新たな旅の最初の朝
東へ向かう街道には、朝の冷たい風が吹いていた。
空を覆っていた雲は少しずつ薄くなり、木々の隙間から差し込む光が、濡れた地面を淡く照らしている。
シラス・ナハトは、肩に掛けた荷物の位置を直しながら、黙々と歩いていた。
黒い外套の裾が風に揺れる。その背後では、白い髪を二つに結んだ少女が、少し遅れてついてきていた。
「ねえ、シラス」
「なんだ」
「私たち、今日はどこまで行くの?」
「日が暮れる前に休める場所が見つかれば、そこまでだ」
「それって、目的地を決めていないってこと?」
「正確には、無理に決める必要がないということだ」
少女は納得できないという顔をした。
「でも、東に向かうって決めたんでしょう?」
「ああ」
「だったら、もっと具体的に決めてもいいんじゃない?」
「地図も情報も十分じゃない。知らない土地で予定を立てても、予定どおりに進むとは限らないからな」
「……なんだか、ずいぶん後ろ向きな考え方ね」
「生き残るための考え方だ」
シラスは振り返りもせずに答えた。
少女は頬を膨らませたものの、それ以上は反論しなかった。
しばらく歩いていると、街道の脇に小さな水路が現れた。
水は浅く、底の石が透けて見える。周囲には背の高い草が生い茂り、風が吹くたびに、葉が擦れ合う音を立てていた。
少女は足を止め、水面を覗き込んだ。
「きれいな水ね」
「飲むなよ」
「まだ何もしていないでしょう?」
「今、飲もうとしていただろう」
「……どうして分かったの?」
「顔に書いてある」
「そんなわけないじゃない!」
シラスはわずかに肩をすくめた。
「野外の水は見た目だけじゃ判断できない。飲むなら、せめて安全を確かめてからにしろ」
「分かったわよ」
少女は不満そうに返事をしたが、素直に水路から離れた。
その様子を横目で確認し、シラスは再び歩き始める。
彼女は記憶を失っている。
自分の名前さえ思い出せなかった少女が、今ではこうして当たり前のように彼の隣を歩いている。
その事実を、シラスはまだうまく受け止められずにいた。
誰かと一緒に旅をすることなど、いつから考えなくなったのだろう。
冒険者だった頃には仲間と行動することもあった。しかし、あの事件以降、誰かを信じることは危険な行為になった。
自分のそばにいる人間まで、罪人の仲間として扱われるかもしれない。
だからこそ、本来なら彼女を遠ざけるべきだった。
それでも、シラスは彼女を置いていかなかった。
その理由を尋ねられたとしても、今の彼にはうまく答えられそうになかった。
「……ねえ、シラス」
再び声がした。
「今度はなんだ」
「お腹が空いたわ」
「まだ歩き始めてから、そんなに経っていないぞ」
「朝ご飯が少なかったのよ」
「俺の分まで食べたのは誰だったかな」
「そ、それは……あなたが食べるのが遅かったからでしょう?」
「俺が食べている途中で、お前が自分の皿を空にしたんだが」
少女は口を開きかけ、そして閉じた。
どうやら、反論できる材料はないらしい。
「……意地悪」
「事実を言っただけだ」
「そういうところが意地悪なのよ」
シラスは返事をしなかった。
ただ、その口元がほんの少しだけ緩んだことに、少女は気づかなかった。
二人は街道を進んだ。
道の両側には森が広がり、時折、古い石標が草むらの中から姿を現した。文字は風雨に削られ、何が刻まれていたのか判別できないものも多い。
少女は、そのたびに足を止めた。
「これは何の印かしら?」
「昔の道標だろうな」
「読めないの?」
「読めるものもあるが、これは無理だ」
「あなたにも読めないものがあるのね」
「俺を何だと思っているんだ」
「何でも知っている人?」
「買いかぶりすぎだ」
「そうかしら。戦い方も知っているし、道にも詳しいし、危険な場所もすぐに分かるじゃない」
