第百一話 十三人
童術師は、一人減った。
十四人でこの村へ来た。
十四人で同じ家に寝泊まりし、十四人で食事をし、村から頼まれた仕事を分け合ってきた。
そのうちの一人が、童力を失った。
翌朝になっても、それは戻らなかった。
何度身体の内側へ意識を向けても、昨日までそこにあったはずのものを感じることはできない。
第一童式《童駆》も。
第二童式《童撃》も。
第三童式《童衣》も。
それより先も。
童力がなければ、何一つ使うことはできなかった。
だから、童術師は十三人になった。
それでも。
「童師、今日の畑ですが、昨日と同じ人数でよろしいでしょうか」
「ああ」
朝は、いつもと同じように始まった。
◇
十四人で使ってきた家の中で、礼は今日の予定を確認していた。
卓の上には、村から頼まれている仕事を書いた紙が置かれている。
「狩りは?」
「二人です。村の狩人が三人同行します」
「どこまで行く」
「東の森です。夕方までには戻れるかと」
「無理に深く入るな」
「はい」
「畑は」
「三人です」
「石を運ぶなら《童衣》を使える奴を一人入れろ」
「分かりました」
「村の三人の練習は?」
「午前は俺が――」
答えかけた童術師の横から、声がした。
「俺が見ます」
皆がそちらを見る。
童力を失った男が立っていた。
昨日までと同じ服。
昨日までと同じ顔。
ただ、その身体からはもう童力を感じない。
「…………」
礼は男を見る。
「できるのか」
「はい」
「使えないぞ」
「分かっています」
「実演もできない」
「はい」
男は少しだけ間を置いた。
「ですが、やり方は覚えています」
礼は何も言わない。
「最初に何を意識するのかも、どこで失敗しやすいのかも分かります。俺が教わったことも、俺が今まで教えてきたことも……忘れたわけではありません」
「…………」
「できると思います」
礼は男を見たまま、しばらく考えた。
「分かった」
「ありがとうございます」
「午前は任せる」
「はい」
「午後は畑へ行け」
「……畑ですか」
「ああ」
「分かりました」
「何だ」
「いえ」
男は少し笑った。
「昨日までと同じだなと思いまして」
「嫌か」
「いいえ」
「なら働け」
「はい」
周囲から小さな笑い声が上がる。
「童師」
「なんだ」
「俺たちは?」
「お前たちも働け」
「はい」
今日の予定が決まっていく。
狩り。
畑。
柵の修理。
童術の練習。
十三人の童術師と、一人の元童術師。
昨日まで十四人で分けていた仕事を、今日も同じように分けた。
◇
「違う」
「え?」
「一気に脚へ集めすぎだ」
古い井戸の近く。
村で童術を覚え始めた三人が並び、その前に男が立っていた。
「でも、前はもっと集めろって言われたぞ」
「足りなかった時の話だろ」
「同じじゃないのか?」
「違う。少ない時は集める。多すぎる時は抑える」
「難しいな……」
「俺も最初はそうだった」
「どうやって覚えた?」
「何度も転んだ」
「…………」
「本当に何度もだ」
男が苦笑する。
「だから、まずは走ることより、一定の量を脚に留めることを意識してみろ」
「こうか?」
「もう少しゆっくり」
若い村人が目を閉じる。
微かな童力が脚へ集まっていく。
「そう。それくらいだ」
「これで《童駆》になるのか?」
「まだ走るな」
「なんでだよ」
「お前、昨日柵に突っ込んだだろ」
「止まれなかっただけだ」
「だから走るなと言ってる」
近くで見ていた別の村人が笑った。
「先生みたいだな」
「やめてください」
「なんでだ?」
「俺はもう童術師じゃありません」
口にしてから、男は少しだけ黙った。
昨日なら、その言葉だけで胸の奥が冷たくなっていた。
今も何も感じないわけではない。
だが。
「じゃあ何だ?」
村人が聞いた。
「……何がです?」
「童術師じゃないなら、今のお前は何なんだ」
「…………」
男は答えられなかった。
「俺たちに教えてるだろ」
「それは」
「だったら先生でいいじゃねえか」
「よくありません」
「なんでだよ」
「恥ずかしいので」
「そこかよ」
笑い声が上がる。
男もつられて笑った。
「ほら。もう一度やりますよ」
「ああ」
「今度はさっきより少しだけ脚へ」
「こうか?」
「そうです」
「お前はやらないのか?」
別の男が何気なく聞いた。
一瞬、空気が止まった。
「あ……」
聞いた本人が気づく。
「悪い」
「いえ」
男は首を振った。
「俺は、もうできません」
「…………」
「でも」
目の前の若者の脚を見る。
