噂の集まる宿屋
翌日の昼過ぎ、シラス・ナハトと鈴は、ようやくベルフォードの町に到着した。
町の入口には、荷馬車が二台並んでいた。
石造りの門と呼ぶには簡素な木製の柵。その脇には古びた看板が立ち、商人や旅人たちが次々と町へ入っていく。
大きな都市ではない。
しかし、街道沿いの休息地としては、それなりに賑わっているようだった。
「ここがベルフォード……」
鈴は、物珍しそうに町を見回した。
道沿いには小さな商店が並び、露店では野菜や干し肉、旅人向けの道具が売られている。少し離れた場所には厩舎があり、荷物を積んだ馬車が何台も停まっていた。
「思っていたより人が多いのね」
「街道沿いの町だからな。商人や旅人が立ち寄るんだろう」
「お店もたくさんあるわ。あっちには焼き菓子があるし、あそこには果物も……」
「先に宿を探すぞ」
「分かっているわよ」
そう答えながらも、鈴の視線は露店の商品を追いかけていた。
シラスは小さく息を吐いた。
彼女の食欲には、どうやら際限というものがないらしい。
とはいえ、彼自身も長い道のりを歩いてきたのだ。温かい食事とまともな寝床が欲しいという気持ちは理解できる。
「宿は町の中央にあるはずだ。馬車の数を見れば、いくつか見つかるだろう」
「じゃあ、食事がおいしいところにしましょう!」
「まずは安全そうなところだ」
「安全で、おいしいところ!」
「注文が多いな」
「旅なんだから、それくらい楽しんでもいいでしょう?」
シラスは答えず、町の中央へ向かった。
しばらく進むと、通りの角に大きな木造の建物が見えてきた。
一階の窓からは明るい光が漏れ、扉の上には酒杯と馬の絵が描かれた看板が掲げられている。
建物の脇には厩舎があり、数頭の馬がつながれていた。
扉を開けると、焼いた肉と香辛料の匂いが二人を迎えた。
広い食堂には、旅人や商人らしい客が十数人ほど座っている。壁際には荷物を置く棚があり、暖炉のそばでは数人の男たちが酒を飲みながら話をしていた。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が響いた。
カウンターの向こうから、一人の若い女性が顔を上げる。
長い栗色の髪を高い位置でまとめ、琥珀色の瞳を輝かせている。白いブラウスの上から深緑色のコルセットを身につけ、短めのスカートには革のエプロンを合わせていた。華やかな雰囲気を持ちながらも、身のこなしには働き慣れた者らしい軽快さがある。
女性は二人を見ると、にこやかに微笑んだ。
「お二人とも旅人さん? 宿泊なら、ちょうど空いている部屋がありますよ」
「二人で一部屋ではなく、別々に頼む」
シラスが答えた。
女性は一瞬だけ目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「ずいぶん用心深いのね。もちろん、別々のお部屋も用意できるわ」
「空いているなら、それでいい」
「かしこまりました。私はマリエル・ボーモン。この宿屋を任されているの。よろしくね」
マリエルはカウンターに両手を置き、少し身を乗り出した。
「それで、そちらの素敵なお兄さんのお名前は?」
「シラスだ」
「シラスさんね。覚えたわ」
マリエルは意味ありげに微笑んだ。
その隣で、鈴の表情がわずかに険しくなった。
「ところで、そちらのお嬢さんのお名前は?」
マリエルに尋ねられ、鈴は口を開きかけた。
けれど、すぐに言葉を止める。
自分の名前を思い出せない。
それは、彼女自身が誰よりもよく分かっていることだった。
困ったように視線をさまよわせる鈴を見て、シラスは小さく息を吐いた。
ここで事情を説明するのは面倒だ。記憶を失った少女を連れていると知られれば、余計な質問をされる可能性もある。
少なくとも、今は必要ない。
「……鈴だ」
「え?」
鈴が勢いよく振り向いた。
マリエルも興味深そうに目を瞬かせる。
「鈴? それが、この子のお名前?」
「ああ」
「ちょ、ちょっと待って!」
鈴は慌ててシラスの袖を引いた。
「どうして勝手に決めているのよ!」
「呼び名が必要だろう」
「だからって、今ここで決めなくてもいいじゃない!」
「じゃあ、どう説明するつもりだ?」
「それは……」
鈴は言葉に詰まった。
自分の名前を思い出せないことを、初対面の相手にどう説明すればいいのか。そもそも、彼女自身にも正しい答えは分からない。
「……うう」
悔しそうに唇を尖らせる彼女を見て、シラスは肩をすくめた。
「気に入らないなら、あとで別の呼び名を考えればいい」
「そ、そんな簡単に言わないでよ……!」