「知らなければ死ぬような場所を歩いてきただけだ」
その言葉に、少女は少しだけ黙った。
シラスがどれほどの経験を積んできたのか、彼女は知らない。
彼が冒険者になった年齢も、失ったものも、まだすべてを理解しているわけではなかった。
それでも、彼の言葉の奥には、簡単には触れられない何かがある。
少女は、それを無理に聞き出そうとはしなかった。
代わりに、彼の隣へ歩み寄った。
「じゃあ、これからは私も覚えるわ」
「何をだ?」
「道の見方とか、危険な場所の見分け方とか。自分のことくらい、自分でできるようになりたいもの」
シラスは初めて足を止め、彼女を見た。
青い瞳には、いつもの好奇心だけではない、真剣な光があった。
「……そうか」
「何よ、その反応」
「いや。悪くない考えだと思っただけだ」
「本当?」
「ああ。ただし、危険なことを見つけたら、まず俺に知らせろ。自分で何とかしようとして無茶をするな」
「分かっているわ」
「本当に?」
「分かっているってば!」
即答する彼女を見て、シラスは小さく息を吐いた。
信用していないわけではない。
ただ、彼女が自分の魔法を完全に理解していないことを、彼はよく知っていた。
あの異常な力は、彼女自身さえ予測できない形で発動することがある。
敵を退ける力になる一方で、何が起こるか分からない危うさもあった。
今はまだ、その力の正体を探るよりも、まずは安全に旅を続けることが先決だった。
昼が近づくにつれ、森の木々は少しずつ疎らになっていった。
街道の先には、なだらかな丘陵地帯が広がっている。
遠くには、崩れかけた石造りの建物が見えた。かつて旅人が休息を取るために使っていた施設なのかもしれない。
少女は目を細めた。
「ねえ、あそこに建物があるわ」
「見えている」
「寄ってみない?」
「壊れかけている。中に何がいるか分からない」
「でも、休めるかもしれないでしょう?」
「安全を確認してからだ」
「……あなたって、本当に慎重ね」
「お前が無鉄砲すぎるんだ」
「私は無鉄砲じゃないわ!」
「さっき、水路の水を飲もうとしていたのは誰だったかな」
「もう、その話は終わったでしょう!」
少女の抗議が、静かな街道に響いた。
シラスは今度こそ、ほんのわずかに笑った。
声を立てて笑うほどではない。
ほんの一瞬、張り詰めていた表情が緩んだだけだった。
しかし、彼自身にとっては、それだけでも以前とは違う変化だった。
少女はその横顔を見上げたが、何も言わなかった。
彼が笑ったことを指摘すれば、きっとまたいつもの無愛想な顔に戻ってしまう気がしたからだ。
二人は再び歩き始めた。
東へ続く街道は、まだ長い。
この先には、古びた商業都市ラヴェンヌがある。さらにその先には、かつて多くの商人たちが行き交った古い街道と、忘れられた記録が眠っている。
シラスはまだ、その記録が何を意味するのか知らない。
自分の無実を証明する手掛かりが、そこにあるのかどうかさえ分からなかった。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
失われたものを取り戻せる保証はない。
真実に辿り着ける保証もない。
それでも、歩き続けることだけはできる。
「シラス!」
少し先を歩いていた少女が振り返った。
「何だ?」
「次に町へ着いたら、ちゃんとおいしいものを食べましょうね!」
「……それが今、一番重要なことなのか?」
「もちろんよ!」
彼女は胸を張った。
「旅をするなら、食事も大切でしょう?」
「否定はしないがな」
「じゃあ、約束よ」
少女は満足そうに笑った。
シラスは返事をせず、再び前を向いた。
だが、その歩調は、ほんの少しだけ彼女に合わせて緩やかになっていた。
新たな旅は、まだ始まったばかりだった。




