逃亡者の決断
第11話 逃亡者の選択
路地の奥から、冷たい風が吹き抜けた。
シラスは背後を一瞥した。
追ってきた賞金稼ぎたちが、路地の入口を塞いでいる。三人とも武器を構え、逃げ道を探す獲物を見つけた狩人のような目をしていた。
そして、正面には三人の魔術師。
黒い外套に刻まれた見覚えのない紋章。手にした杖の先端には、淡い光が宿っている。
彼らの視線は、シラスではなく、その隣に立つ白髪の少女へ向けられていた。
「君。抵抗はやめろ」
中央の魔術師が静かに告げた。
「君を傷つけるつもりはない。こちらに来れば、すべて説明する」
少女はシラスの外套をつかんだ。
「……あの人たち、私をどこへ連れていくつもりなの?」
「さあな。親切な顔をしている奴ほど、ろくでもない場所へ案内することもある」
「あなた、そういうことばかり言うわね」
「経験から学んだ結果だ」
「それ、あまり誇れる経験じゃないと思うけど」
こんな状況だというのに、少女は小さく眉を寄せた。
シラスは思わず息を漏らしかけたが、すぐに表情を引き締める。
笑っている場合ではない。
前方の魔術師たちが、少しずつ距離を詰めていた。
「その少女を引き渡せ。君に用はない」
中央の魔術師がシラスに言った。
「そいつは助かる。俺もあんたたちに用はない」
「ならば、そこをどけ」
「断る」
即答だった。
魔術師の眉がわずかに動く。
「なぜだ?」
「本人が嫌がっている」
「彼女は自分の状態を理解していない。あのような異常な魔力を持つ者を放置することが、どれほど危険なのか君にはわからないだろう」
「だから、連れていって調べるって?」
「必要な管理を行うだけだ」
シラスは男の目を見た。
言葉は整っている。声も落ち着いている。だが、少女本人の意思を確認する気はないらしい。
調査。
管理。
保護。
人を好きなように扱いたい連中は、いつだって聞こえのいい言葉を使う。
「……おい」
「な、なに?」
「お前は、あいつらについていきたいか?」
少女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「嫌よ」
「そうか」
それだけ答えて、シラスは剣の柄に手を置いた。
「聞いたとおりだ。帰ってくれ」
「愚かな選択だな」
魔術師が杖を持ち上げた。
その瞬間、路地の入口から笑い声が響いた。
「おいおい、そこの魔術師さんたち。そいつは俺たちが先に見つけた獲物だぜ」
賞金稼ぎの一人が、剣を肩に担いで歩み出た。
「賞金首のシラス・ナハト。生死は問わず、だったな」
「俺たちの仕事を邪魔するなら、お前らも覚悟してもらおうか」
別の男が魔術師たちへ視線を向ける。
魔術師は露骨に顔をしかめた。
「我々は、その男に用はない。邪魔をするな」
「そいつを捕まえたら、ついでに白髪の娘も引き渡してやるよ。もちろん、相応の報酬をもらえるならな」
「……交渉のつもりか?」
「世の中、金で片づくこともある」
「下劣な連中め」
魔術師の声が冷えた。
賞金稼ぎたちも、剣の柄に手をかける。
互いに狙っているものは違う。
それでも、ここにいる全員がシラスと少女の逃げ道を塞いでいた。
このままでは、どちらかを相手にしている間に、もう一方から攻撃される。
シラスは路地の壁を見上げた。
右側は古い石壁。左側には閉じられた店の裏口がある。頭上には建物をつなぐ木製の足場が張り出していたが、腐食が進んでいる。
正面突破は危険。
背後へ戻るのも難しい。
ならば、残された手段は一つ。
「走れるか?」
「走れるけど……どこへ?」
「上だ」
「上?」
「説明はあとだ。俺の合図で、あの壁際まで走れ」
シラスは足場の下に積まれた木箱を指さした。
少女は一度だけ頷いた。
「わかった」
「いい返事だ」
「でも、あなたが失敗したら怒るから」
「そのときは好きなだけ怒れ」
「絶対よ」
少女の声に、ほんの少しだけ力が戻った。
シラスは剣を抜いた。
刃が薄暗い路地で鈍く光る。
「最後にもう一度だけ言う。その子を渡すつもりはない」
「ならば、力ずくで排除する」
魔術師が杖を振るった。
足元の石畳に、淡い光の線が走る。
シラスは動いた。
「今だ!」
少女が木箱へ駆け出す。
同時に、シラスは地面を蹴り、正面の魔術師へ突進した。
相手の杖が横へ振られる。
空気が震え、シラスの足元から石の棘が突き出した。
「ちっ!」
身をひねり、肩をかすめる棘を避ける。外套の端が裂けた。
シラスは止まらない。
剣を振り下ろすと見せかけ、相手の杖を横から弾いた。
金属音が路地に響く。
魔術師が体勢を崩した一瞬、シラスはその脇を抜けた。
だが、残る二人がすでに術式を組み上げている。
「逃がすな!」
青白い光が壁から壁へと走り、退路を塞ぐように広がった。
そのときだった。
少女の周囲で、空気がわずかに歪んだ。
「……え?」
少女自身も、その変化に気づいていない。
ただ、シラスの背中に光が迫るのを見て、反射的に手を伸ばしていた。
「シラス!」
彼女の指先から、淡い青白い光が弾けた。
魔術師たちが作り上げた術式が、一瞬だけ乱れる。
壁を走っていた光が途切れ、路地を塞いでいた障壁に細い亀裂が入った。
「何だと……!?」
魔術師たちの顔色が変わる。
その隙を、シラスは見逃さなかった。
木箱を踏み台にして壁の出っ張りへ飛びつき、少女の腕をつかむ。
「しっかりつかまれ!」
「きゃっ!」
少女の体を引き上げ、崩れかけた足場へと飛び移る。
背後で怒号が上がった。
「待て!」
賞金稼ぎの一人が矢を放つ。
