忘れられた街道
街道の景色が変わり始めたのは、昼を過ぎてからだった。
それまで両側に広がっていた森は次第に薄くなり、代わりに緩やかな丘がいくつも姿を現した。道端には草に埋もれた石標が点在し、ところどころで古い石畳が土の下から顔を覗かせている。
かつては多くの人々が行き交った道なのだろう。
しかし、今では馬車の轍も少なく、踏み固められた地面には雑草が伸び始めていた。
シラス・ナハトは足元に目を落とした。
「……この道、昔はもっと使われていたんだろうな」
隣を歩いていた白髪の少女が、すぐに反応した。
「どうして分かるの?」
「石畳だ。これだけの範囲に敷かれているなら、最初から人通りの少ない道だったとは考えにくい」
「じゃあ、どうして使われなくなったの?」
「さあな」
シラスは前方を見たまま答えた。
「新しい道ができたのかもしれない。商人が別の街を利用するようになった可能性もある。あるいは、維持する価値がなくなったのかもしれない」
「ずいぶんいろいろ考えるのね」
「分からないことを、分かったふりで決めつけるよりはましだ」
少女は少し考え込んだ。
「つまり、あなたにも分からないことがあるのね」
「何度も言っているだろう」
「でも、あなたって何でも知っていそうなんだもの」
「それは君の想像だ」
「じゃあ、私の想像の中では、あなたは何でも知っていることにするわ」
「勝手にしてくれ」
シラスは面倒そうに答えた。
それでも、彼女の言葉に怒った様子はなかった。
少女は小さく笑い、再び周囲を見回した。
丘の斜面には、かつて畑だったと思われる土地が広がっていた。石を積んで作られた境界線は崩れ、ところどころに低い木々が生えている。
遠くには、屋根の一部が崩れた小さな建物も見えた。
「ねえ、あそこにも誰か住んでいたのかしら?」
「可能性はあるな」
「今は誰もいないの?」
「見ただけでは分からない。廃屋に見えても、倉庫として使われている場合もある」
「……本当に慎重ね」
「不用意に近づいて、面倒事に巻き込まれたいなら止めないぞ」
「嫌よ。私はまだ、そんなに強くないもの」
少女は素直に答えた。
その言葉に、シラスはわずかに視線を向けた。
以前の彼女なら、意地を張って否定していたかもしれない。
自分の力がどれほどのものなのか、彼女自身にも分かっていない。危険な状況で強大な魔法が発動することはあっても、それを自由に扱えるわけではなかった。
力があることと、力を使いこなせることは違う。
それを彼女も少しずつ理解し始めているのだろう。
「自分の限界を知っているのは悪いことじゃない」
シラスは言った。
「ただし、限界を決めつける必要もない。できることを一つずつ増やしていけばいい」
少女は目を瞬かせた。
「……それ、私に言っているの?」
「ほかに誰がいる」
「あなたって、時々いいことを言うのね」
「時々は余計だ」
「ふふっ」
彼女は楽しそうに笑った。
シラスは小さく息を吐き、歩く速度を少し落とした。
街道は緩やかな下り坂へと変わり、その先には浅い谷が広がっていた。谷底には細い川が流れ、古い石橋が両岸をつないでいる。
橋の欄干はところどころ欠けていたが、崩落している様子はない。
シラスは橋の手前で足を止めた。
「少し待て」
少女も立ち止まる。
「何かあった?」
「橋を確認する」
シラスは剣の柄に手を添えたまま、慎重に橋へ近づいた。
石の表面にはひび割れがある。だが、中央部分は比較的しっかりしているようだった。橋の下を流れる水は浅く、流れも穏やかだった。
彼は足元を確かめながら数歩進み、橋の中央付近で立ち止まった。
石がわずかに軋んだ。
シラスはすぐに後退した。
「渡れないの?」
少女が尋ねた。
「渡れないわけじゃない。ただ、荷物を持ったまま走るのはやめておけ」
「走るつもりなんてないわよ」
「ならいい」
「……あなた、私のことを何だと思っているの?」
「時々、勢いで行動する旅の同行者」
「時々じゃないでしょう!」
声が谷に響いた。
シラスは返事をせず、橋の端にある石積みを確認した。
その一部には、古い刻印が残っていた。
円形の枠の中に、交差する二本の線。その周囲には、削れかけた文字らしきものが刻まれている。
少女も隣へやってきた。
「これ、何の印?」
「分からない。少なくとも、今のところ見覚えはない」
「魔法の印かもしれないわね」
「可能性はある。だが、古い建築物に刻まれた印が、すべて魔法に関係しているわけじゃない」
「調べてみないの?」
「今はその必要がない」
シラスは刻印から目を離した。
