↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/55

新たな旅の最初の朝

東へ向かう街道には、朝の冷たい風が吹いていた。


空を覆っていた雲は少しずつ薄くなり、木々の隙間から差し込む光が、濡れた地面を淡く照らしている。


シラス・ナハトは、肩に掛けた荷物の位置を直しながら、黙々と歩いていた。


黒い外套の裾が風に揺れる。その背後では、白い髪を二つに結んだ少女が、少し遅れてついてきていた。


「ねえ、シラス」


「なんだ」


「私たち、今日はどこまで行くの?」


「日が暮れる前に休める場所が見つかれば、そこまでだ」


「それって、目的地を決めていないってこと?」


「正確には、無理に決める必要がないということだ」


少女は納得できないという顔をした。


「でも、東に向かうって決めたんでしょう?」


「ああ」


「だったら、もっと具体的に決めてもいいんじゃない?」


「地図も情報も十分じゃない。知らない土地で予定を立てても、予定どおりに進むとは限らないからな」


「……なんだか、ずいぶん後ろ向きな考え方ね」


「生き残るための考え方だ」


シラスは振り返りもせずに答えた。


少女は頬を膨らませたものの、それ以上は反論しなかった。


しばらく歩いていると、街道の脇に小さな水路が現れた。


水は浅く、底の石が透けて見える。周囲には背の高い草が生い茂り、風が吹くたびに、葉が擦れ合う音を立てていた。


少女は足を止め、水面を覗き込んだ。


「きれいな水ね」


「飲むなよ」


「まだ何もしていないでしょう?」


「今、飲もうとしていただろう」


「……どうして分かったの?」


「顔に書いてある」


「そんなわけないじゃない!」


シラスはわずかに肩をすくめた。


「野外の水は見た目だけじゃ判断できない。飲むなら、せめて安全を確かめてからにしろ」


「分かったわよ」


少女は不満そうに返事をしたが、素直に水路から離れた。


その様子を横目で確認し、シラスは再び歩き始める。


彼女は記憶を失っている。


自分の名前さえ思い出せなかった少女が、今ではこうして当たり前のように彼の隣を歩いている。


その事実を、シラスはまだうまく受け止められずにいた。


誰かと一緒に旅をすることなど、いつから考えなくなったのだろう。


冒険者だった頃には仲間と行動することもあった。しかし、あの事件以降、誰かを信じることは危険な行為になった。


自分のそばにいる人間まで、罪人の仲間として扱われるかもしれない。


だからこそ、本来なら彼女を遠ざけるべきだった。


それでも、シラスは彼女を置いていかなかった。


その理由を尋ねられたとしても、今の彼にはうまく答えられそうになかった。


「……ねえ、シラス」


再び声がした。


「今度はなんだ」


「お腹が空いたわ」


「まだ歩き始めてから、そんなに経っていないぞ」


「朝ご飯が少なかったのよ」


「俺の分まで食べたのは誰だったかな」


「そ、それは……あなたが食べるのが遅かったからでしょう?」


「俺が食べている途中で、お前が自分の皿を空にしたんだが」


少女は口を開きかけ、そして閉じた。


どうやら、反論できる材料はないらしい。


「……意地悪」


「事実を言っただけだ」


「そういうところが意地悪なのよ」


シラスは返事をしなかった。


ただ、その口元がほんの少しだけ緩んだことに、少女は気づかなかった。


二人は街道を進んだ。


道の両側には森が広がり、時折、古い石標が草むらの中から姿を現した。文字は風雨に削られ、何が刻まれていたのか判別できないものも多い。


少女は、そのたびに足を止めた。


「これは何の印かしら?」


「昔の道標だろうな」


「読めないの?」


「読めるものもあるが、これは無理だ」


「あなたにも読めないものがあるのね」


「俺を何だと思っているんだ」


「何でも知っている人?」


「買いかぶりすぎだ」


