第九十九話 ここにいたい
昼を知らせる鐘が鳴った。
村の畑で鍬を振っていた男は、その音を聞いた瞬間に手を止めた。
「…………」
まだ一度しか鳴っていない。
それでも、隣にいた村人が男を見る。
「どうした?」
「いえ」
「昼だぞ」
「はい」
「休まないのか?」
「休みます」
答えながら、男は鍬についた土を落とした。
いつもなら、このまま他の者たちと一緒に食事を取る。
だが今日は違った。
鍬を所定の場所へ戻し、手についた土を払う。
「じゃあ、行ってきます」
「どこへ?」
「少し」
「少しってどこだ」
「……昼を食べに」
「ここでも食えるぞ」
「今日は別のところで」
「ふうん」
村人が男の顔を見る。
「なんですか」
「いや?」
「…………」
「早く行かないと昼休み終わるぞ」
「はい」
男は畑を離れた。
少し歩く。
途中で足を止め、自分の服を見る。
土がついていた。
「…………」
手で払う。
もう一度見る。
袖にもついている。
払う。
「何してるんですか?」
「っ!?」
後ろから声を掛けられ、男が振り返った。
童術師の一人が立っている。
「い、いえ」
「服を叩いていましたけど」
「土が」
「畑仕事ですからね」
「そうですね」
「…………」
「…………」
「どこか行くんですか?」
「昼を食べに」
「皆さんなら向こうですよ」
「知っています」
「では」
「別のところです」
「そうですか」
「はい」
男は歩き出す。
数歩進んだところで、後ろから声がした。
「頑張ってください」
足が止まる。
「何をですか」
「知りません」
「…………」
昨日からそればかりだった。
男は振り返らず、そのまま歩いた。
◇
「どうぞ」
「ありがとうございます」
卓の上に、二人分の食事が並んでいた。
黒パン。
春に採れ始めた山菜を使ったスープ。
薄く切った燻製肉。
以前なら、肉が毎日のように卓へ並ぶことはなかったらしい。
「また肉ですね」
男が言うと、女が笑った。
「嫌ですか?」
「いえ。ただ、最近ずっと食べている気がします」
「皆さんのせいですよ」
「俺たちですか」
「狩りに行くたびに持って帰ってくるじゃないですか」
「獲れるので」
「だからです」
「…………」
男は燻製肉を見る。
「保存する棚も増やしました」
「それも皆さんが作りました」
「童師がほとんど作っていましたけど」
「童師様、何でもしますね」
「頼まれると断らないので」
「そうなんですか?」
「昔からです」
答えてから、男は少し考えた。
「……俺が知る限りでは」
「長いんですか? 童師様と一緒にいるの」
「いえ」
男は首を振った。
「俺は、直接教えていただいたわけではありません」
「そうなんですか?」
「はい」
意外だったのか、女が手を止める。
「では、誰に?」
「俺に教えてくださった方がいます。その方も、童師から直接習ったわけではなかったそうです」
「じゃあ……」
「何人かを挟んでいます」
「それでも童師様のところまで繋がってるんですね」
「はい」
男は頷いた。
「第一から第六まで。俺たちが使っているものは、元を辿れば童師と……もう一人の方が作ったものだと聞いています」
「もう一人?」
「リオという方です」
「その人も、この村に?」
「いえ」
男の声が少しだけ低くなった。
「亡くなっています」
「……そうなんですね」
「はい」
女はそれ以上聞かなかった。
二人は食事を続けた。
窓の外では、村人たちが畑へ向かって歩いている。
子供たちの声もする。
何でもない昼だった。
「昨日」
女が言った。
「はい?」
「考えてくれました?」
男の手が止まる。
「……何をでしょうか」
「忘れたんですか?」
「いえ」
「じゃあ、何を考えるか分かりますよね」
「…………はい」
女はスープを一口飲んだ。
「それで?」
「…………」
男はパンを見る。
次にスープを見る。
窓を見る。
「私を見ないんですか?」
「すみません」
「また謝る」
男がようやく女を見る。
女は怒っていなかった。
「俺は」
口を開く。
「ここに来るまで、ずっと移動していました」
「はい」
「一つの場所に長くいることは、ほとんどありませんでした」
童術師だと知られれば、どうなるか分からない。