「橋が渡れることは確認できた。先へ進むぞ」
少女はもう一度だけ刻印を振り返った。
なぜか、目が離せなかった。
しかし、それが何を意味するのかは分からない。
頭の中に何かが浮かびかけたような気がしたものの、すぐに霧の中へ消えてしまった。
「……おい、どうした?」
呼ばれて、彼女は顔を上げた。
「えっ? あ、何?」
「置いていくぞ」
「待ってよ!」
慌てて彼の後を追う。
橋を渡り終えた二人は、再び東へ向かう街道を進んだ。
やがて遠くに、荷馬車が一台見えてきた。
車輪の軋む音が、静かな道に響いている。
御者台には中年の男が座り、二頭の馬をゆっくりと進ませていた。荷台には木箱や布で覆われた荷物が積まれている。
シラスは道の端へ寄った。
男も二人に気づき、馬車を少し減速させた。
「旅人かい?」
「ああ」
「東へ向かうなら、今のうちに歩いておいたほうがいい。日が暮れると、この辺りは冷えるからな」
「忠告、感謝する」
男は少女をちらりと見てから、再びシラスへ視線を戻した。
「この先の街道を使うのは久しぶりだ。昔はもっと馬車が多かったんだがな」
シラスはその言葉に反応した。
「最近は使う人間が減ったのか?」
「減ったね。今は南側の道を通る商人が多い。あっちは距離こそ少し長いが、道が整備されているからな。荷物を運ぶなら、多少遠回りでも安全なほうがいい」
「この道に何か問題があるのか?」
「大きな問題があるわけじゃない。ただ、古い橋や傷んだ道が残っている。わざわざ危険を冒す理由がないんだろう」
男は肩をすくめた。
「昔の商人たちが使っていた道だと聞いているが、今では知っている人間も少なくなった。時代が変わったってことさ」
「そうか」
シラスはそれ以上、問い詰めなかった。
男は軽く手を振り、再び馬車を進めた。
車輪の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
少女は、その後ろ姿を見送っていた。
「商人って、いつもあんなに忙しいのかしら」
「荷物を運ぶのが仕事だからな」
「でも、あの人は急いでいるようには見えなかったわ」
「急いでいないように見えても、決められた時間までに荷物を届ける必要があるのかもしれない」
「なるほど……」
彼女は真剣に頷いた。
それから、何かを思いついたように顔を上げた。
「ねえ、私たちも馬車に乗せてもらえばよかったんじゃない?」
「断られる可能性が高い」
「聞いてみるだけなら、いいでしょう?」
「荷台には荷物が積まれていた。人を乗せる余裕があったかどうかも分からない」
「でも、歩くより楽よ」
「その代わり、行き先を相手に合わせる必要がある。途中で降ろされる可能性もある」
少女はしばらく考えた。
「……あなたって、楽をする方法を探すのが苦手なのね」
「安全に移動する方法を探しているだけだ」
「同じようなものじゃない?」
「全然違う」
彼女はくすくすと笑った。
シラスは反論するのを諦めた。
旅を始めてから、こうしたやり取りが増えている。
以前の彼なら、他人の冗談に付き合う余裕などなかっただろう。
今でも、背後から追手が現れる可能性はある。街道沿いの町で顔を知られているかもしれないし、少女の魔法を探る者たちがどこかで情報を集めているかもしれない。
油断はできない。
それでも、歩き続ける間くらいは、彼女との会話を拒む必要もないのかもしれなかった。
夕方が近づく頃、丘の向こうに小さな集落が見えてきた。
いくつかの家と納屋が並び、畑の向こうには細い煙が上がっている。
シラスは立ち止まり、周囲を見渡した。
「今夜はあそこで休めるか確認しよう」
「本当?」
少女の顔が明るくなった。
「温かい食事があるといいわね」
「まずは泊まれる場所があるかどうかだ」
「食事も大切よ」
「分かった。食事も確認する」
「約束だからね!」
彼女は満足そうに頷いた。
シラスは小さく息を吐き、集落へ向かって歩き始めた。
その背後では、夕日が古い石畳を赤く染めていた。
忘れられた街道。
そこには、かつて人々が行き交った痕跡が残っている。
崩れた橋も、読めなくなった石標も、草に埋もれた道も、過ぎ去った時代を静かに物語っていた。
今のシラスにとって、それらはただの古い遺構にすぎない。
しかし、いつか彼は知ることになる。
人々が忘れたものの中には、まだ誰にも語られていない記録が眠っているのだということを。
そして、その記録を追う旅が、彼自身の運命を少しずつ変えていくことを。
もっとも、そのことを知るのは、まだ先の話だった。




