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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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101/108

第百話 失童

【第100話投稿記念!】


いつも『童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―』をお読みいただき、ありがとうございます!

皆様のおかげで、ついに第100話を迎えることができました!

ここまで書き続けられたのも、作品を読んでくださる皆様のおかげです。本当にありがとうございます。

物語はまだまだ続いていきます。

主人公・如月礼がこれからどのような道を歩み、何を成し遂げていくのか、引き続き見守っていただければ嬉しいです!

これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!


 目を覚ました時、最初に見えたのは見慣れない天井だった。


「…………」


 男はしばらく動かなかった。


 窓から差し込む朝の光が、薄暗い部屋の中へ伸びている。


 鳥の声が聞こえた。


 遠くでは、もう誰かが家畜小屋を開けているらしい。木戸の軋む音に続いて、牛の低い鳴き声が響いた。


 いつもの村の朝だった。


 ただ一つ。


 自分が、いつもの寝床にいないことを除けば。


「…………」


 隣を見る。


 女が眠っていた。


 男はすぐに目を逸らした。


 昨夜のことを思い出した途端、顔が熱くなる。


 後悔はなかった。


 それだけは、不思議なくらいはっきりしていた。


 怖くなかったわけではない。


 何度も迷った。


 何度も確かめた。


 それでも最後には、二人で選んだ。


 男は音を立てないよう、ゆっくりと身体を起こした。


「……もう行くんですか」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 女が目を開けていた。


「起こしましたか」


「少し前から起きてました」


「…………」


「何も言わずに帰るつもりだったんですか?」


「いえ、その……」


 言葉に詰まる。


 女が少し笑った。


「冗談です」


「…………」


「本当に、こういう時に何を言えばいいか分からないんですね」


「すみません」


「謝らないでください」


「はい」


 男も僅かに笑った。


 昨日までとは何かが違う。


 けれど、何が変わったのかを上手く言葉にはできなかった。


「今日も畑ですか?」


「午前中は」


「午後は?」


「童術の練習を見ることになっています」


「忙しいですね」


「そうですね」


「明日は?」


「狩りです」


「明後日は?」


「柵の修理を――」


 そこまで答えて、男は笑った。


「なんですか?」


「いえ」


「教えてください」


「昨日までと、何も変わらないなと思って」


 女は男を見る。


「変わってほしかったですか?」


「…………」


 少し考える。


「いいえ」


 男は首を振った。


「これでいいです」


「そうですか」


「はい」


 立ち上がる。


 戸へ向かい、そこで振り返った。


「また来てもいいですか」


「…………」


 女は少し呆れたような顔をした。


「来てくれないんですか?」


「いえ」


 男はすぐに答えた。


「来ます」


「じゃあ、聞かなくてもいいじゃないですか」


「……そうですね」


「はい」


 女が笑う。


「いってらっしゃい」


 男は、一瞬だけ動きを止めた。


 それから。


「……行ってきます」


 戸を開けた。



     ◇



「遅かったですね」


 十四人が使っている家へ戻った瞬間、そう言われた。


「すみません」


「朝食、残っていますよ」


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 誰も、昨夜どこにいたのかとは聞かなかった。


 男は少し拍子抜けしながら、自分の場所へ向かう。


 礼もいた。


 卓の前で、今日の予定を確認している。


「童師」


「なんだ」


「おはようございます」


「ああ」


 礼は顔を上げる。


「遅かったな」


「……はい」


「飯を食ったら畑だろ」


「はい」


「なら食え」


「…………はい」


 男は座った。


 残されていたパンとスープを口へ運ぶ。


 昨日までと同じ味だった。


 周囲では、いつもの会話が続いている。


「今日は南側でしたよね」


「午前だけです」


「午後は三人の練習を」


「分かっています」


「狩りは明日でしたか?」


「はい。天気が崩れなければ」


 何も変わっていない。


 男は、ほんの少し安心した。


 食事を終え、皆と一緒に家を出た。



     ◇



 異変に気づいたのは、畑へ向かう途中だった。


 きっかけは、本当に些細なものだった。


