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新たな旅の始まり

屋根の上を渡る風は、夜明け前の冷たさを残していた。


シラスは崩れかけた煙突の陰に身をかがめ、街の様子を窺っていた。


眼下の路地では、魔術師たちが数人の住民に何かを尋ねている。少し離れた通りでは、賞金稼ぎたちが二手に分かれ、建物の裏手を探していた。


どちらも、まだ諦めてはいないらしい。


「……ずいぶん熱心な連中だな」


「あなた、追われることに慣れているのね」


隣で同じように身をかがめていた少女が、小声で言った。


「慣れたくて慣れたわけじゃない」


「でも、さっきから全然慌てていないじゃない」


「慌てても状況は変わらない。それに、慌てて走り回ると余計に目立つ」


「なるほど……」


少女は感心したように頷いた。


そして、少し考えてから付け加える。


「つまり、あなたは逃げることの専門家なのね」


「……もう少し言い方を考えろ」


「褒めているのよ?」


「それはどうも」


シラスはため息をついた。


この少女と一緒にいると、静かな時間が少しずつ減っていく気がする。


悪いことばかりではない。


そう考えてしまった自分に気づき、彼は思考を打ち切った。


今は感傷に浸っている場合ではない。


街から抜け出す必要があった。


「ここに長居はできない。東の外れに古い水路がある。そこを通れば城壁の外へ出られるはずだ」


「はず?」


「以前、仕事でこの街に来たことがある。そのときに見た」


「確実じゃないのね」


「確実な逃げ道があるなら、俺は最初からこんなところを歩いていない」


「それもそうね」


少女は素直に納得した。


二人は屋根の陰を移動し、隣の建物へ飛び移った。


慎重に進んでいると、遠くから鐘の音が聞こえた。


街の門が開く時刻を知らせる鐘だった。


シラスは足を止めた。


「まずいな」


「どうしたの?」


「門が開けば、人の出入りが増える。賞金稼ぎが門番に話を通していれば、顔を確認される可能性がある」


「それなら、門から出なければいいんじゃない?」


「そのとおりだ」


シラスは彼女を見た。


「……今日はまともなことを言うな」


「今日は、って何よ!」


少女が声を上げかけ、慌てて自分の口を押さえた。


下の通りを歩いていた男が、こちらを見上げる。


二人は同時に身を伏せた。


男が何も気づかずに立ち去るまで、しばらく息を潜めることになった。


「……あなたのせいだからね」


「今のはお前の声だろう」


「あなたが余計なことを言うからよ!」


「はいはい」


シラスはそれ以上言い返さず、先へ進んだ。


少女は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに彼の後を追った。


やがて、二人は建物の隙間を抜け、街の東側にある古い倉庫街へたどり着いた。


使われなくなった倉庫が並び、石畳には雑草が生えている。壁の一部は崩れ、長い間、人の手が入っていないことがわかった。


その奥に、半ば瓦礫で塞がれた水路の入口があった。


「ここだ」


シラスは周囲を確かめてから、崩れた石材の隙間に身を滑り込ませた。


内部は暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。


少女は入口で立ち止まり、暗闇を覗き込んだ。


「……ここを通るの?」


「嫌なら、街へ戻って魔術師たちに保護してもらえばいい」


「嫌よ」


即答だった。


少女は裾を押さえ、慎重に水路へ足を踏み入れた。


「それに、あなた一人で行かせたら、また無茶をするでしょう?」


「俺はいつも無茶をしているわけじゃない」


「さっき、崩れそうな足場を走っていた人の言葉とは思えないわね」


「他に道がなかった」


「はいはい」


今度は少女が、得意そうに返した。


シラスは何も言わずに先へ進んだ。


水路は曲がりくねりながら、緩やかに下っていた。


足元には浅い水が流れ、壁には古い傷や、意味のわからない刻み目が残っている。街が築かれるよりも前から存在していたのかもしれない。


シラスは壁の刻み目に一瞬だけ目を向けたが、立ち止まることはなかった。


今、気にするべきことは別にある。


しばらく歩くと、背後からかすかな物音が聞こえた。


シラスは即座に剣の柄へ手を伸ばした。


「止まれ」


少女も足を止めた。


水路の奥から、何かが石を踏むような音がする。


一度。


二度。


そして、静寂。


「……追っ手?」


少女が囁いた。


「わからない。ここから動くな」


シラスは壁際に身を寄せ、音の方向を見据えた。


しばらく待っても、何も現れない。


やがて、水が滴る音だけが戻ってきた。


「行くぞ。ただし、今度は足音を立てるな」


「最初からそうしているわよ」


「なら問題ない」


二人は再び歩き始めた。


水路の出口にたどり着いたのは、それからしばらく後のことだった。


崩れた石壁の向こうに、朝日を受けた草原が広がっていた。


街を囲む城壁から離れた場所で、細い川が森の中へと流れている。鳥の声が聞こえ、湿った土と草の匂いが風に乗ってきた。


少女は出口から顔を出し、眩しそうに目を細めた。


「……外に出られたのね」


「ああ」


シラスは最後にもう一度、街の方向を振り返った。


ここでの追跡は終わっていない。


賞金稼ぎたちは、これからも彼の首を狙うだろう。魔術師たちも、少女を探し続けるはずだ。


二人が同じ道を歩く限り、危険は増える一方かもしれない。


それでも、もう決めたことだった。


シラスは外套についた埃を払い、森へ続く道を見た。


「まずは次の町へ向かう。食料と地図を手に入れたい」


「町に入るの?」


「必要なものがあるならな」


「また追われるかもしれないわよ?」


「だからといって、何も持たずに森を歩き続けるわけにもいかない」


「それはそうね」


少女は頷いた。


少し歩いてから、彼女はふと思い出したように口を開いた。


「ねえ、シラス」


「何だ?」


「あなたは、どうしてそこまで自分の無実を証明したいの?」


シラスの足が、ほんのわずかに鈍った。


朝の風が外套を揺らす。


「……無実だからだ、と答えれば満足か?」


「そういう答えが欲しいわけじゃないわ」


少女は真剣な顔をしていた。


「あなたは、あの村のことを話すとき、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。でも、自分のことを話すときは、どこか諦めているみたいだった」


