第百話 失童
【第100話投稿記念!】
いつも『童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―』をお読みいただき、ありがとうございます!
皆様のおかげで、ついに第100話を迎えることができました!
ここまで書き続けられたのも、作品を読んでくださる皆様のおかげです。本当にありがとうございます。
物語はまだまだ続いていきます。
主人公・如月礼がこれからどのような道を歩み、何を成し遂げていくのか、引き続き見守っていただければ嬉しいです!
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!
目を覚ました時、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
「…………」
男はしばらく動かなかった。
窓から差し込む朝の光が、薄暗い部屋の中へ伸びている。
鳥の声が聞こえた。
遠くでは、もう誰かが家畜小屋を開けているらしい。木戸の軋む音に続いて、牛の低い鳴き声が響いた。
いつもの村の朝だった。
ただ一つ。
自分が、いつもの寝床にいないことを除けば。
「…………」
隣を見る。
女が眠っていた。
男はすぐに目を逸らした。
昨夜のことを思い出した途端、顔が熱くなる。
後悔はなかった。
それだけは、不思議なくらいはっきりしていた。
怖くなかったわけではない。
何度も迷った。
何度も確かめた。
それでも最後には、二人で選んだ。
男は音を立てないよう、ゆっくりと身体を起こした。
「……もう行くんですか」
後ろから声がした。
振り返る。
女が目を開けていた。
「起こしましたか」
「少し前から起きてました」
「…………」
「何も言わずに帰るつもりだったんですか?」
「いえ、その……」
言葉に詰まる。
女が少し笑った。
「冗談です」
「…………」
「本当に、こういう時に何を言えばいいか分からないんですね」
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
男も僅かに笑った。
昨日までとは何かが違う。
けれど、何が変わったのかを上手く言葉にはできなかった。
「今日も畑ですか?」
「午前中は」
「午後は?」
「童術の練習を見ることになっています」
「忙しいですね」
「そうですね」
「明日は?」
「狩りです」
「明後日は?」
「柵の修理を――」
そこまで答えて、男は笑った。
「なんですか?」
「いえ」
「教えてください」
「昨日までと、何も変わらないなと思って」
女は男を見る。
「変わってほしかったですか?」
「…………」
少し考える。
「いいえ」
男は首を振った。
「これでいいです」
「そうですか」
「はい」
立ち上がる。
戸へ向かい、そこで振り返った。
「また来てもいいですか」
「…………」
女は少し呆れたような顔をした。
「来てくれないんですか?」
「いえ」
男はすぐに答えた。
「来ます」
「じゃあ、聞かなくてもいいじゃないですか」
「……そうですね」
「はい」
女が笑う。
「いってらっしゃい」
男は、一瞬だけ動きを止めた。
それから。
「……行ってきます」
戸を開けた。
◇
「遅かったですね」
十四人が使っている家へ戻った瞬間、そう言われた。
「すみません」
「朝食、残っていますよ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
誰も、昨夜どこにいたのかとは聞かなかった。
男は少し拍子抜けしながら、自分の場所へ向かう。
礼もいた。
卓の前で、今日の予定を確認している。
「童師」
「なんだ」
「おはようございます」
「ああ」
礼は顔を上げる。
「遅かったな」
「……はい」
「飯を食ったら畑だろ」
「はい」
「なら食え」
「…………はい」
男は座った。
残されていたパンとスープを口へ運ぶ。
昨日までと同じ味だった。
周囲では、いつもの会話が続いている。
「今日は南側でしたよね」
「午前だけです」
「午後は三人の練習を」
「分かっています」
「狩りは明日でしたか?」
「はい。天気が崩れなければ」
何も変わっていない。
男は、ほんの少し安心した。
食事を終え、皆と一緒に家を出た。
◇
異変に気づいたのは、畑へ向かう途中だった。
きっかけは、本当に些細なものだった。
道の端に、水溜まりがある。
