第九十八話 明日の話
春になったからといって、村の朝が遅くなるわけではなかった。
まだ空の端が白み始めたばかりだというのに、家々からは煙が上がり、村のあちこちで人の声がしている。
冬の間は雪に覆われていた畑にも人影があった。
固くなった土へ鍬を入れ、石を拾い、冬を越した枯れ草を集めている。すぐに何かが実るわけではない。それでも村人たちは、数か月先の収穫へ向けて動き始めていた。
「童師、そちらをお願いできますか」
「ああ」
礼は両手で木材を持ち上げた。
昨日作ったばかりの燻製棚。
その隣に、もう一つ作っている。
「もう少し右です」
「ここか」
「もう少しです」
礼が半歩動く。
「行きすぎました」
「…………」
「少し左へ」
「ここか」
「はい。そこでお願いします」
木材を地面へ置く。
村人が位置を確認し、満足そうに頷いた。
「ありがとうございます」
「これで足りるのか」
「当分は」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「…………」
村人が目を逸らした。
「次は先に作っておけ」
「はい」
「木材も用意しておけ」
「はい」
「人手もだ」
「……はい」
返事が少し小さくなった。
礼はため息をつき、地面へ置かれた道具を拾う。
「童師!」
今度は別の方向から声がした。
「なんだ」
村の男が駆けてくる。
「北側の柵なんですが、一度見てもらえませんか」
「壊れたのか」
「まだ大丈夫です。ただ、雪の重みで何本か傾いてまして」
「今日か?」
「いえ、急ぎません。三日後くらいにでも」
「分かった」
「助かります」
男が戻っていく。
「童師」
「…………」
今度は後ろだった。
振り返る。
童術師の一人が立っている。
「何だ」
「明日の狩りですが、村の方から二人同行してほしいと頼まれています」
「行けばいい」
「承知しました。それと、明後日は畑の石を運ぶのを手伝ってほしいそうです」
「ああ」
「それから――」
「まだあるのか」
「北側の柵を直す時に、第三を使える者がいた方がよいかと」
「それは三日後だ」
「はい。その翌日は南の森へ狩りに行くそうです」
「…………」
礼は男を見る。
「予定が多いな」
「そうですね」
童術師は困ったように笑った。
「ただ、冬よりは楽です。雪掻きがありませんから」
「そういう問題か?」
「おそらく」
男は手にしていた小さな紙を見る。
「来週には畑の柵も作り直すそうです。そちらも頼まれるかもしれません」
「来週」
「はい」
礼は少し黙った。
童術師は気づかず続ける。
「それが終われば、夏までには北側の古い柵を全部――」
「待て」
「はい?」
男が顔を上げる。
「…………」
礼は口を開きかけた。
夏まで。
当然のように出てきた言葉だった。
男も、それを不思議に思っている様子はない。
「童師?」
「……いや」
「何でしょうか」
「なんでもない」
「そうですか」
「ああ」
礼は再び木材へ手を伸ばした。
「続けろ」
「はい。では、北側の柵ですが――」
男の話を聞きながら、礼は作業を続けた。
◇
昼を過ぎると、村のあちこちから土の匂いがするようになった。
雪解けの水を含んだ土は重い。
鍬を振り下ろすたびに黒い塊が起き上がり、その中から小石や古い根が顔を出す。
「これ、どこへ運びますか?」
「向こうだ。柵の外に積んでくれ」
「分かりました」
童術師の一人が、大きな石を抱え上げる。
第三童式《童衣》。
身体を巡る童力によって強化された腕なら、一人では動かせない石でも運ぶことができた。
「便利だなあ」
鍬を持った老人が感心したように言う。
「去年は三人で運んだぞ、それ」
「三人もですか」
「ああ。一人は腰をやった」
「…………」
童術師は石を見た。
「今年は俺が運びます」
「頼む」
「ただ、腰を痛めた方は」
「治っとるよ。去年の話だ」
「そうですか」
「今年やったら童師様に治してもらうさ」
「最初から怪我をするつもりで働かないでください」
「ははは」
老人が笑う。
少し離れた場所では、村で童術を覚え始めた若者たちが作業を手伝っていた。
最初に《童駆》を成功させた男もいる。
今は走っていない。
鍬を振っている。
「なあ」
「なんだ?」
「これ、童術使ったらもっと早く終わらないか?」
隣にいた童術師が手を止める。
「何を使うつもりですか」
「《童駆》」
「畑を耕すのに?」
「速く動けるだろ」
「やめた方がいいと思います」
