道を知る者、知らぬこと
翌朝、ベルフォードの宿屋には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
窓から差し込む朝日が木製のテーブルを照らし、食堂では出発の準備をする旅人たちが慌ただしく行き交っている。
シラス・ナハトは、いつものように壁を背にした席に座り、目の前の地図を眺めていた。
昨夜、ガリック・ドーンから聞いた話を忘れないうちに整理しておきたかったのだ。
古い街道は、現在使われている南側の道より短い区間がある。しかし、橋や斜面の状態によっては、かえって時間がかかる。
そして、昔の商人たちが利用していた休憩地点のいくつかは、今ではほとんど使われていない。
シラスは地図の上を指でなぞった。
「……ここから先か」
「何を見ているの?」
向かいの席に、スズが腰を下ろした。
彼女は両手で温かい飲み物の入ったカップを包みながら、地図を覗き込んだ。
「昨日、ガリックから聞いた道の話だ」
「また古い道?」
「ああ。これから東へ向かうなら、地形を知っておいて損はない」
「でも、私たちはラヴェンヌへ行くんでしょう?」
「そうだ」
「なら、南側の安全な道を通ればいいんじゃない?」
シラスは顔を上げた。
「そのつもりだ。古い道を調べるために、わざわざ危険な場所へ入る必要はない」
「……なんだか、少し残念ね」
「何がだ?」
「昔の休憩地点とか、古い建物とか。ちょっと見てみたかったの」
「観光旅行じゃないんだぞ」
「分かっているわよ。でも、旅先でしか見られないものもあるでしょう?」
スズは頬を膨らませた。
シラスは地図を畳みながら、小さく息を吐いた。
「安全に通れる場所があれば、立ち寄ることも考える。だが、危険があるなら別だ」
「本当?」
「ああ」
「約束よ?」
「約束する」
その返事を聞くと、スズは満足そうに笑った。
ちょうどそのとき、食堂の奥から明るい声が響いた。
「お待たせしました。朝食よ!」
マリエル・ボーモンが、焼きたてのパンと卵料理を載せた皿を運んできた。
栗色の髪を高い位置でまとめ、白いブラウスに濃緑色のコルセット、短いスカートといういつもの装いだ。彼女は皿をテーブルに置くと、シラスへにっこりと微笑んだ。
「シラスさん、昨夜はよく眠れた?」
「問題ない」
「それはよかったわ。旅の疲れが残っていたら、朝食を多めにしてあげようと思っていたのに」
「通常の量で十分だ」
「本当に?」
マリエルは楽しそうに目を細めた。
「遠慮しなくてもいいのよ。あなたみたいな若い男性なら、たくさん食べてもらったほうが作りがいがあるもの」
スズの手が止まった。
まただ。
この人は、どうしてこうも自然にシラスへ話しかけるのだろう。
しかも、朝から笑顔で、まるで昔からの知り合いのように。
「……マリエルさん」
「なあに、スズちゃん?」
「お客さん全員に、そんなに親切なの?」
マリエルは一瞬きょとんとしたあと、笑顔を深めた。
「もちろんよ。うちは宿屋だもの。お客さんには気持ちよく過ごしてもらいたいでしょう?」
「そ、そうよね」
「でも、特に反応が面白いお客さんには、つい話しかけたくなっちゃうの」
マリエルの視線が、ちらりとシラスへ向かった。
スズは眉をひそめた。
「……それは、どういう意味?」
「さあ、どういう意味でしょう?」
「マリエルさん!」
「あはは、ごめんなさい。ほら、料理が冷める前に食べてね」
マリエルは笑いながらカウンターへ戻っていった。
スズは、その背中をじっと見送った。
「……絶対に面白がっているわ」
「何の話だ?」
「あなたには関係ないわ!」
「そうか」
シラスはそれ以上追及せず、朝食を食べ始めた。
その無関心さが、スズの心をさらに複雑にする。
少しは気にしてもいいのではないだろうか。
いや、気にされたら困る。
でも、まったく気にされないのも、それはそれで腹が立つ。
自分でも何を考えているのか分からなくなり、スズは勢いよくパンをかじった。
「熱っ……!」
「だから、ゆっくり食べろ」
「分かっているわよ!」
シラスは静かに水を差し出した。
スズはそれを受け取り、小さな声で礼を言った。
その様子を、少し離れたカウンターからマリエルが眺めていた。
彼女は口元に手を当て、楽しそうに笑っていた。
朝食を終えた二人は、食堂の窓際へ移動した。
ガリックはすでに起きており、木製のカップを片手に地図を広げていた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、ガリックさん!」