童力の流れそのものを感じ取ることは、もうできない。
それでも姿勢は見える。
呼吸も。
力を入れる瞬間も。
自分が何度も繰り返してきた動作だった。
「もう少し膝の力を抜け」
「こう?」
「そう」
「これでいいのか」
「多分」
「多分かよ」
「童力そのものは、もう見られませんから」
「…………」
「だから、感じ方は自分で覚えてください」
若者はしばらく男を見ていた。
やがて頷く。
「分かった」
再び目を閉じる。
男はその姿を見守った。
自分では、もう使えない。
それでも、教えたことは伝わっていった。
◇
午後。
「せーの!」
二人の男が大きな石を持ち上げた。
「重っ……!」
「そっち下げるな!」
「下げてない!」
「下がってる!」
「お前が上げすぎなんだ!」
「一回置くぞ!」
「待て、急に置くな!」
二人でどうにか石を運び、畑の端へ下ろす。
地面が鈍く鳴った。
「……疲れた」
童力を失った男が腰へ手を当てる。
「昨日なら一人で運んでたのにな」
一緒に運んだ村人が言った。
「《童衣》がありましたから」
「便利だったな」
「はい」
「戻らねえのか?」
「今のところは」
「そうか」
「はい」
男は自分の手を見る。
何度試しても、やはり何も感じない。
「じゃあ次、あれな」
村人が別の石を指した。
「…………」
「なんだよ」
「いや」
男が笑う。
「少しくらい休ませてください」
「若いんだから平気だろ」
「童術なしなら普通なんですよ、俺も」
「俺だって普通だ」
「なら一人で持ってください」
「無理に決まってるだろ」
「じゃあ休みましょう」
「仕方ねえな」
二人で畑の端へ腰を下ろした。
春の日差しが暖かい。
少し離れたところでは、他の村人たちが土を耕している。
「なあ」
「はい?」
「昨日のこと、聞いた」
男の表情が少しだけ固くなる。
「……そうですか」
「村狭いからな」
「そうですね」
「嫌だったか?」
「何がです?」
「知られるの」
男は少し考えた。
「……恥ずかしくはあります」
「なんでだよ」
「なんとなくです」
「よく分からんな」
「俺もです」
村人は笑った。
「まあ、いいんじゃねえか」
「何がです?」
「知らん」
「…………」
「ガルドが言ってた」
「何をですか」
「こういう時は『頑張れ』って言っとけばいいって」
「…………」
男は額を押さえた。
「あの人……」
「頑張れよ」
「何をですか」
「知らん」
昨日と同じだった。
男は呆れながらも、笑った。
◇
「お昼ですよ」
翌日ではなく、その日の昼を少し過ぎた頃。
女が畑までやってきた。
手には布で包んだ籠を持っている。
「あ」
「約束しましたよね」
「はい」
男は立ち上がる。
一緒に石を運んでいた村人が、二人を見る。
「行ってこい」
「まだ仕事が」
「休憩だ」
「でも」
「一人じゃ石は運べねえから、どっちにしろ休みだ」
「……分かりました」
男は女のところへ向かった。
二人は畑から少し離れた大木の下へ座る。
籠の中にはパンと干し肉、それから少量の野菜が入っていた。
「今日は何をしてたんですか?」
「午前は童術の練習を見ていました」
女の手が一瞬止まる。
「……教えられるんですか?」
「はい」
「でも」
「使えなくなっただけなので」
男はパンを受け取る。
「覚えてはいます」
「…………」
「童師にも、教えることはできると言われました」
「そうですか」
女が少し安心したように笑う。
「午後は?」
「石を運んでいます」
「童術で?」
「いえ」
「じゃあ、どうやって?」
「二人で」
「…………」
「何ですか」
「普通ですね」
「普通です」
二人が笑った。
しばらく食事を続ける。
「童力は」
女が遠慮がちに聞いた。
「戻ってません」
「…………」
「朝も試しました」
「そうですか」
「はい」
男は干し肉を一口食べる。
「まだ、怖いです」
女は黙って聞いていた。
「皆が使っているのを見ると、身体が勝手に動きそうになります」
「…………」
「自分にもできる気がして」
男は手を見る。
「でも、できない」
「…………」
「多分、しばらくは慣れないと思います」
「はい」
「それでも」
男が女を見る。
「昨日よりは、大丈夫です」
「本当ですか?」
「はい」
「無理してません?」
「少しだけ」
「してるじゃないですか」
「少しです」
「それを無理してるって言うんです」
「そうですか」
「そうです」
女は呆れたように言った。
それから少し間を置く。