「なんでだよ」
「あなた、まだ止まるのが下手でしょう」
「昨日より上手くなった」
「昨日、鹿を追い越したと聞きました」
「あれはちょっと力を入れすぎただけだ」
「鍬を持ったまま同じことをしたら危ないです」
「…………」
「普通にやりましょう」
「……分かった」
近くで聞いていた村人たちが笑う。
男は不満そうに鍬を振り下ろした。
だが、その顔にも笑みがあった。
◇
「これで最後ですね」
午後。
村の端にある家の屋根で、童術師の男が釘を打ち込んだ。
冬の間、薪を届けることが多かった家だった。
雪が解けて確認してみれば、屋根板の一部が傷んでいた。すぐに雨漏りするほどではないが、放っておけば夏の雨で困ることになる。
「本当にありがとうございます」
下から声がする。
「いえ」
若い女が屋根を見上げていた。
「これくらいでしたら」
「でも、今日は別のお仕事があったんじゃないですか?」
「午前中で終わりました」
「畑ですよね」
「はい」
「昨日は狩りに行ってましたよね」
「……はい」
「その前は柵を直してましたよね」
「そうですね」
男は屋根の上で少し考えた。
「最近、働いてばかりですね」
「今気づいたんですか?」
「今気づきました」
女が笑った。
男も僅かに笑い、道具をまとめる。
「降ります」
「気をつけてください」
「大丈夫です」
屋根から降り、梯子を片付ける。
女は修理された場所を見上げた。
「これで夏も大丈夫ですか?」
「おそらく。ただ、大雨が続くようなら一度確認した方がいいと思います」
「その時もお願いしていいですか?」
「はい」
答えてから、男の手が止まった。
女も気づいたらしい。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
夏。
まだ春になったばかりだった。
何か月も先の話だ。
「…………」
「…………」
女が先に口を開いた。
「夏まで、いるんですか?」
「……分かりません」
男は正直に答えた。
「そうですよね」
「はい」
「最初は三日だったんですよね」
「そう聞いています」
「聞いている?」
「俺は、三日目に荷物をまとめていましたから」
「ああ」
女が笑う。
「そうでした」
「覚えてるんですか?」
「村中、見てましたから」
「…………」
「本当に出ていくんだって思いました」
女は家の壁へ手を添えた。
「その後、七日になって」
「はい」
「雪が降って」
「はい」
「ドラゴンが来て」
「……はい」
「あれは関係ないと思います」
「俺もそう思います」
二人が笑った。
春の風が村を抜けていく。
冬とは違う。
冷たさの中に、僅かに湿った土の匂いが混じっていた。
「春になったら」
女が言った。
「皆さん、出ていくと思ってました」
男は答えなかった。
「雪が止んだら、出ていくって話だったから」
「そうですね」
「でも、春になりました」
「はい」
女が男を見る。
「今は?」
「…………」
「出ていくんですか?」
男は村の中央へ目を向けた。
畑で働く者がいる。
井戸の近くでは、童術の練習をしている村人がいる。
遠くから誰かの笑い声が聞こえた。
「分かりません」
しばらく考えてから、男は言った。
「前は、次にどこへ行くかばかり考えていました」
「次に?」
「はい。ここに長くいれば迷惑になると思っていたので」
「…………」
「俺たちは、どこへ行ってもそうでした」
男は淡々と話す。
「長く留まらない方がいい。誰かに知られる前に移動した方がいい。追われたら離れた方がいい」
「怖くなかったんですか?」
「怖かったですよ」
男は苦笑した。
「今も怖いです」
「…………」
「でも」
そこで言葉を止める。
何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなったようだった。
女は急かさなかった。
「あなたは」
男が言った。
「はい?」
「俺たちが出ていった方がいいと思いますか?」
女が目を瞬いた。
「どうして私に聞くんですか?」
「…………」
「村長に聞くことじゃないですか?」
「そうですね」
「童師に聞くことかもしれません」
「はい」
「なのに、私に聞くんですか?」
「…………」
男は黙った。
女はしばらくその顔を見ていたが、やがて小さく笑った。
「ずるいですね」
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