 道の端に、水溜まりがある。


 雪解けの水が溜まり、泥になっている。


 いつもなら避ける。


 だが今日は、なんとなく飛び越えようと思った。


 男は足へ意識を向ける。


 第一童式《童駆》。


 何百回と繰り返してきた動作だった。


 呼吸を整える。


 身体の内側へ意識を向ける。


 童力を脚へ――


「…………?」


 男の足が止まった。


「どうしました?」


 前を歩いていた童術師が振り返る。


「いえ」


 もう一度。


 身体の内側へ意識を向ける。


「…………」


 何もない。


「どうしました?」


「少し待ってください」


 男は目を閉じた。


 呼吸が浅かったのかもしれない。


 昨夜、よく眠れなかったからかもしれない。


 集中できていないだけかもしれない。


 ゆっくり息を吸う。


 吐く。


 もう一度。


 何もない。


「…………」


 男の表情から、少しずつ色が消えていった。


「おい?」


「待ってください」


 三度目。


 四度目。


 何度やっても同じだった。


 そこにあるはずのものがない。


 今まで意識すれば、必ず感じることができたもの。


 最初は微かな熱だった。


 やがて流れを覚えた。


 身体の中を巡らせる方法を覚えた。


 脚へ集めた。


 腕へ集めた。


 全身へ巡らせた。


 何度も失敗した。


 何度も練習した。


 それが今は――


「……ない」


「何がです?」


「童力が」


 周囲が静かになった。


「感じないんです」


「…………」


「全然」


 男は自分の手を見る。


「何も……」


 声が震え始めていた。



     ◇



 畑へ行く予定はなくなった。


 男は家へ戻され、何人かの童術師が付き添った。


 知らせを聞いた礼も、すぐに戻ってきた。


「やってみろ」


「はい」


 男は椅子に座ったまま目を閉じる。


 深く呼吸する。


 何も起こらない。


「もう一度」


「はい」


 同じだった。


 礼は男の前へしゃがみ込んだ。


「いつからだ」


「分かりません」


「昨日は」


「使えました」


「最後に使ったのは?」


「昨日の午前中です。畑で《童衣》を」


「その後は」


「使っていません」


「身体に異常は」


「ありません」


「怪我は」


「していません」


「熱は」


「ないと思います」


 礼は男の腕を取った。


 脈を確かめる。


 顔色を見る。


 童力の気配を探る。


「…………」


 ない。


 弱くなっているのではない。


 扱えなくなっているだけでもない。


 礼が知る限り、昨日まで確かにこの男の中にあったものが、今は感じられなかった。


「童師」


「なんだ」


「俺……何か、おかしいんでしょうか」


「まだ分からない」


「病気とか」


「その可能性も考える」


「治りますか」


 礼は答えなかった。


 分からないことを、分かるとは言えなかった。


「昨日、何か普段と違うことをしたか」


「…………」


 男が黙る。


 周囲にいた童術師たちも、男を見る。


 礼は待った。


「……昨日」


「ああ」


「昼に、あの人と話しました」


「知ってる」


「夜も」


「…………」


 男の声が小さくなる。


「会いに行きました」


 礼は何も言わない。


「それで……」


 そこで言葉が止まった。


 礼は、しばらく男を見ていた。


 やがて。


「そうか」


 それだけ答えた。


「童師」


「ああ」


「俺……」


 男が自分の手を見る。


「童貞じゃ、なくなりました」


 部屋が静まり返った。


 誰も笑わなかった。


 礼も。


 周囲の童術師たちも。


 その言葉が何を意味しているのか、ここにいる者たちは知っていた。


 これまで童力を感じた者。


 童術を使えるようになった者。


 確認できている限り、その全員に一つの共通点があった。


 童貞であること。


 だが、それは共通点でしかなかった。


 童貞でなくなった時に、何が起きるのか。


 誰も知らなかった。


 今まで、確かめた者がいなかったからだ。


「…………」


 礼は男へ手を伸ばした。


 もう一度、童力を探る。


 やはりない。


「童師」


 別の男が口を開く。


「まさか……」


「まだ決めつけるな」


「ですが」


「一例だけだ」


 礼は静かに言った。


「分かったのは、こいつが昨日まで童力を持っていたこと。そして今は感じられないことだけだ」


「…………」


「原因まで断定するには足りない」


 それは事実だった。


 だが、礼自身も考えていた。


 偶然なのか。


 それとも。


「俺のせいですか」


 男が言った。


 礼が顔を上げる。


「何が」


「俺が……」


 男の手が震えていた。


「俺が、童貞を失ったから」


「分からない」


「でも」


「分からないものは分からない」


 礼ははっきり言った。


「今、勝手に答えを決めるな」


「…………はい」