「じゃあ、少しずつでいいんじゃないですか」
「…………」
「昨日より少し大丈夫なら、明日はもう少しだけ」
「明後日は?」
「もう少しだけ」
「来週は?」
「もう少しだけ」
「夏は?」
女が笑った。
「それは、夏になってから考えましょう」
「…………」
男も笑う。
「そうですね」
「はい」
二人は並んで昼食を続けた。
◇
夕方。
礼は、井戸の近くで男を見つけた。
「どうだった」
「何がですか?」
「童力」
「ああ」
男は首を振る。
「戻っていません」
「そうか」
「はい」
礼はそれ以上聞かなかった。
男の方から口を開く。
「童師」
「なんだ」
「午前中、三人の練習を見ました」
「ああ」
「一人、《童駆》がかなり安定してきています」
「そうか」
「もう一人も、童力を脚へ集めるところまでは」
「分かった」
「明日も俺が見てもいいでしょうか」
「構わない」
「ありがとうございます」
男が頭を下げる。
「それから」
「まだあるのか」
「はい」
「言え」
「俺は……これからも、皆に童術を教えていいんでしょうか」
礼は男を見る。
「昨日言っただろ」
「はい」
「忘れたのか」
「いえ」
「なら教えろ」
「…………」
「お前が覚えたものは、お前の中に残ってる」
「はい」
「使えなくなったからって、それまでなくなるわけじゃない」
男は静かに頷いた。
「はい」
「ただし」
「はい」
「自分でできないことを、できるように言うな」
「分かりました」
「分からないことは分からないと言え」
「はい」
「それだけだ」
「ありがとうございます」
礼は歩き出す。
「童師」
「なんだ」
「もう一つだけ」
「今度は何だ」
男は少し迷ってから言った。
「今夜から……あちらの家で暮らそうと思っています」
礼は男を見る。
「そうか」
「はい」
「本人とは話したのか」
「はい」
「家の者とも?」
「……これからです」
「先に話せ」
「はい」
「順番を間違えるな」
「すみません」
「俺に謝るな」
「はい」
礼は少しだけ息を吐いた。
「荷物は」
「まだ、あの家にあります」
「なら持っていけ」
「……いいんですか」
「置いておきたいのか?」
「いえ」
「なら持っていけ」
「はい」
男は笑った。
「ありがとうございます、童師」
「ああ」
◇
日が沈む頃。
十四人で使っていた家の中で、一つの荷物がまとめられていた。
多くはない。
着替え。
毛布。
いくつかの小物。
旅を続けてきた人間の荷物など、それくらいだった。
「本当に行くんですか」
「はい」
「寂しくなりますね」
「すぐそこですよ」
「でも夜はいないでしょう」
「朝には来ます」
「仕事も?」
「します」
「練習も見てくれるんですよね」
「はい」
「じゃあ、あまり変わりませんね」
「そうだと思います」
男は荷物を背負った。
部屋を見回す。
冬を越した家。
十四人で眠った場所。
最初は何もなかった。
今は毛布も、食器も、鍋もある。
壁には村から頼まれた仕事を書いた紙まで貼られている。
「…………」
「どうしました?」
「いえ」
男は首を振った。
「行ってきます」
誰かが笑う。
「帰るんでしょう?」
「…………」
男も笑った。
「そうですね」
戸を開ける。
「じゃあ」
少し考えて、言い直した。
「帰ってきます」
「はい」
「また明日」
「また明日」
男は外へ出た。
◇
礼は、家の前に立っていた。
少し離れた道を、男が歩いていく。
背中には荷物がある。
その先に、一軒の家があった。
戸の前に女が立っている。
さらにその後ろには、家族らしい人影も見えた。
男が立ち止まる。
何かを話している。
ここからでは聞こえない。
やがて女が笑った。
男も頭を下げる。
家の中へ招かれた。
戸が閉じる。
「童師」
後ろから声がした。
「なんだ」
「夕食にします」
「ああ」
礼は家へ戻った。
食事が並べられる。
皆がそれぞれの場所へ座る。
礼も座った。
「…………」
一つだけ、空いた場所がある。
誰もそこへ荷物を置かなかった。
誰も寝床を片付けようとは言わなかった。
「童師?」
「なんだ」
「食べないんですか」
「食べる」
礼は器を取った。
外では、春の風が村を抜けている。
少し離れた一軒の家には、まだ灯りがともっていた。
十四人で使っていた家に、その夜戻った童術師は十三人だった。
それでも村では、いつもと同じように夕食が始まり、明日の仕事の話が続いていた。
そして空いた一つの寝床も、今夜はそのまま残された。




