えた。
「ただし、危険なことはするな」
「分かっているわ」
スズは笑った。
「それに、あなたがいるもの」
その言葉に、シラスの足がほんの一瞬だけ止まった。
だが、彼は何も言わず、再び歩き始めた。
彼女が自分を頼りにしていることは知っている。
それでも、迷いなくそう言われると、どう返せばいいのか分からなかった。
◇
午後も遅くなる頃、街道の先に大きな町が見えてきた。
遠くからでも、建物の数が多いことが分かる。
石造りの外壁が町を囲み、その向こうには尖った屋根や高い煙突がいくつも並んでいた。街道の両側には畑が広がり、町へ向かう荷馬車が列を作っている。
スズは目を輝かせた。
「シラス、見て!」
「ああ。ラヴェンヌだろうな」
「大きな町ね!」
「ベルフォードよりはな」
「もっと小さな町を想像していたわ」
「商業都市だからな。昔は、もっと栄えていたのかもしれない」
二人は町へ向かう人々の流れに加わった。
近づくにつれ、ラヴェンヌの様子がはっきりと見えてくる。
建物は多い。
しかし、すべてが活気に満ちているわけではなかった。
通りの入口に並ぶ商店の中には、扉を閉ざしたままのものがある。壁の塗装が剥がれた建物も多く、使われなくなった倉庫には古い看板だけが残っていた。
荷馬車の数は少なくないが、町の規模を考えると、どこか物足りない。
スズも、その違和感に気づいたようだった。
「……なんだか、不思議な町ね」
「何がだ?」
「建物は大きいのに、人が少ない場所があるでしょう? もっと賑やかな町なのかと思っていたわ」
「かつてはそうだったのかもしれない」
シラスは町の外壁を見上げた。
壁には何度も修繕された跡があり、古い石と新しい石が混ざっている。
ここが長い年月を経てきた町であることは間違いなかった。
門の近くでは、荷物を積んだ馬車が検査を受けていた。
兵士が積み荷を確認し、商人が通行に必要な書類を差し出している。シラスは列の様子を見ながら、自分たちの荷物を確認した。
「ここでも荷物を調べられるのね」
「商業都市なら珍しくない」
「私たちの荷物も?」
「必要なら調べられるだろう」
スズは自分の鞄を見下ろした。
中に入っているのは、衣服や食料、それに旅の道具くらいだ。
「変なものは入っていないわよ」
「それを決めるのは君じゃない」
「どういう意味よ!」
「検査する人間が何を確認するか、という意味だ」
「……もう。あなたの言い方って、時々本当に嫌になるわ」
シラスは答えず、順番を待った。
やがて二人の番が来ると、兵士が荷物を確認した。
身元について尋ねられた際、シラスは必要以上のことを話さず、旅の途中であることだけを伝えた。
兵士は二人の荷物と装備を確認し、特に問題がないと判断したらしい。短い注意を与えたあと、通行を許可した。
ラヴェンヌの門をくぐった瞬間、スズは小さく息を吐いた。
「……ちょっと緊張したわ」
「普通の検査だ」
「あなたは平気そうだったじゃない」
「慣れているだけだ」
「それも、慣れないほうがいいこと?」
シラスは彼女を見た。
スズは、先ほど自分が言った言葉を覚えていたらしい。
「……そうだな」
彼は短く答えた。
その返事に、スズは少しだけ驚いた。
いつもなら、すぐに話を切り上げてしまうところだった。
だが、今はそれ以上何も言わず、町の中へ歩き始めた。
◇
ラヴェンヌの中心部は、いくつもの通りが交差する場所にあった。
広場には露店が並び、野菜や布、工具、保存食などが売られている。商人たちは客を呼び、買い物をする住民たちが値段を交渉していた。
それでも、通りを一本外れると、雰囲気は大きく変わった。
使われていない店舗。
荷物が運び出されたままの倉庫。
窓が板で塞がれた商館。
かつて商人たちが集まっていたと思われる建物の前には、古びた看板が傾いたまま残されていた。
スズは、そうした建物を見ながら歩いていた。
「どうして、こんなに空き家が多いのかしら」
「さあな。商売が成り立たなくなったのかもしれない」
「でも、まだお店はたくさんあるわ」
「町全体が一度に衰えるわけじゃない。残る商人もいれば、別の町へ移る商人もいる」
「……そういうものなのね」
シラスは周囲を見回した。
人の流れ、荷馬車の通行、商店の配置。
町の規模に比べて、物流に関わる施設が多いように感じられた。
それだけ、かつては商業が盛んだったのだろう。
そして、その歴史が今も町のあちこちに残っている。
「まずは宿を探すぞ」
「今度も食事がおいしいところがいいわ」
「分かった」
「本当に?」
「食事も確認する」
スズは満足そうに頷いた。
ベルフォードでのやり取りを、まだ覚えているらしい。
シラスは小さく息を吐いた。
町へ入ったばかりなのに、彼女の頭の中は食事のことでいっぱいなのだろうか。
もっとも、長い道のりを歩いてきたのだから、楽しみがあるのは悪いことではない。
二人は広場を抜け、宿屋の看板を探しながら歩いた。
その途中、シラスは一軒の建物の前で足を止めた。
大きな窓は板で塞がれ、扉には錆びた金具が残っている。壁の上部には、商人が荷物を運ぶ様子を描いた古い看板が掲げられていた。
文字はほとんど読めなくなっている。
だが、建物の大きさから考えれば、以前は多くの人が出入りしていたのだろう。
「……ここも、昔は商館だったのかしら」
スズが尋ねた。
「その可能性はある」
シラスは扉を見た。
鍵はかかっているようだった。窓から中を覗くこともできない。
「何か気になるの?」
「いや。ただ、町の規模に比べて、使われなくなった商業施設が多いと思っただけだ」
「昔は、もっとたくさんの商人がいたのね」
「そうだろうな」
シラスはそれ以上、建物を調べようとはしなかった。
今は、町の歴史を解き明かすことが目的ではない。
まずは宿を確保し、東方街道文書庫へ行く準備を整える必要があった。
二人が再び歩き始めると、広場の向こうから荷馬車が通り過ぎていった。
車輪の音が石畳に響く。
その音を聞きながら、シラスは考えた。
町が衰えれば、人の流れも変わる。
人の流れが変われば、道が使われなくなる。
そして、道が使われなくなれば、そこに関する記録も、いつか忘れられていくのかもしれない。
それが自然な変化なのか、それとも何か別の事情があったのか。
今の彼には判断できなかった。
だからこそ、記録を調べる必要がある。
誰かの記憶だけに頼るのではなく、残されたものを確かめる。
その先に何が待っているのかは分からない。
それでも、調べずに答えを諦めるつもりはなかった。
「シラス!」
前を歩いていたスズが振り返った。
「宿屋、あそこにあるわ!」
彼女が指さした先には、二階建ての建物が見えた。
入口には旅人向けの看板が掲げられ、窓からは明るい光が漏れている。
「分かった。行こう」
シラスは歩き出した。
ラヴェンヌでの最初の夜が近づいている。
明日には、東方街道文書庫を訪ねるつもりだった。
そこに何が残されているのか。
どんな記録が見つかるのか。
まだ何一つ分からない。
だが、少なくとも、ここから先は自分の足で確かめられる。
シラスはそう考えながら、スズとともに宿屋の扉を開いた。




