古い道を知る男
ベルフォードの宿屋には、昼間とは違った賑わいがあった。
窓の外が夕暮れに染まり始めると、街道を行き交っていた旅人たちが次々と戻ってくる。食堂には焼いた肉の匂いが漂い、酒の入った木製の杯がテーブルに並べられていた。
シラス・ナハトは壁際の席に腰を下ろし、食堂全体を静かに観察していた。
人の多い場所は嫌いではない。
ただ、目立つことは避けたかった。
指名手配された人間にとって、酒場や宿屋は情報を集めるのに便利な場所である一方、身元を知られる危険もある。
何気ない会話から名前が漏れることもあれば、報奨金の話を聞いた人間が態度を変えることもある。
だからこそ、シラスは壁を背にして座り、入口と窓の位置を確認していた。
「……また、そんな顔をしているのね」
向かいの席から声がした。
鈴と呼ばれることになった白髪の少女が、呆れたように彼を見つめている。
「どんな顔だ」
「今にも誰かを斬りそうな顔」
「斬る予定はない」
「予定がなければ、もう少し普通の顔をしたらどう?」
「普通の顔がどんなものか、忘れた」
少女は目を丸くした。
それから、くすりと笑った。
「それは少し問題ね」
「自覚はある」
シラスは卓上の水を一口飲んだ。
彼らはすでに夕食を済ませていた。少女は食事の量に満足したのか、今は小さな焼き菓子を手にしている。
もっとも、先ほどまでマリエルに勧められた追加の料理を頼もうとしていたことを考えれば、満足という言葉がどこまで信用できるかは分からなかった。
「それで、誰を探しているの?」
少女が尋ねた。
「誰かを探しているわけじゃない」
「じゃあ、どうしてずっと周りを見ているの?」
「情報を集めている」
「誰から?」
「古い街道について知っている人間がいないか、会話を聞いているところだ」
少女は食堂を見回した。
商人らしい男たちが荷物の運搬について話し、旅装の若者たちが明日の出発時刻を相談している。暖炉の近くでは、年配の男性が二人、古い地名を挙げながら何かを話していた。
「古い街道を知っている人なら、あの人たちはどう?」
「あの二人は荷物の運搬について話している。街道全体の話とは限らない」
「聞いてみなければ分からないでしょう?」
「そのとおりだ」
シラスは立ち上がらなかった。
「だが、今は待つ。情報を持っていそうな相手に、最初から警戒させる必要はない」
「……本当に面倒なことを考えるのね」
「慎重と言ってくれ」
「はいはい、慎重なシラスさん」
少女は焼き菓子を口に運んだ。
そのときだった。
食堂の奥から、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「昔の道を使う商人が減ったのは、単に道が傷んだからというだけじゃない。今の商人たちは、わざわざ古い道を選ぶ必要がなくなったんだ」
シラスの視線が動いた。
声の主は、窓際の席に座っている男だった。
年齢は五十歳を少し過ぎたくらいだろう。短く切った茶色の髪には白いものが混じり、目は落ち着いた琥珀色をしている。
使い込まれた革の外套に、首元の古いマフラー。足元には旅用のブーツがあり、隣の椅子には地図の入った革袋が置かれていた。
男は向かいの商人と話していたが、手元には古びた地図が広げられている。
「昔は、あの道を通らなければ行けない場所がいくつもあった。今は新しい道が整備されて、南側から回れば大抵の町へ行ける。危険な古道を選ぶ理由はないさ」
「それでも、古い道には近道もあるんだろう?」
商人が尋ねた。
「距離だけを見ればな。だが、橋が壊れていたり、斜面が崩れていたりすれば話は別だ。地図の上で短い道が、実際にも短いとは限らない」
男はそう言って、地図の一部を指でなぞった。
シラスは黙って話を聞いていた。
古い街道を実際に歩いてきた人間の話に聞こえる。
少なくとも、ただの噂を語っているようには思えなかった。
「……あの人ね」
少女も気づいたらしい。
「地図を持っているわ」
「見れば分かる」
「話を聞きに行くの?」
「もう少し待つ」
「どうして?」
「話が終わってからだ」
少女は、わざとらしくため息をついた。
「あなたが誰かに話しかけるところを見るまでに、夜が明けそうね」
「それなら、先に寝ていてもいいぞ」
「そういう意味じゃないわよ!」