シラスはすぐには答えなかった。


村で見た炎。


煙に包まれた家々。


聞こえた叫び声。


そして、あの報告書に記された、自分には説明できないはずの証拠。


記憶を辿るたび、胸の奥に何かが引っかかる。


自分が見たものと、世間が信じているもの。その間には、埋められない溝があった。


「俺が何を言っても、信じる人間は少ない」


「うん」


「証拠もない。今の俺には、あの村で何が起きたのか、すべてを説明することもできない」


彼は空を見上げた。


「だが、俺がやっていないことまで、やったことにされるのは気に入らない。それだけだ」


少女は黙って聞いていた。


「それに……」


シラスは言葉を切った。


あの村にいた人々の顔が、脳裏をよぎる。


水を差し出してくれた老女。


自分の剣を興味深そうに眺めていた子供。


夜道を心配し、北へ行くなと忠告した男。


彼らの名前すら、今では思い出せない。


それでも、彼らが確かに生きていたことだけは覚えている。


「俺が何もしなければ、あの村で死んだ人間は、ただの数字のままだ」


静かな声だった。


「それだけは、嫌なんだ」


少女は足を止めた。


彼女は記憶を失っている。


自分がどこから来たのか、何をしていたのか、誰と過ごしていたのか。そのほとんどを知らない。


だからこそ、シラスの言葉が少しだけわかった気がした。


過去を失うことと、過去を奪われることは、同じではない。


彼は忘れていない。


忘れられないからこそ、歩き続けようとしている。


「……わかったわ」


少女は、まっすぐに彼を見た。


「私はまだ、あなたが本当に無実なのかはわからない」


「それでいい」


「でも、あなたが何を見て、何を知っているのか。それを一緒に探すことはできると思う」


シラスは目を細めた。


「お前、自分の記憶を探すのが先じゃないのか?」


「そっちも探すわよ。欲張りで悪かったわね」


「誰も悪いとは言っていない」


「顔が言っているの!」


シラスは小さく息を吐いた。


今度は、笑いを隠さなかった。


ほんのわずかな笑みだったが、少女はそれを見逃さなかった。


「……今、笑った?」


「気のせいだ」


「笑ったわよね?」


「歩け。日が高くなる」


「ちょっと、話をそらさないで!」


少女は彼の隣へ追いつき、しばらく顔を覗き込んでいた。


やがて諦めたのか、彼女は前を向いた。


二人の足音が、草原の道に重なっていく。


そのとき、シラスの外套の内側で、折り畳んだ紙がかすかに擦れた。


数日前、街の掲示板の近くで拾った、古い交易路の案内図だった。


大まかな街道と宿場の位置しか記されていない、ありふれた地図。


だが、その端には、現在の街道から外れた場所に小さな印がついていた。


シラスは歩きながら、その印を思い出した。


古い街道の先にある、かつての中継地。


今ではほとんど使われていない道だが、そこからさらに東へ進めば、隣接する地域へ抜けられる。


そして、その地域へ向かう古い道筋のそばには、かつて冒険者たちが使っていた記録所があるという。


あの村について調べるなら、過去の依頼記録や通行記録が残っている可能性があった。


確かな情報ではない。


期待できるほどの根拠もない。


それでも、今の彼には手がかりが必要だった。


「次は東へ向かう」


シラスが言った。


「東?」


少女は首を傾げた。


「隣の地域へ抜ける古い街道がある。そこに、昔の記録を保管していた場所があるらしい」


「あなたの村について何かわかるかもしれないの?」


「可能性はある。期待はするな」


「わかったわ。期待しないでおく」


彼女は少し考えてから、付け加えた。


「でも、何か見つかったら一番に教えてね」


「……ああ」


「約束よ」


「わかった」


少女は満足そうに頷いた。


それから、彼女は胸元の銀色の飾りにそっと触れた。


青い石は、朝日を受けて静かに輝いている。


「私も、ここから何か思い出せるといいな」


「無理に思い出そうとするな。焦っても仕方がない」


「わかっているわ。でも、何も覚えていないままなのは、やっぱり嫌よ」


「なら、一つずつ探していけばいい」


シラスは前を向いたまま答えた。


「俺の過去も、お前の過去もな」


少女は一瞬だけ驚いた顔をした。


それから、柔らかく微笑んだ。


「……うん」


森の向こうには、まだ見ぬ土地が広がっている。


そこに何が待っているのか、二人にはわからない。


新しい出会いがあるのか。


危険が待ち受けているのか。


失われた過去につながる何かが見つかるのか。


今は、何一つ確かなことはなかった。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


シラス・ナハトは、もう一人ではなかった。


そして、記憶を失った白髪の魔女もまた、独りで自分の記憶を探す必要はなくなった。


二人は並んで歩き続ける。


逃亡者と、記憶を失った白髪の魔女。


互いの過去を知らない二人の旅は、こうして新たな一歩を踏み出した。


その道の先に、世界を揺るがす真実が待っていることを、まだ誰も知らなかった。

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