 男は俯いた。



     ◇



 その日は、何度試しても童力を感じることはできなかった。


 昼になっても。


 夕方になっても。


 男は何度も身体の内側へ意識を向けた。


 何もない。


 第一童式《童駆》。


 使えない。


 第二童式《童撃》。


 使えない。


 第三童式《童衣》。


 使えない。


 どれだけ集中しても、始まりになる童力そのものがなかった。


 男は家の外に座っていた。


 少し離れたところで、村人たちが畑を耕している。


 その中に、村で童術を覚え始めた男がいた。


 石を運ぶため、《童衣》の練習をしている。


「…………」


 昨日まで、自分が教えていた。


 明日も教えるつもりだった。


 来週も。


 夏も。


 そのつもりだった。


「隣、いいか」


 礼だった。


「童師」


「座るぞ」


「はい」


 礼が隣へ腰を下ろす。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 畑から鍬の音が聞こえる。


「童師」


「なんだ」


「俺は……もう、童術師じゃないんでしょうか」


 礼はすぐには答えなかった。


「童力が戻らないなら」


「…………」


「童術は使えない」


「はい」


「なら、少なくとも今までと同じではない」


「…………はい」


 男は膝の上で手を握った。


「怖いか」


「はい」


 迷わず答えた。


「怖いです」


「そうか」


「俺には、これしかありませんでした」


 礼は男を見る。


「童術が使えるようになって、初めて自分にもできることがあると思えました」


「…………」


「誰かを助けられた」


「…………」


「皆と一緒に戦えた」


 男の声が震える。


「ここに来てからも、村の人の役に立てた」


「…………」


「それが、全部なくなったら」


 言葉が止まる。


 礼は急かさなかった。


「俺は……」


 男は俯いたまま続けた。


「何なんでしょうか」


「…………」


「童術が使えない俺は、何なんでしょう」


 礼は畑を見る。


 片腕で鍬を担いで歩いている男がいた。


 ガルドだった。


 少し離れたところでは、童術を使えない村人たちが働いている。


 老人もいる。


 子供もいる。


「お前はお前だろ」


 男が顔を上げた。


「……え?」


「童術が使えた時と、何が違う」


「何がって……」


「力がなくなった」


「はい」


「それだけだ」


「それだけって……」


「大きいことだとは思う」


 礼は男を見る。


「お前にとって大事なものだったことも分かる」


「…………」


「だから、悲しむなとは言わない」


 男の目が揺れる。


「怖がるなとも言わない」


「…………」


「でも」


 礼は続ける。


「それがなくなったら、お前までいなくなるのか?」


「…………」


 男は答えられなかった。



     ◇



 夕方。


 男は一人で、古い井戸の傍らに立っていた。


 何度目か分からない。


 もう一度、童力を探る。


「…………」


 ない。


 目を開ける。


 分かっていた。


 それでも試してしまう。


「ここにいたのか」


 振り返る。


 礼だった。


「童師」


「飯だぞ」


「……はい」


 男は動かなかった。


 礼も戻ろうとはしなかった。


「童師」


「なんだ」


「一つ、聞いてもいいでしょうか」


「ああ」


 男は長い間、言葉を探していた。


 やがて。


「俺は……ここにいていいんでしょうか」


 礼の眉が僅かに動いた。


「どうして?」


「…………」


「なぜ、そんなことを聞く」


「俺は」


 男は自分の手を見る。


「もう、童術師じゃありません」


「…………」


「皆と同じことはできない」


「…………」


「一緒に戦うこともできない」


「…………」


「教えることも」


「待て」


 男が口を閉じる。


「教えることはできる」


「え?」


「童力がなくなったから、第一の使い方まで忘れたのか?」


「……いいえ」


「第二は」


「覚えています」


「第三は」


「……覚えています」


「なら教えられる」


「でも、俺自身は」


「使えないな」


「はい」


「だから何だ」


 男が礼を見る。


「…………え?」


「お前が童術を使えないことと、ここにいていいかどうかに何の関係がある」


「でも、俺は皆と――」


「ガルドは童術を使えない」


「…………」


「村長も使えない」


「はい」


「この村のほとんどが使えない」


「…………」


「だから出ていけと言った奴がいるのか?」


「いません」


「なら同じだ」


「でも俺は、童術師としてここへ来ました」


「そうだな」


「それなのに」


「それなのに?」


 男は何も言えない。


 礼は静かに待った。


「……分からないんです」


「何が」


「俺が、どこにいればいいのか」


 礼は男を見る。


「昨日は分かってただろ」