追われたこともある。
町へ入らず、野営だけで済ませたこともあった。
誰かに親切にされても、深く関わらない方がいいと思っていた。
「だから、次のことを考えるのが普通でした」
「次?」
「次はどこへ行くか。どこなら見つからないか。いつ出ればいいか」
女は黙って聞いている。
「ここへ来た時も同じでした」
「三日だけ」
「はい」
男は少し笑った。
「荷物もまとめました」
「見ました」
「村中が見ていたそうですね」
「はい」
「恥ずかしいですね」
「どうしてですか」
「なんとなくです」
男は一度、息を吐いた。
「でも今は」
言葉が止まる。
昨日も、同じところで止まった。
分からないからではない。
分かっていることを口にするのが怖かった。
「明日の予定があります」
「はい」
「三日後もあります」
「はい」
「来週も」
「はい」
「夏の話までしています」
男は自分の手を見る。
「変なんです」
「何がですか?」
「それを、変だと思わなくなっていました」
女は何も言わない。
「昨日、あなたに言われるまで」
――春になったら、皆さん、出ていくと思ってました。
「俺も、春になれば出ると思っていました」
「今は?」
「…………」
男は顔を上げた。
「出たくないです」
初めて、はっきりと言った。
女の目が僅かに見開かれる。
「ここにいたい」
「…………」
「この村に」
そこまで言ってから、男は続ける。
「あなたのそばに、いたいです」
女は何も言わなかった。
男の顔が少しずつ強張っていく。
「あの」
「はい」
「何か言っていただけると」
「昨日」
「はい」
「私が言った時は、ずっと黙ってましたよね」
「…………」
「だから少しくらい待ってください」
「すみません」
女が笑った。
「また」
「あ」
二人とも笑った。
しばらくして、女が手を伸ばす。
卓の上に置かれていた男の手に、自分の手を重ねた。
「じゃあ」
男の指が僅かに動く。
「いてください」
「…………」
「ここに」
「はい」
「私のそばに」
男は重ねられた手を見る。
それから、女を見る。
「はい」
今度は迷わなかった。
◇
「童師」
夕方。
礼は村の外れで、切り出した木材を確認していた。
「なんだ」
声を掛けてきたのは、昼に畑を抜けていった男だった。
「少し、お時間よろしいでしょうか」
「ああ」
礼は木材から手を離す。
「どうした」
「…………」
男はなかなか話し始めなかった。
「相談か」
「はい」
「言え」
「童師は」
そこで止まる。
「……この村を出るおつもりですか」
礼は男を見る。
「決めてない」
「そうですか」
「ああ」
「皆が、ここに残りたいと言ったら?」
「…………」
礼は少し考えた。
「全員が同じ場所へ行く必要はない」
「え?」
「最初からそうだ」
男は黙って聞く。
「俺についてこいと言った覚えもない」
「ですが、童師は――」
「俺は俺だ。お前はお前だ」
礼は淡々と続ける。
「行きたいところがあるなら行けばいい。ここにいたいなら、それもお前が決めればいい」
「…………」
「どうした」
「いえ」
男は俯いた。
「少し、驚きました」
「何がだ」
「止められるかもしれないと思っていました」
「なぜ」
「俺は童術師です」
「知ってる」
「今まで、皆と一緒に」
「だから?」
男が顔を上げる。
礼は特に表情を変えていなかった。
「お前がここに残ったら、童術が使えなくなるのか」
「いえ」
「なら、何も問題ないだろ」
「…………」
「それとも、ここに残ると決めたら何か困るのか」
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
男は自分の胸元へ手を置いた。
「今まで、こういうことを決めたことがないので」
礼はしばらく男を見る。
「なら考えろ」
「はい」
「急ぐ必要はない」
「…………はい」
「お前の人生だ」
それだけ言って、礼は再び木材へ視線を戻した。
男はその場に立ったままだった。
「まだ何かあるのか」
「あの」
「なんだ」
「童師は……後悔したことはありますか」
礼の手が止まる。
「ある」
短い答えだった。
「選ばなければよかったと思ったことも?」