彼女の声が少し大きくなり、近くの客がちらりとこちらを見た。
少女は慌てて口を押さえた。
シラスは何も言わず、水を飲んだ。
やがて、窓際の男と商人の会話が終わった。
商人は立ち上がり、別のテーブルへ移っていく。
男は残った酒を飲み干すと、地図を丁寧に折り畳み始めた。
その瞬間、シラスも立ち上がった。
「少し話をしてくる」
「やっとなのね」
「君はここにいろ」
「私も行くわ」
「……どうしてだ?」
「あなた一人だと、質問が足りなくなるかもしれないでしょう?」
「俺はそんなに不器用じゃない」
「そうかしら?」
少女は立ち上がり、彼の隣に並んだ。
シラスは一瞬だけ彼女を見たが、結局、何も言わなかった。
二人は窓際の席へ向かった。
男は地図を革袋へしまいながら、近づいてくる二人に気づいた。
「何か用かい?」
声には警戒があったが、敵意は感じられない。
シラスは男の正面ではなく、少し斜めの位置で足を止めた。
「古い街道について話していたのを聞いた」
「それで?」
「この辺りの道に詳しいのか?」
男はすぐには答えなかった。
シラスの顔を見て、それから少女へ視線を移す。
「多少はな。昔、荷馬車の先導をしていた。今はもう、あまり遠くまでは出ないが」
「昔の道も知っているのか?」
「全部というわけじゃない。通ったことのある道なら、ある程度は覚えている」
男は椅子の背に手を置いた。
「何を知りたい?」
「この町から東へ向かう古い街道についてだ。どこを通り、どの辺りが使われなくなっているのか。そういうことを知りたい」
男の目が少し細くなった。
「観光目的には見えないな」
「旅の途中だ」
「それは分かる。だが、古い道を調べる理由があるんだろう?」
シラスは答えを急がなかった。
相手がどこまで話すつもりなのかを見極める必要がある。
「今後の移動に必要な情報を集めている。それだけだ」
男はしばらく彼を見つめたあと、鼻から小さく息を吐いた。
「まあ、理由を聞くのは野暮か。俺も昔は、行き先を細かく話せない旅人を何度も案内したからな」
男は空いている椅子を顎で示した。
「座りな。立ったまま話すようなことでもない」
シラスは椅子に腰を下ろした。
少女も隣に座る。
「俺はガリック・ドーン。昔は荷馬車の先導をしていた」
「シラス・ナハトだ。こっちは鈴だ」
「よろしくね、ガリックさん!」
少女は明るく挨拶した。
ガリックは彼女の白い髪を一瞥し、それから穏やかに頷いた。
「よろしく。さて、古い街道の話だったな」
彼は革袋から地図を取り出した。
折り目のついた紙には、町や川、丘陵地帯が簡単な線で描かれている。現在の地図とは違うのだろう。いくつかの地名は、シラスが知らないものだった。
「この町から東へ行くなら、今は南側の道を使うのが普通だ。道が整備されているし、途中に休める町もある」
ガリックは地図の南側を指した。
「だが、昔は北側の道もよく使われていた。森を抜け、丘を越えて、岩の多い峠へ向かう道だ」
「途中に町はあるのか?」
「小さな集落ならあった。今も人が住んでいるかは、行ってみないと分からないがな」
「道は通れる?」
「場所による。石橋が残っているところもあれば、崩れた斜面を迂回しなければならないところもある。馬車で通るなら勧めない」
ガリックは地図の一部を指で叩いた。
「徒歩なら、通れる場所もあるだろう。ただし、地図にある道が今も同じ状態だと思わないことだ」
シラスは説明を聞きながら、地形を頭の中で整理した。
これまで歩いてきた道にも、古い石畳や崩れかけた橋があった。
どうやら、あれが北側の古い街道の一部だったらしい。
「南側の道と比べて、どれくらい距離が違う?」
「正確な距離は、どこを目的地にするかで変わる。古い街道のほうが短い区間もあるが、通れない場所があれば結局は遠回りになる」
「なるほど」
シラスは頷いた。
ガリックの説明は具体的だったが、無理に知識を誇示する様子はない。知らないことについては、知らないと答えている。
それだけでも、話を聞く価値はあった。
一方、少女は地図を覗き込んでいた。
「この印は何?」
彼女が指さしたのは、丘陵地帯に描かれた小さな円だった。
「昔の休憩地点だ。商人たちが馬を休ませたり、荷物を確認したりするために使っていた」
「今も残っているの?」