マリエルは二人のやり取りを見守りながら、口元に手を当てた。
「ふふっ。仲がいいのね」
「よくない!」
鈴が即座に否定した。
「俺も同意見だ」
シラスも淡々と答える。
「息ぴったりじゃない」
「どこがよ!」
鈴の声が食堂に響いた。
マリエルはとうとう小さく吹き出した。
「ごめんなさい。つい、面白くて」
「……もう」
鈴は頬を膨らませ、シラスを睨んだ。
「それで……どうして鈴なの?」
少し落ち着きを取り戻した彼女が尋ねると、シラスは彼女の手元に視線を向けた。
「その飾りだ」
「え?」
鈴は、自分が握っていた小さな銀色の飾りを見下ろした。
細い鎖の先についた、花のような形をした金属片。中央には青みがかった石が埋め込まれている。
歩くたびに、それはかすかに揺れて音を立てる。
「さっきから、歩くたびに鳴っているだろう。小さな鈴みたいな音だ。それで鈴と呼んだ」
シラスは、それだけのことだと言わんばかりに説明した。
「……そ、そうなの」
鈴は飾りを指先でつまみ、もう一度見つめた。
自分でも、なぜこれを持っているのか分からない。
それでも、彼がその小さな音に気づいていたことが、なぜか妙に気になった。
自分が忘れてしまったものの中に、何か意味があるのだろうか。
それとも、ただの偶然なのだろうか。
考え込んでいると、シラスが再び口を開いた。
「呼び名としても、悪くないと思っただけだ」
「……っ」
鈴の頬が、じわじわと赤くなった。
「な、何よ……。そんなこと、わざわざ説明しなくてもいいでしょう!」
「理由を聞いたのはお前だろう」
「そ、それはそうだけど!」
彼女は飾りを胸元に隠すように握りしめ、ぷいっと顔を背けた。
「べ、別に気に入ったわけじゃないんだからね! ただ、ほかに呼び名がないから、今だけ仕方なく認めてあげるだけよ!」
「そうか」
「……本当に分かっているの?」
「何がだ」
「もういいわ!」
鈴は真っ赤な顔のまま、そっぽを向いた。
シラスは不思議そうに彼女を見たあと、特に気にする様子もなくマリエルへ向き直った。
「部屋を頼む」
「ええ、もちろん。鈴ちゃんも、それでいいのね?」
「す、鈴ちゃん……!」
「嫌だったかしら?」
マリエルが首を傾げる。
鈴は何か言い返そうとしたが、シラスが先に口を開いた。
「本人は、今だけなら構わないそうだ」
「ちょっと! 勝手に代弁しないで!」
「あら、そうなの? じゃあ、本人から聞こうかしら」
マリエルは楽しそうに鈴を見つめた。
逃げ道を失った彼女は、しばらく視線を泳がせてから、小さく咳払いをした。
「……今だけよ。いつまでもその名前で呼ばれるとは限らないんだから」
「はいはい。では、今だけ鈴ちゃんね」
「だから、ちゃんをつけなくてもいいってば……!」
そう言いながらも、鈴はそれ以上強く反論しなかった。
マリエルはそんな彼女の様子を見て、目を細めた。何か面白いものを見つけたような表情だったが、すぐに明るい笑顔へ戻った。
「お部屋は一泊銀貨二枚。食事は別料金だけれど、今夜は煮込み料理がおすすめよ。旅人さんには人気なの」
「それを二人分頼む」
シラスは料金を確認し、必要な分の硬貨をカウンターに置いた。
「ありがとう。お食事は夕方からでもいいし、今すぐでも用意できるわ」
「今すぐ頼む」
「ふふっ。よほどお腹が空いていたのね」
「歩いてきたからな」
「分かるわ。うちの料理で、ゆっくり疲れを取っていってね」
マリエルは硬貨を受け取り、奥にいる従業員へ声をかけた。
鈴は、その様子をじっと見つめていた。
……距離が近い。
マリエルは、どうしてあんなに自然にシラスへ話しかけられるのだろう。
しかも、あの笑顔。
あの話し方。
あの、妙に余裕のある態度。
鈴は自分の胸元へ視線を落としかけ、慌てて顔を上げた。
何を考えているのだろう。
別に、シラスが誰と話そうと関係ない。
自分たちは旅の同行者であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
「鈴ちゃん?」
「ひゃっ!」
突然呼ばれ、鈴は肩を跳ねさせた。
マリエルが不思議そうに顔を覗き込んでいる。
「どうしたの? 疲れているなら、食事のあとでゆっくり休んでね」
「だ、大丈夫よ!」
「そう? 無理はしないでね」
マリエルは優しく笑った。
その笑顔に悪意がないことは、鈴にも分かった。
分かったからこそ、余計に調子が狂う。
「……ありがとうございます」
鈴は小さな声で答えた。
そのとき、奥から料理の皿を持った従業員が現れた。
湯気の立つ煮込み料理と、焼きたてのパン。それに、薄く切った野菜の皿が二人の前に置かれる。