スズが元気よく挨拶する。
シラスも短く頷いた。
「昨日の話で、もう少し聞きたいことがある」
「古い街道についてか?」
「ああ。昔の道を使っていた頃、どんな場所で休憩していたのか。それと、今も人が住んでいる集落が残っているのか知りたい」
ガリックはカップを置き、少し考えた。
「休憩地点はいくつかあった。だが、全部を覚えているわけじゃない。俺が案内をしていた頃にも、すでに使われなくなった場所があったからな」
「今も残っている集落は?」
「ベルフォードから東へ向かう途中に、小さな集落がいくつかある。今も人が暮らしているところもあれば、ほとんど人がいなくなったところもあるだろう」
「どうして人がいなくなったんだ?」
「理由は一つじゃない。商人が来なくなれば、宿屋も店も商売が難しくなる。若い人間が別の町へ移ることもある。土地が痩せて、農業だけでは暮らせなくなる場合もある」
ガリックは地図の端を指で押さえた。
「町が衰えるのに、必ずしも大きな事件が必要なわけじゃない。少しずつ人が減って、道が使われなくなって、気づいたときには昔の賑わいが失われている。それだけのこともある」
シラスは黙って話を聞いていた。
その説明には、無理に謎を作ろうとするところがなかった。
古い街道が衰えた理由も、必ずしも秘密や陰謀があるとは限らない。
まずは、分かっていることと分からないことを分けて考えるべきだ。
「……なるほど」
シラスは頷いた。
「それで、昔の記録を調べるなら、どこへ行けばいい?」
「ラヴェンヌの東方街道文書庫だな。昨日も話したが、あそこには昔の商人たちが残した記録が保管されているはずだ」
「そこに、古い街道の通行記録もあるのか?」
「ある可能性は高い。ただし、どこまで残っているかは分からない。記録が失われた時期もあるだろうし、別の場所へ移されたものもあるかもしれない」
「管理している人間については?」
「詳しくは知らない。昔から文書を扱う役所のような場所だったと聞いている。記録の閲覧には手続きが必要だろうな」
シラスは考え込んだ。
やはり、まずはラヴェンヌへ向かうのがよさそうだった。
古い街道について知ることが、必ずしも自分の事件に直結するとは限らない。
それでも、過去の記録を調べることは、手掛かりを探すための一歩になる。
「もう一つ聞きたい」
「何だ?」
「昔の街道に関する記録は、文書庫以外にも残っていると思うか?」
ガリックはすぐには答えなかった。
しばらく地図を見つめ、それから口を開いた。
「可能性ならある。商人たちは、役所へ提出する記録とは別に、自分たちの帳簿を持っていたからな。荷物の数や売買の金額、通った道、立ち寄った場所。そういうものを家ごとに記録していた者もいた」
「個人の帳簿か」
「ああ。だが、何十年も前のものが残っているかどうかは別の話だ。商売をやめれば処分することもあるし、家が途絶えれば散逸することもある」
「それでも、可能性はあるんだな」
「可能性はな。確かなことは言えない」
ガリックはそう言って、地図を畳んだ。
シラスは、その言葉を頭の中に留めた。
公的な記録だけでなく、商人個人の帳簿も調査の対象になるかもしれない。
今はまだ、具体的な手掛かりではない。
だが、覚えておく価値はあった。
「助かった。参考になった」
「そうか。役に立ったならよかった」
ガリックは椅子の背にもたれた。
「ただし、俺の話を全部信じる必要はないぞ。昔のことだ。記憶違いもあるだろうし、俺が知らない道だってある」
「分かっている」
シラスは短く答えた。
「だからこそ、記録を調べる」
ガリックは彼を見つめ、それから静かに頷いた。
「そのほうがいい。人の記憶は曖昧になるが、記録なら少なくとも、何が書かれていたかは確かめられる。ただし、その記録が正しいかどうかは、また別の話だ」
その言葉に、シラスの目がわずかに細くなった。
記録が残っていても、内容が正しいとは限らない。
自分を罪人にした報告書も、同じことだった。
そこには、自分の知らないことが書かれている。
自分が持っていたはずの剣が、あの場所で見つかったと記されていた。
しかし、シラスはその剣を、確かに誰かへ渡したのだ。
報告書と記憶。
どちらか一方だけを信じるのではなく、事実を確かめなければならない。
シラスは無意識に、腰の剣へ手を伸ばしかけた。
だが、途中で止めた。
今はまだ、何も分かっていない。
焦っても仕方がなかった。
「ねえ、ガリックさん」
スズが、地図を指さした。
「この先に、古い橋があるって聞いたんだけど」
「ああ。北側の古い街道にある橋だな」