「私に聞いたんだから、私の答えでいいんですよね」
「……はい」
女は一度だけ息を吸った。
「私は」
春の風が、二人の間を抜ける。
「いてほしいです」
「…………」
男は動かなかった。
「皆さんに?」
しばらくして、ようやくそう聞いた。
女が男を見る。
「それ、本当に聞いてます?」
「…………」
「…………」
「……すみません」
女が吹き出した。
「なんで謝るんですか」
「分からなくて」
「分からないなら、考えてください」
「はい」
「ゆっくりでいいので」
「…………はい」
女は家の中へ戻ろうとして、足を止めた。
「あ」
「なんですか」
「明日」
「はい」
「お昼、ここで食べませんか?」
「…………」
「嫌ならいいんですけど」
「いえ」
男は首を振った。
「来ます」
「お仕事は?」
「確認します」
「無理なら別の日でも」
「来ます」
今度は、少し早かった。
女が笑う。
「じゃあ、待ってます」
「はい」
戸が閉まる。
男は一人、その場に残った。
「…………」
手には金槌がある。
反対の手には釘が残っていた。
男はしばらく動かなかった。
「何をしてる」
「うわっ!?」
突然後ろから声を掛けられ、男が振り返る。
ガルドが立っていた。
「ガ、ガルドさん」
「終わったのか?」
「はい」
「じゃあ戻るぞ。礼が人手探してたぞ」
「童師が?」
「ああ。畑の方で何か運ぶらしい」
「分かりました」
男は道具をまとめ、ガルドの横へ並んだ。
二人で歩き出す。
「…………」
「…………」
「なんですか」
「いや?」
「さっきからこっち見てませんか」
「見てねえよ」
「見てますよ」
「気のせいだ」
「…………」
少し歩く。
「頑張れよ」
「何をですか?」
「知らん」
「何なんですか」
ガルドは笑うだけだった。
◇
夕食を終えた後。
十四人が使っている家では、翌日の予定を決めていた。
「明日の狩りは俺と、もう一人ですね」
「ああ」
「村の若い方も同行されるそうです」
「無茶はさせるな」
「承知しました」
「畑は?」
「三人いれば足りるそうです」
「第三を使える奴を一人入れろ」
「はい」
「童術の練習を見る者は」
「午前は俺が見ます」
別の童術師が答える。
「午後は?」
「俺が代わります」
「分かった」
礼は卓の上に置かれた紙を見る。
いつの間にか、村で頼まれた仕事を書き留めるための紙まで作られていた。
明日。
明後日。
三日後。
五日後。
空いている場所には、後から予定が書き足されていく。
「童師」
「なんだ」
「来週ですが」
「ああ」
「村長から、畑の周りに新しい柵を作りたいと相談されています」
「人数は」
「まだ決めていません」
「先に木を切っておけ」
「はい」
「乾かす時間も考えろ」
「承知しました」
「それから、夏までには北側の柵も直したいそうです」
「…………」
また、夏だった。
礼は紙を見る。
「童師?」
「いや」
首を振る。
「続けろ」
「はい」
話し合いは続いた。
その途中で、戸が開いた。
「ただいま戻りました」
屋根を直していた男だった。
「お帰りなさい」
「遅かったですね」
「すみません」
「屋根の修理でしょう?」
「はい」
「随分時間が掛かりましたね」
「少し話をしていました」
「村の方と?」
「……はい」
男は道具を隅へ置く。
ガルドと一緒に戻ってきたはずなのに、ガルドの姿はない。途中で自宅へ帰ったらしい。
「童師」
男が礼を見る。
「なんだ」
「明日の予定ですが」
「お前は空いてるはずだ」
「…………」
「どうした」
「昼だけ、少し時間をいただいてもよろしいでしょうか」
何人かが顔を上げた。
「構わない」
「ありがとうございます」
「何かあるのか?」
「いえ」
「ならいい」
「はい」
男は頭を下げる。
隣にいた童術師が小声で聞いた。
「何かあるんですか?」
「ありません」
「でも昼に」
「ありません」
「そうですか」
「はい」
男の返事が少しだけ早い。
礼はそれ以上聞かなかった。
紙へ視線を戻す。
「次は」
「はい。三日後の柵ですが――」
話が続く。
誰かが明日の予定を話す。
誰かが三日後の仕事を決める。
来週の畑。
その次の狩り。
夏までに直す柵。
礼は一つずつ聞き、必要な人数を決めていった。
いつ出ていくのか。
その話だけは、誰もしなかった。
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