矢は二人の足元をかすめ、腐った木板に突き刺さった。
嫌な音がした。
「シラス、これ、折れそう!」
「わかってる!」
「わかってるなら、もっと丈夫なところを選んでよ!」
「文句は地上に降りてから聞く!」
シラスは少女を先に渡し、足場の端へ向かって走った。
木板が軋み、背後から魔術の光が飛んでくる。
最後の一歩で、シラスは向かいの建物の屋根へ飛び移った。
着地と同時に、足場が崩れ落ちた。
木材が路地へ降り注ぎ、追っ手たちの視界を塞ぐ。
シラスは少女の手を引き、屋根の上を走った。
しばらくして、二人は隣接する建物の陰へ滑り込んだ。
下の路地から、怒鳴り声が聞こえる。
魔術師たちは互いに指示を飛ばし、賞金稼ぎたちは崩れた足場を避けて回り込もうとしていた。
まだ逃げ切ってはいない。
それでも、ほんのわずかな時間は稼げた。
「……はあっ、はあっ……」
少女が膝に手をつき、息を整える。
シラスは屋根の端から周囲を確認した。
東側には低い建物が続き、その先に城壁の外へ通じる古い水路がある。西側は人通りの多い大通りだ。追っ手を撒くなら東しかない。
「行くぞ」
そう言って歩き出しかけたシラスの袖を、少女が引いた。
「待って」
「どうした?」
少女は自分の手を見つめていた。
先ほど光が生まれた指先。そこには、もう何の変化もない。
「私……また、変なことをしたの?」
「魔術師たちの術式を乱した。たぶんな」
「たぶんって……」
「俺にもわからないことはある」
少女は唇を結んだ。
「私のせいで、あなたまで追われることになった」
「俺は最初から追われている」
「そういう意味じゃないわ」
「わかってる」
シラスは少女の頭に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
代わりに、彼女の目をまっすぐ見た。
「お前の力が何なのか、俺にはわからない。あいつらが何をしたいのかもな」
「……うん」
「だから、今ここで答えを出す必要はない。わからないことは、逃げながら考えればいい」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「あなたは……私を置いていかないの?」
その問いは、先ほどまでの強気な声とは違っていた。
記憶を失い、自分の力すら理解できない少女。
彼女が恐れているのは、追っ手だけではないのかもしれない。
自分が何者なのかわからないまま、誰にも必要とされなくなること。
シラスには、その恐怖を完全に理解することはできなかった。
それでも、答えることはできた。
「置いていかない」
短い言葉だった。
約束と呼ぶには、あまりにも簡単な言葉。
それでも、少女は目を見開き、やがて安心したように息を吐いた。
「……そう。なら、いいわ」
「ただし、これからも俺の指示には従え。さっきみたいに急に立ち止まられると困る」
「あなたの指示が正しいとは限らないでしょう?」
「それはそうだな」
「そこは否定しなさいよ!」
こんなときでも、彼女は怒ることができる。
そのことに、シラスは少しだけ安堵した。
彼は再び東側へ視線を向けた。
賞金稼ぎたちは、まだ自分を狙っている。
魔術師たちは、少女を諦めるつもりがないだろう。
そして、少女の力については何一つわかっていない。
このまま彼女を連れていけば、追跡はさらに厳しくなる。
彼女を手放せば、あの魔術師たちに連れ去られるかもしれない。
以前のシラスなら、迷うことはなかった。
自分以外の人間を守る余裕などない。生き延びることだけを考え、誰にも関わらず、誰も信じずに進めばいい。
そうしてきたはずだった。
だが今、隣には自分の袖をつかんでいる少女がいる。
名前以外の記憶を失い、世界のことも、自分の力のことも知らない少女。
それでも、彼女はシラスを疑いながらも、彼の言葉を聞き、自分の意思で隣に立つことを選んだ。
ならば、今度は自分が選ぶ番なのだろう。
シラスは剣を鞘に収めた。
「おい」
「なに?」
「ここから先は、俺と一緒に来い」
少女の青い瞳が揺れた。
「……いいの?」
「よくはない。面倒ごとが増えるだけだ」
「ひどい!」
「だが、置いていくつもりもない」
シラスは屋根の向こうを見据えた。
「俺は自分の無実を証明するために、あの村で何が起きたのかを調べる。お前は自分の記憶と力について知りたい。目的は違うが、今は同じ道を進むしかない」
彼は一度、言葉を切った。
「それに……お前を連中に渡すのは、気に入らない」
少女は瞬きをした。
次の瞬間、頬がほんのり赤くなる。
「そ、それって……私のことを心配してくれているの?」
「追っ手が増えるのを心配している」
「今、絶対にごまかしたでしょう!」
「そう思うなら、そう思っていればいい」
シラスは歩き出した。
少女は一瞬だけ頬を膨らませたが、すぐにその隣へ駆け寄った。
「待ちなさいよ、シラス!」
二人の足音が、古い屋根の上に重なった。
下では、追っ手たちがまだ彼らを探している。
彼らが進む先に何が待っているのか、シラスにはわからない。
自分を殺人者に仕立て上げた者の正体も、少女の失われた記憶も、あの異常な魔力の理由も。
何一つ、答えは出ていなかった。
それでも、ひとつだけ決めたことがある。
もう、目の前で誰かが連れ去られるのを、黙って見過ごすつもりはない。
たとえその選択が、逃亡者としての自分の立場をさらに悪くするとしても。
シラス・ナハトは、初めて自分の意思で、誰かと共に進む道を選んだのだった。