「そこには、今も行けるの?」
「通れる可能性はある。ただし、状態は保証できない。昨日も言ったが、橋の一部が傷んでいる場所があるからな」
「やっぱり、見てみたいわ」
「おい」
シラスが彼女を見た。
「何よ?」
「俺たちは観光に来たわけじゃない」
「分かっているわ。でも、道の状態を知っておくのは、旅をするうえで大切でしょう?」
「……それは否定しないが」
「でしょう?」
スズは得意げに胸を張った。
ガリックは、二人を交互に見て笑った。
「まあ、実際に見てみること自体は悪くない。だが、橋を渡るなら十分に注意しろ。見た目より脆くなっていることもある」
「分かったわ!」
「分かったなら、勝手に先へ走るなよ」
シラスが釘を刺す。
「走らないわよ!」
「昨日も似たようなことを言っていたな」
「昨日のことは関係ないでしょう!」
ガリックは声を立てて笑った。
「二人で旅をしていると、退屈しなさそうだな」
「……そうでもない」
シラスは即座に答えた。
「ひどいわね!」
スズが抗議する。
その声を聞きながら、ガリックは目を細めた。
シラスは無愛想だが、彼女の言葉を無視しているわけではない。危険なことには必ず注意し、何かあれば彼女を守ろうとする。
一方、スズも、彼の慎重さに文句を言いながら、最後にはその助言を聞いている。
少なくとも、今の二人には互いの存在が必要なのだろう。
ただし、それを本人たちがどこまで理解しているかは、別の話だった。
昼が近づいた頃、シラスとスズは宿屋を出る準備を始めた。
ラヴェンヌまでは、現在の街道を使えば二日ほどかかる。
途中で休憩を取り、道の状態を確認しながら進めば、無理なく到着できるはずだった。
シラスは荷物を背負い、剣の位置を確かめた。
スズは小さな鞄を肩に掛け、宿屋の入口で待っていた。
「準備はできたか?」
「もちろん!」
「忘れ物はないな?」
「ないわよ」
「本当に?」
「……たぶん」
シラスは目を閉じた。
「確認してこい」
「もう! ちゃんと確認したわよ!」
スズは鞄を開き、中を見せた。
食料、替えの衣服、小さな水筒、旅に必要な道具。
一通り揃っているようだった。
「……問題ないな」
「でしょう?」
彼女は満足そうに鞄を閉じた。
そのとき、カウンターからマリエルが顔を出した。
「もう出発するの?」
「ああ。世話になった」
シラスが答える。
「こちらこそ。また近くを通ったら寄ってね」
マリエルは笑顔で手を振った。
そして、少しだけ声を落とす。
「シラスさん。あなた、いつもそんなに怖い顔をしていると、せっかくの顔がもったいないわよ」
「……必要があれば笑う」
「その必要、うちの宿で作ってあげたかったわね」
「遠慮しておく」
「あら、残念」
マリエルは楽しそうに笑った。
その横で、スズが小さく呟いた。
「……また始まった」
「何か言ったか?」
「何でもないわ!」
マリエルは二人の様子を見て、意味ありげに目を細めた。
「気をつけてね、二人とも。旅は長いんだから、無理をしないこと」
「ありがとう、マリエルさん」
スズが答えた。
シラスも短く頷く。
二人は宿屋を後にした。
町の中央を抜け、東へ続く街道へ向かう。
背後では、ベルフォードの人々がいつものように仕事を続けていた。荷馬車が動き、露店の商人が客を呼び、宿屋からは笑い声が聞こえてくる。
ここでの生活は、二人が抱える問題とは関係なく続いていく。
シラスは一度だけ、町を振り返った。
この町で得られたのは、確かな答えではない。
古い街道の情報。
記録を調べる場所。
そして、公的な記録以外にも、昔の商人たちが残した帳簿が存在するかもしれないという可能性。
今は、それだけで十分だった。
「シラス、どうしたの?」
スズが尋ねる。
「いや。何でもない」
「そう? なら、早く行きましょう。ラヴェンヌには、おいしいものがあるかしら?」
「……結局、それか」
「大切なことよ!」
彼女は胸を張った。
シラスは呆れたように息を吐き、歩き始めた。
東へ続く道の先には、商業都市ラヴェンヌが待っている。
そこには、古い街道の記録を守る文書庫がある。
そして、失われた記録の中には、まだ誰も気づいていない事実が眠っているかもしれない。
シラスは、その事実が自分の事件に関係しているのかどうか、まだ知らない。
ただ、今度こそ自分の目で確かめるつもりだった。
他人の言葉だけで判断するのではなく、記録に書かれたことだけを信じるのでもなく。
自分で調べ、自分で考え、その先にある答えを探す。
そのための旅は、まだ始まったばかりだった。