「そうかしら。戦い方も知っているし、道にも詳しいし、危険な場所もすぐに分かるじゃない」


「知らなければ死ぬような場所を歩いてきただけだ」


その言葉に、少女は少しだけ黙った。


シラスがどれほどの経験を積んできたのか、彼女は知らない。


彼が冒険者になった年齢も、失ったものも、まだすべてを理解しているわけではなかった。


それでも、彼の言葉の奥には、簡単には触れられない何かがある。


少女は、それを無理に聞き出そうとはしなかった。


代わりに、彼の隣へ歩み寄った。


「じゃあ、これからは私も覚えるわ」


「何をだ?」


「道の見方とか、危険な場所の見分け方とか。自分のことくらい、自分でできるようになりたいもの」


シラスは初めて足を止め、彼女を見た。


青い瞳には、いつもの好奇心だけではない、真剣な光があった。


「……そうか」


「何よ、その反応」


「いや。悪くない考えだと思っただけだ」


「本当?」


「ああ。ただし、危険なことを見つけたら、まず俺に知らせろ。自分で何とかしようとして無茶をするな」


「分かっているわ」


「本当に?」


「分かっているってば!」


即答する彼女を見て、シラスは小さく息を吐いた。


信用していないわけではない。


ただ、彼女が自分の魔法を完全に理解していないことを、彼はよく知っていた。


あの異常な力は、彼女自身さえ予測できない形で発動することがある。


敵を退ける力になる一方で、何が起こるか分からない危うさもあった。


今はまだ、その力の正体を探るよりも、まずは安全に旅を続けることが先決だった。


昼が近づくにつれ、森の木々は少しずつ疎らになっていった。


街道の先には、なだらかな丘陵地帯が広がっている。


遠くには、崩れかけた石造りの建物が見えた。かつて旅人が休息を取るために使っていた施設なのかもしれない。


少女は目を細めた。


「ねえ、あそこに建物があるわ」


「見えている」


「寄ってみない?」


「壊れかけている。中に何がいるか分からない」


「でも、休めるかもしれないでしょう?」


「安全を確認してからだ」


「……あなたって、本当に慎重ね」


「お前が無鉄砲すぎるんだ」


「私は無鉄砲じゃないわ!」


「さっき、水路の水を飲もうとしていたのは誰だったかな」


「もう、その話は終わったでしょう!」


少女の抗議が、静かな街道に響いた。


シラスは今度こそ、ほんのわずかに笑った。


声を立てて笑うほどではない。


ほんの一瞬、張り詰めていた表情が緩んだだけだった。


しかし、彼自身にとっては、それだけでも以前とは違う変化だった。


少女はその横顔を見上げたが、何も言わなかった。


彼が笑ったことを指摘すれば、きっとまたいつもの無愛想な顔に戻ってしまう気がしたからだ。


二人は再び歩き始めた。


東へ続く街道は、まだ長い。


この先には、古びた商業都市ラヴェンヌがある。さらにその先には、かつて多くの商人たちが行き交った古い街道と、忘れられた記録が眠っている。


シラスはまだ、その記録が何を意味するのか知らない。


自分の無実を証明する手掛かりが、そこにあるのかどうかさえ分からなかった。


それでも、立ち止まるつもりはなかった。


失われたものを取り戻せる保証はない。


真実に辿り着ける保証もない。


それでも、歩き続けることだけはできる。


「シラス!」


少し先を歩いていた少女が振り返った。


「何だ?」


「次に町へ着いたら、ちゃんとおいしいものを食べましょうね!」


「……それが今、一番重要なことなのか?」


「もちろんよ!」


彼女は胸を張った。


「旅をするなら、食事も大切でしょう?」


「否定はしないがな」


「じゃあ、約束よ」


少女は満足そうに笑った。


シラスは返事をせず、再び前を向いた。


だが、その歩調は、ほんの少しだけ彼女に合わせて緩やかになっていた。


新たな旅は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。