「…………」


「ここにいたいって言ってたじゃないか」


 男の目が見開かれる。


「覚えて……」


「俺に相談しただろ」


「…………」


「一日で変わったのか」


「いえ」


「なら聞く」


 礼は男の目を見る。


「お前は、ここにいたいのか」


「…………」


 男の唇が僅かに震える。


「はい」


「なら、いればいい」


「…………」


「それだけだ」


 男は俯いた。


 しばらく、何も言わなかった。


「……いいんでしょうか」


「ああ」


「本当に」


「何度聞くんだ」


「すみません」


「謝るな」


「……はい」


 声が掠れていた。


 礼は何も言わず、隣に立っていた。


 やがて男が顔を上げる。


「童師」


「なんだ」


「あの人のことも」


 言葉が止まる。


「昨日のことを……後悔しているわけじゃないんです」


「ああ」


「童力がなくなって、怖くて」


「ああ」


「でも」


 男は村の一軒の家を見る。


「昨日のことを、なかったことにしたいとは思いません」


「…………」


「あの人と、いたいです」


 礼は男の横顔を見る。


「そうか」


「はい」


「なら」


 礼はそれだけ言って、歩き出しかけた。


 だが、一歩目で止まった。


「……幸せになれ」


 男が顔を上げた。


 礼はもう、村の方を向いていた。


「童師」


「なんだ」


「ありがとうございます」


「ああ」


 短く答えた。



     ◇



 男が家の前まで来ると、戸の傍らに女が立っていた。


 待っていたらしい。


「…………」


「…………」


 二人とも、すぐには話さなかった。


 女が先に口を開いた。


「聞きました」


「……はい」


「童術が」


「使えなくなりました」


「…………」


「童力そのものを感じません」


 女の表情が曇る。


「私のせいですか」


「違います」


 男はすぐに答えた。


「でも」


「違います」


 もう一度。


 今度は、はっきりと言った。


「あなたのせいじゃない」


「…………」


「まだ、本当にそれが原因なのかも分かっていません」


「でも、もしそうだったら?」


 男は黙った。


 朝から、何度も考えた。


 もし昨日へ戻れたなら。


 戸を叩く前へ。


 彼女の家へ入る前へ。


 選び直せるなら。


「…………」


 男は女を見る。


「それでも」


 ゆっくりと言った。


「あなたのせいにはしません」


「…………」


「俺が来たんです」


「…………」


「俺が、ここにいたいと思った」


「…………」


「俺が、あなたといたいと思った」


 女の目に涙が浮かんだ。


「だから」


 男は一度、息を吸った。


「昨日のことを、間違いだったことにはしたくないです」


 女が俯く。


「……ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも」


「俺も怖いです」


 正直に言った。


「まだ、すごく怖いです」


「…………」


「明日になったら戻ってるんじゃないかって、今も少し思ってます」


 苦笑する。


「戻らなかったら、どうすればいいのかも分かりません」


「…………」


「でも」


 男は手を伸ばした。


 女の手を握る。


「ここには、いたいです」


 女が顔を上げる。


「ここにいてもいいって、童師が言ってくださいました」


「……はい」


「だから」


 男は少しだけ笑った。


「明日も、ここにいます」


 女の涙が一つ、頬を伝った。


「明後日は?」


「います」


「来週は?」


「います」


「夏は?」


 男は答える前に、少しだけ笑った。


 昨日までなら、分からないと答えていた。


「います」


「…………」


「あなたが、いてほしいと言ってくれるなら」


 女は男の手を握り返した。


「言います」


「はい」


「何度でも言います」


「……はい」


 村の中央から、夕食を知らせる声が聞こえてきた。


 男がそちらを見る。


「あ」


「ご飯ですか?」


「はい」


「行かないと」


「そうですね」


 それでも、二人はすぐには手を離さなかった。


「明日」


 女が言った。


「はい」


「お昼、また一緒に食べませんか」


「…………」


 男は笑った。


「はい」


 昨日と同じ約束だった。


 童力はなくなった。


 昨日まで使えた術も、今は一つも使えない。


 それでも。


 明日の約束は、残っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです!

皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。

これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!

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