雪解けの水が溜まり、泥になっている。
いつもなら避ける。
だが今日は、なんとなく飛び越えようと思った。
男は足へ意識を向ける。
第一童式《童駆》。
何百回と繰り返してきた動作だった。
呼吸を整える。
身体の内側へ意識を向ける。
童力を脚へ――
「…………?」
男の足が止まった。
「どうしました?」
前を歩いていた童術師が振り返る。
「いえ」
もう一度。
身体の内側へ意識を向ける。
「…………」
何もない。
「どうしました?」
「少し待ってください」
男は目を閉じた。
呼吸が浅かったのかもしれない。
昨夜、よく眠れなかったからかもしれない。
集中できていないだけかもしれない。
ゆっくり息を吸う。
吐く。
もう一度。
何もない。
「…………」
男の表情から、少しずつ色が消えていった。
「おい?」
「待ってください」
三度目。
四度目。
何度やっても同じだった。
そこにあるはずのものがない。
今まで意識すれば、必ず感じることができたもの。
最初は微かな熱だった。
やがて流れを覚えた。
身体の中を巡らせる方法を覚えた。
脚へ集めた。
腕へ集めた。
全身へ巡らせた。
何度も失敗した。
何度も練習した。
それが今は――
「……ない」
「何がです?」
「童力が」
周囲が静かになった。
「感じないんです」
「…………」
「全然」
男は自分の手を見る。
「何も……」
声が震え始めていた。
◇
畑へ行く予定はなくなった。
男は家へ戻され、何人かの童術師が付き添った。
知らせを聞いた礼も、すぐに戻ってきた。
「やってみろ」
「はい」
男は椅子に座ったまま目を閉じる。
深く呼吸する。
何も起こらない。
「もう一度」
「はい」
同じだった。
礼は男の前へしゃがみ込んだ。
「いつからだ」
「分かりません」
「昨日は」
「使えました」
「最後に使ったのは?」
「昨日の午前中です。畑で《童衣》を」
「その後は」
「使っていません」
「身体に異常は」
「ありません」
「怪我は」
「していません」
「熱は」
「ないと思います」
礼は男の腕を取った。
脈を確かめる。
顔色を見る。
童力の気配を探る。
「…………」
ない。
弱くなっているのではない。
扱えなくなっているだけでもない。
礼が知る限り、昨日まで確かにこの男の中にあったものが、今は感じられなかった。
「童師」
「なんだ」
「俺……何か、おかしいんでしょうか」
「まだ分からない」
「病気とか」
「その可能性も考える」
「治りますか」
礼は答えなかった。
分からないことを、分かるとは言えなかった。
「昨日、何か普段と違うことをしたか」
「…………」
男が黙る。
周囲にいた童術師たちも、男を見る。
礼は待った。
「……昨日」
「ああ」
「昼に、あの人と話しました」
「知ってる」
「夜も」
「…………」
男の声が小さくなる。
「会いに行きました」
礼は何も言わない。
「それで……」
そこで言葉が止まった。
礼は、しばらく男を見ていた。
やがて。
「そうか」
それだけ答えた。
「童師」
「ああ」
「俺……」
男が自分の手を見る。
「童貞じゃ、なくなりました」
部屋が静まり返った。
誰も笑わなかった。
礼も。
周囲の童術師たちも。
その言葉が何を意味しているのか、ここにいる者たちは知っていた。
これまで童力を感じた者。
童術を使えるようになった者。
確認できている限り、その全員に一つの共通点があった。
童貞であること。
だが、それは共通点でしかなかった。
童貞でなくなった時に、何が起きるのか。
誰も知らなかった。
今まで、確かめた者がいなかったからだ。
「…………」
礼は男へ手を伸ばした。
もう一度、童力を探る。
やはりない。
「童師」
別の男が口を開く。
「まさか……」
「まだ決めつけるな」
「ですが」
「一例だけだ」
礼は静かに言った。
「分かったのは、こいつが昨日まで童力を持っていたこと。そして今は感じられないことだけだ」
「…………」
「原因まで断定するには足りない」
それは事実だった。
だが、礼自身も考えていた。
偶然なのか。
それとも。
「俺のせいですか」
男が言った。
礼が顔を上げる。
「何が」
「俺が……」
男の手が震えていた。
「俺が、童貞を失ったから」
「分からない」
「でも」
「分からないものは分からない」
礼ははっきり言った。
「今、勝手に答えを決めるな」
「…………はい」
男は俯いた。
◇