「残っている場所もあるだろう。だが、使われなくなった場所は、建物が崩れていても不思議じゃない」
「行ってみたいわ!」
少女が顔を輝かせた。
「……どうしてそうなる」
シラスは額に手を当てた。
「古い建物なんて、危険なだけかもしれないだろう」
「でも、昔の人たちが使っていた場所なのよ? どんなところだったのか気になるじゃない」
「見学に来たわけじゃない」
「分かっているわ。でも、少しくらい見てもいいでしょう?」
ガリックは二人のやり取りを眺め、口元を緩めた。
「元気なお嬢さんだな」
「いつもこうだ」
「ちょっと、シラス!」
ガリックは低く笑った。
「悪いことじゃないさ。旅をするなら、周りに興味を持つのも大切だ。もっとも、危険な場所へ入る前には、よく考えたほうがいいがな」
「ほら、ガリックさんもそう言っているわ」
「危険な場所へ入る前には考えろ、という部分を聞いたか?」
「聞こえていたわよ!」
少女は頬を膨らませた。
ガリックは笑いを収め、再び地図へ目を落とした。
「ところで、二人はどこまで行くつもりなんだ?」
シラスは一瞬だけ考えた。
目的地をすべて話す必要はない。
だが、まったく情報を与えなければ、相手も役に立つ話をしにくいだろう。
「東の都市を目指している。古い記録を調べたいんだ」
「記録?」
「商業関係の記録だ。昔の道や、そこを通った人間について知りたい」
ガリックは少し考えた。
「それなら、ラヴェンヌにある東方街道文書庫がいいだろう。昔の商人たちが使っていた記録が残っているはずだ」
シラスの表情がわずかに変わった。
目的地について、具体的な手掛かりが得られた。
「その文書庫には、誰でも入れるのか?」
「いや、管理している人間がいる。記録の種類によっては、簡単には見せてもらえないだろう」
「そうか……」
「何を調べたいのか、ある程度は整理しておいたほうがいい。曖昧な質問では、相手も困るからな」
その言葉は、シラスにとって十分に実用的だった。
彼は、これまでの情報を頭の中で整理した。
ラヴェンヌで記録を調べる。
古い街道に関する資料を探し、必要なら過去の通行記録も確認する。
まだ何も分かっていないが、進むべき方向は見えてきた。
「助かった。ありがとう」
シラスが言うと、ガリックは片手を振った。
「礼を言われるほどのことじゃない。俺が知っている範囲の話をしただけだ」
「それでも十分だ」
ガリックはシラスの顔をしばらく見つめた。
何かを尋ねようとしているようにも見えたが、結局、口にはしなかった。
「古い道を歩くなら、無理はするな。地図は昔のままだ。道のほうは、そうとは限らない」
「覚えておく」
シラスは立ち上がった。
少女も慌てて椅子から降りる。
「ガリックさん、ありがとう! またお話を聞かせてね」
「ああ。俺はしばらくこの町にいるつもりだからな」
二人は軽く頭を下げ、席を離れた。
食堂のカウンターでは、マリエルが客の注文を聞いていた。
彼女はシラスたちに気づくと、にこりと笑った。
「お話は済んだの?」
「ああ。役に立つ情報を聞けた」
「それはよかったわ。ところで、シラスさん」
マリエルは楽しそうに身を乗り出した。
「明日の朝食、私が特別に用意してあげましょうか?」
「通常の料金で頼む」
即答だった。
「まあ、つれないのね」
「特別扱いは必要ない」
「ふふっ。そういうところも面白いわね」
そのやり取りを横で聞いていた少女は、無言でシラスの袖を引いた。
「……何だ?」
「部屋に戻るわよ」
「まだ早いだろう」
「戻るの!」
「分かったから、引っ張るな」
マリエルは二人の背中を見送りながら、くすくすと笑っていた。
「本当に、退屈しない二人ね」
その夜、シラスは部屋に戻ると、窓の外を確認してから扉に鍵をかけた。
今日得た情報は、確かな一歩だった。
ベルフォードから東へ向かい、ラヴェンヌで古い記録を調べる。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも、これまでのように何も知らずに逃げ続けるよりは、ずっとましだった。
シラスは剣を手の届く位置に置き、椅子に腰を下ろした。
明日も歩かなければならない。
そして、いつか必ず、あの事件の真実に近づく。
そう考えながら、彼は静かに目を閉じた。