「ある」
「それでも、自分で決めるんですか」
「他に誰が決める」
「…………」
男は何も言えなかった。
礼が木材を持ち上げる。
「選んだものが正しかったかどうかなんて、後にならないと分からないこともある」
「はい」
「後になっても分からないこともある」
「…………」
「それでも、選ぶ時は来る」
礼は木材を肩へ乗せた。
「その時に、自分で決めろ」
「はい」
「それだけだ」
男は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、童師」
「ああ」
歩き出した男を、礼は追わなかった。
◇
夕食の時間。
いつもの家に、十四人が集まっていた。
鍋の中には、また肉が入っている。
「さすがに多くないですか」
「何がです?」
「肉です」
「今さらでしょう」
「昨日も肉でした」
「一昨日もです」
「その前は?」
「肉です」
「…………」
「贅沢ですね」
「村の方も同じことを言っていました」
そんな会話を聞きながら、礼は食事を取っていた。
向かいに座っている男は、普段より静かだった。
「どうしました?」
隣の童術師が聞く。
「何がですか」
「静かなので」
「いつも通りです」
「そうですか?」
「はい」
「昼もどこかへ行っていましたよね」
「食事です」
「誰と?」
「…………」
「誰とですか?」
「村の方です」
「どなたです?」
「食べないなら、その肉もらいますよ」
「話を変えましたね」
「変えていません」
「変えました」
周囲から笑い声が上がる。
男は黙ってスープを飲んだ。
礼は何も言わなかった。
だが、昼間の相談を思い出していた。
ここに残りたい。
男は、まだそうは言わなかった。
それでも、何を考えているのかは何となく分かった。
「童師」
別の男が声を掛ける。
「明日の朝ですが――」
また予定の話が始まる。
礼はそちらへ顔を向けた。
◇
食事が終わり、夜が深くなった。
一人、また一人と眠りにつく。
例の男も自分の寝床へ横になった。
「…………」
目を閉じる。
眠れなかった。
昼間の言葉が残っている。
――いてください。
――ここに。
――私のそばに。
「…………」
寝返りを打つ。
今度は礼の言葉が浮かぶ。
――お前の人生だ。
男は目を開けた。
暗い天井が見える。
この家で何度見たか分からない天井だった。
冬の間。
雪が降っている夜。
風が強い夜。
ドラゴンを食べた夜。
村人が初めて童力を感じた夜。
春になった夜。
ずっと、ここで眠っていた。
「…………」
男は身体を起こした。
周囲を見る。
皆、眠っている。
静かに立ち上がり、上着を羽織る。
戸を開けた。
春の夜の空気が頬へ触れた。
冬ほど冷たくはない。
男は外へ出る。
村の中央に、古い井戸が見えた。
大木の枝には、昼間よりも少しだけ大きくなった芽がついている。
その向こう。
一軒の家を見る。
「…………」
足を止める。
今なら戻れる。
明日の朝になれば、またいつものように畑へ行く。
狩りへ行く。
童術を教える。
皆と食事をする。
それでもいい。
何も変えなくていい。
男は長く立っていた。
やがて、一歩を踏み出す。
それから、もう一歩。
村の中を歩いていく。
やがて目的の家へ着いた。
窓から、まだ灯りが漏れていた。
「…………」
男は拳を上げる。
戸を叩こうとして、止まる。
礼の言葉が浮かぶ。
――その時に、自分で決めろ。
男は目を閉じた。
ゆっくりと息を吐く。
そして、戸を叩いた。
少しして、足音が聞こえた。
戸が開く。
「……どうしたんですか?」
女が立っていた。
男はすぐには答えられなかった。
「何かあったんですか?」
「いえ」
「じゃあ……」
「会いたくて」
女が黙る。
「…………」
男も黙る。
「それだけですか?」
「…………はい」
「そうですか」
女は少し笑った。
「入りませんか?」
「…………」
男は家の中を見る。
それから女を見る。
「はい」
戸をくぐる。
女が静かに戸を閉めた。
春の夜。
村の中から、一つの灯りが消えた。
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