その日は、何度試しても童力を感じることはできなかった。
昼になっても。
夕方になっても。
男は何度も身体の内側へ意識を向けた。
何もない。
第一童式《童駆》。
使えない。
第二童式《童撃》。
使えない。
第三童式《童衣》。
使えない。
どれだけ集中しても、始まりになる童力そのものがなかった。
男は家の外に座っていた。
少し離れたところで、村人たちが畑を耕している。
その中に、村で童術を覚え始めた男がいた。
石を運ぶため、《童衣》の練習をしている。
「…………」
昨日まで、自分が教えていた。
明日も教えるつもりだった。
来週も。
夏も。
そのつもりだった。
「隣、いいか」
礼だった。
「童師」
「座るぞ」
「はい」
礼が隣へ腰を下ろす。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
畑から鍬の音が聞こえる。
「童師」
「なんだ」
「俺は……もう、童術師じゃないんでしょうか」
礼はすぐには答えなかった。
「童力が戻らないなら」
「…………」
「童術は使えない」
「はい」
「なら、少なくとも今までと同じではない」
「…………はい」
男は膝の上で手を握った。
「怖いか」
「はい」
迷わず答えた。
「怖いです」
「そうか」
「俺には、これしかありませんでした」
礼は男を見る。
「童術が使えるようになって、初めて自分にもできることがあると思えました」
「…………」
「誰かを助けられた」
「…………」
「皆と一緒に戦えた」
男の声が震える。
「ここに来てからも、村の人の役に立てた」
「…………」
「それが、全部なくなったら」
言葉が止まる。
礼は急かさなかった。
「俺は……」
男は俯いたまま続けた。
「何なんでしょうか」
「…………」
「童術が使えない俺は、何なんでしょう」
礼は畑を見る。
片腕で鍬を担いで歩いている男がいた。
ガルドだった。
少し離れたところでは、童術を使えない村人たちが働いている。
老人もいる。
子供もいる。
「お前はお前だろ」
男が顔を上げた。
「……え?」
「童術が使えた時と、何が違う」
「何がって……」
「力がなくなった」
「はい」
「それだけだ」
「それだけって……」
「大きいことだとは思う」
礼は男を見る。
「お前にとって大事なものだったことも分かる」
「…………」
「だから、悲しむなとは言わない」
男の目が揺れる。
「怖がるなとも言わない」
「…………」
「でも」
礼は続ける。
「それがなくなったら、お前までいなくなるのか?」
「…………」
男は答えられなかった。
◇
夕方。
男は一人で、古い井戸の傍らに立っていた。
何度目か分からない。
もう一度、童力を探る。
「…………」
ない。
目を開ける。
分かっていた。
それでも試してしまう。
「ここにいたのか」
振り返る。
礼だった。
「童師」
「飯だぞ」
「……はい」
男は動かなかった。
礼も戻ろうとはしなかった。
「童師」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
「ああ」
男は長い間、言葉を探していた。
やがて。
「俺は……ここにいていいんでしょうか」
礼の眉が僅かに動いた。
「どうして?」
「…………」
「なぜ、そんなことを聞く」
「俺は」
男は自分の手を見る。
「もう、童術師じゃありません」
「…………」
「皆と同じことはできない」
「…………」
「一緒に戦うこともできない」
「…………」
「教えることも」
「待て」
男が口を閉じる。
「教えることはできる」
「え?」
「童力がなくなったから、第一の使い方まで忘れたのか?」
「……いいえ」
「第二は」
「覚えています」
「第三は」
「……覚えています」
「なら教えられる」
「でも、俺自身は」
「使えないな」
「はい」
「だから何だ」
男が礼を見る。
「…………え?」
「お前が童術を使えないことと、ここにいていいかどうかに何の関係がある」
「でも、俺は皆と――」
「ガルドは童術を使えない」
「…………」
「村長も使えない」
「はい」
「この村のほとんどが使えない」
「…………」
「だから出ていけと言った奴がいるのか?」
「いません」
「なら同じだ」
「でも俺は、童術師としてここへ来ました」
「そうだな」
「それなのに」
「それなのに?」
男は何も言えない。
礼は静かに待った。
「……分からないんです」
「何が」
「俺が、どこにいればいいのか」