「お待たせしました!」
「おお……」
鈴の表情が一瞬で明るくなった。
さっきまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、彼女は目の前の料理に釘づけになっている。
マリエルはそれを見て、楽しそうに笑った。
「ふふっ。やっぱり、お腹が空いていたのね」
「ち、違うわ。私はただ、料理を確認しているだけよ」
「確認?」
「そ、そうよ。旅先の食事は大切だから」
「なるほど。それなら、たくさん確認していってね」
マリエルは意味ありげに片目をつぶった。
鈴は赤くなった。
「……この人、絶対に面白がっているわ」
「何か言ったか?」
向かいに座ったシラスが尋ねる。
「何でもない!」
鈴はパンを手に取り、勢いよくかじった。
熱い。
「んっ……!」
「熱いなら、ゆっくり食べろ」
「分かっているわよ!」
シラスは呆れたように首を振った。
マリエルはカウンターの向こうから、その様子を眺めていた。
無愛想な青年と、表情がころころ変わる少女。
そして、本人は認めたがらないものの、どうやら即席の呼び名を少し気に入ったらしい少女。
二人の関係が何なのかは分からない。
ただ、少なくとも、退屈な旅人たちではなさそうだった。
「シラスさん」
マリエルが再び声をかけた。
「この町には初めて?」
「ああ」
「それなら、いくつか気をつけたほうがいいことがあるわ」
シラスの目つきが少し変わった。
「何だ?」
「この町の周辺には古い街道が残っているでしょう? 最近はそちらを通る商人が減っているの。日が暮れてから近づくのはおすすめしないわ」
「理由は?」
「道が傷んでいるし、夜になると道に迷う人もいるから。特に、古い石橋の辺りは足元が悪いのよ」
シラスは昼間に渡った橋を思い出した。
確かに、あの橋は安全とは言い切れなかった。
「ほかにも何かあるのか?」
「そうね……」
マリエルは少し考えてから、肩をすくめた。
「商人たちが使う道は、時代とともに変わるものよ。昔の道を知っている人も少なくなったし、古い話を覚えている人も減ったわ。詳しいことなら、長く旅をしている人に聞くといいかもしれないわね」
「長く旅をしている人か」
「ええ。今夜も何人か泊まっているから、話を聞いてみたら?」
シラスは短く頷いた。
この町で情報を集めるつもりだった彼にとって、悪くない助言だった。
一方、鈴は料理を食べながら、マリエルをちらりと見ていた。
彼女は客たちに声をかけ、注文を取り、時には冗談を交えながら忙しそうに働いている。
その姿には、慣れた余裕があった。
自分には、あんなふうに誰とでも自然に話すことはできない。
そう考えた瞬間、鈴は慌てて首を振った。
違う。
自分は何を比べているのだろう。
マリエルは宿屋の主人で、自分は記憶を失った旅人だ。
そもそも、シラスの好みなど知らない。
知らないのだから、気にする必要もない。
「……ねえ、シラス」
「今度は何だ」
「あなたって、大人の女性が好きなの?」
シラスの手が止まった。
「は?」
「だ、だから! その……年上の女性が好きなのかって聞いているの!」
「どうしてそんな話になる?」
「いいから答えて!」
シラスはしばらく彼女を見つめた。
やがて、心底不思議そうな顔で言った。
「考えたこともない」
「……え?」
「今は、そんなことを考えている余裕がないからな」
あまりにも淡々とした返事だった。
鈴は言葉を失った。
マリエルのほうを見る。
彼女はカウンターで客の注文を聞いている。
再びシラスを見る。
相変わらず、煮込み料理を食べている。
……そうだった。
この男は、そういう人間だった。
誰かがどれだけ魅力的に話しかけようと、本人が興味を持たなければ、それで終わりなのだ。
少しだけ安心した。
けれど、なぜ安心したのかは考えないことにした。
「……そう。ならいいわ」
「何がいいんだ?」
「何でもない!」
鈴は再び食事に集中した。
その様子を見て、シラスは首を傾げた。
今日の彼女は、どうにも機嫌が安定しない。
長旅の疲れだろうか。
あるいは、空腹のせいか。
シラスは真剣に考えた末、彼女の皿に残っていた最後のパンを自分の皿へ移した。
「……え?」
鈴の顔から笑顔が消えた。
「何をしているの?」
「疲れているなら、食べすぎないほうがいいと思ってな」
「返して!」
「食べすぎるなと言っているんだ」
「それとこれとは別でしょう!」
食堂に、鈴の抗議が響いた。
マリエルはカウンターの向こうで肩を震わせていた。
ベルフォードでの最初の食事は、どうやら静かには終わりそうになかった。