礼は男を見る。
「昨日は分かってただろ」
「…………」
「ここにいたいって言ってたじゃないか」
男の目が見開かれる。
「覚えて……」
「俺に相談しただろ」
「…………」
「一日で変わったのか」
「いえ」
「なら聞く」
礼は男の目を見る。
「お前は、ここにいたいのか」
「…………」
男の唇が僅かに震える。
「はい」
「なら、いればいい」
「…………」
「それだけだ」
男は俯いた。
しばらく、何も言わなかった。
「……いいんでしょうか」
「ああ」
「本当に」
「何度聞くんだ」
「すみません」
「謝るな」
「……はい」
声が掠れていた。
礼は何も言わず、隣に立っていた。
やがて男が顔を上げる。
「童師」
「なんだ」
「あの人のことも」
言葉が止まる。
「昨日のことを……後悔しているわけじゃないんです」
「ああ」
「童力がなくなって、怖くて」
「ああ」
「でも」
男は村の一軒の家を見る。
「昨日のことを、なかったことにしたいとは思いません」
「…………」
「あの人と、いたいです」
礼は男の横顔を見る。
「そうか」
「はい」
「なら」
礼はそれだけ言って、歩き出しかけた。
だが、一歩目で止まった。
「……幸せになれ」
男が顔を上げた。
礼はもう、村の方を向いていた。
「童師」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「ああ」
短く答えた。
◇
男が家の前まで来ると、戸の傍らに女が立っていた。
待っていたらしい。
「…………」
「…………」
二人とも、すぐには話さなかった。
女が先に口を開いた。
「聞きました」
「……はい」
「童術が」
「使えなくなりました」
「…………」
「童力そのものを感じません」
女の表情が曇る。
「私のせいですか」
「違います」
男はすぐに答えた。
「でも」
「違います」
もう一度。
今度は、はっきりと言った。
「あなたのせいじゃない」
「…………」
「まだ、本当にそれが原因なのかも分かっていません」
「でも、もしそうだったら?」
男は黙った。
朝から、何度も考えた。
もし昨日へ戻れたなら。
戸を叩く前へ。
彼女の家へ入る前へ。
選び直せるなら。
「…………」
男は女を見る。
「それでも」
ゆっくりと言った。
「あなたのせいにはしません」
「…………」
「俺が来たんです」
「…………」
「俺が、ここにいたいと思った」
「…………」
「俺が、あなたといたいと思った」
女の目に涙が浮かんだ。
「だから」
男は一度、息を吸った。
「昨日のことを、間違いだったことにはしたくないです」
女が俯く。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも」
「俺も怖いです」
正直に言った。
「まだ、すごく怖いです」
「…………」
「明日になったら戻ってるんじゃないかって、今も少し思ってます」
苦笑する。
「戻らなかったら、どうすればいいのかも分かりません」
「…………」
「でも」
男は手を伸ばした。
女の手を握る。
「ここには、いたいです」
女が顔を上げる。
「ここにいてもいいって、童師が言ってくださいました」
「……はい」
「だから」
男は少しだけ笑った。
「明日も、ここにいます」
女の涙が一つ、頬を伝った。
「明後日は?」
「います」
「来週は?」
「います」
「夏は?」
男は答える前に、少しだけ笑った。
昨日までなら、分からないと答えていた。
「います」
「…………」
「あなたが、いてほしいと言ってくれるなら」
女は男の手を握り返した。
「言います」
「はい」
「何度でも言います」
「……はい」
村の中央から、夕食を知らせる声が聞こえてきた。
男がそちらを見る。
「あ」
「ご飯ですか?」
「はい」
「行かないと」
「そうですね」
それでも、二人はすぐには手を離さなかった。
「明日」
女が言った。
「はい」
「お昼、また一緒に食べませんか」
「…………」
男は笑った。
「はい」
昨日と同じ約束だった。
童力はなくなった。
昨日まで使えた術も、今は一つも使えない。
それでも。
明日の約束は、残っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです!
皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




