第百二話 道が開く
春になってから、村の朝は少し早くなった。
雪に閉ざされていた頃は、陽が昇ってからようやく動き始める者も多かったが、今は違う。朝靄の残るうちから家畜小屋の戸が開き、畑では鍬が土を返す音が聞こえてくる。
冬の間、白一色だった地面には黒い土が広がっていた。
その一角で、礼は木杭を地面へ打ち込んでいた。
「もう少し右だ」
「こっちか?」
「行きすぎだ」
「注文が多いな」
杭を支えているガルドが顔をしかめる。
礼は少し離れて位置を確かめた。
「そこだ」
「最初からそう言え」
「言った」
「言ってねえよ」
ガルドは片腕で杭を押さえ直した。
村の畑を広げるため、新しい柵を作っている。
昨年まで使っていた畑だけでも村の人数を養うことはできるらしい。ただ、冬を越して村長が考えを変えた。
狩りで得られる肉が増えた。
冬の間に傷んでいた農具も直った。
春になってからは、童術師たちが畑仕事まで手伝っている。
ならば、作れるうちに少しでも多く作っておこう。
それだけの話だった。
「童師様」
畑の向こうから声が飛んでくる。
礼が振り返ると、村の男が手を上げていた。
「こっちも見てもらえますか!」
「今行く」
「礼」
「なんだ」
「こっち終わってねえぞ」
「お前が打て」
「俺、片腕なんだけど」
「知ってる」
「知ってて言ってんのか」
「支える奴を呼べ」
「お前なあ……」
ガルドの声を背中で聞きながら、礼は隣の畑へ向かった。
途中、三人の男が道の脇で童術の練習をしている。
その前に立っているのは、童力を失った男だった。
「止まれ!」
「うおっ――!」
第一童式《童駆》を使った村人が、地面を滑るように進んだ。
以前ならそのまま何かに突っ込んでいたが、今日は両足を踏ん張り、数歩よろめいただけで止まった。
「おお……!」
「止まれた!」
「今のはよかったです」
「だろ!?」
「ただ、最後に力みすぎです。あれだと足を痛めます」
「そうなのか?」
「俺も何度かやりました」
「じゃあ見本見せてくれよ」
「…………」
「あ」
村人の顔が固まる。
「悪い」
「いえ」
男は苦笑した。
「もうできませんから」
「……悪かった」
「だから謝らなくていいですって」
男は村人の立ち方を直す。
「右足を少し前に。そうです」
「こうか?」
「はい。止まる時に童力だけで無理やり身体を止めようとしないでください。身体の動きも使って――」
説明はそのまま続いた。
礼は少しだけ足を止めて、その様子を見る。
男はもう童力を持っていない。
それでも、三人は彼の話を聞いていた。
「童師?」
男が礼に気づく。
「どうされました?」
「いや」
礼は首を振った。
「続けろ」
「はい」
再び声が飛んでくる。
「童師様ー!」
「今行く」
礼は畑へ向かった。
◇
「少し広げすぎではないでしょうか」
昼。
村長の家には、礼と数人の童術師、それからガルドが集まっていた。
卓の上には簡単な村の見取り図が広げられている。
畑。
家。
家畜小屋。
柵。
冬の間に作った保存用の小屋。
村長が指で畑の外側をなぞる。
「ここまでだ」
「かなり広いな」
ガルドが言った。
「人手が足りるか?」
「今ならな」
村長が礼たちを見る。
「この連中がおる」
「俺たちを数に入れてるのか」
「入れちゃ悪いか」
「いや」
礼は見取り図を見る。
「いつまでに終わらせる」
「…………」
村長が礼を見る。
「何だ」
「いや」
老人は顎髭を撫でた。
「前なら、まずそこから決めとったなと思ってな」
「…………」
「三日」
礼は黙っている。
「その次は七日。雪が止むまでとも言った」
「ああ」
「冬の間、何度も似たような話をした」
村長は見取り図へ視線を戻した。
「今度は夏までに、とでも言えばいいか?」
礼は少し考える。
「夏までかかるのか」
「知らん」
「…………」
「お前さんらが手伝えば、もっと早いだろう」
「なら早く終わらせる」
「そうしろ」
村長はそれだけ言った。
礼もそれ以上聞かなかった。
「次だ」
村長の指が、村の北側へ動く。
「ここの柵が傷んどる」
「それは俺が昨日見た」
ガルドが口を挟む。
「柱が二本腐ってる。交換した方がいい」
「木は?」
「足りる」
「なら頼む」
「ああ」
「それから保存小屋だ」
「また増やすのか」
礼が聞く。
「増やす」
「もう二つあるぞ」
「足りん」
「そんなに肉があるか?」
「誰のせいだと思っとる」
「狩った奴だろ」
「お前さんらだ」
「俺は最近狩ってない」
「ドラゴンを持って帰った男が何を言っとる」
「もう食っただろ」
「燻製がまだ残っとるわ」
ガルドが吹き出した。
「礼、お前もう諦めろ」
「何をだ」
「村長と口で勝とうとするのを」
「勝とうとしてない」
「そういうことにしといてやる」
村長が呆れたように息を吐いた。
その時だった。
外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「村長!」
戸が開く。
若い村人が息を切らしている。
「どうした」
「南から荷車です!」
部屋の空気が少し変わった。
「荷車?」
「はい。二台」
「誰だ」
「たぶん――」
若者が一度息を整える。
「行商人です」
村長が立ち上がった。
◇
「おお、いたいた!」
村の入口へ着くなり、荷車の横にいた男が大きく手を振った。
「生きてたか!」
「勝手に殺すな」
村長が答える。
行商人は五十を少し過ぎたくらいの男だった。厚手の外套は泥で汚れ、二台の荷車にも長い旅の跡が残っている。
後ろには若い男が二人。
護衛なのか、腰に剣を下げていた。
「いやあ、この冬は酷かったからな。北の道なんてしばらく通れたもんじゃなかったぞ」
「こっちも同じだ」
「見りゃ分かる。雪がまだ残ってるじゃねえか」
「それでも随分解けた」
「だから来たんだよ」
行商人は荷車を叩く。
「塩。布。針。油。薬。農具も少しある。あと酒」
「酒!」
後ろにいた村人が反応した。
「そこだけ声を上げるな」
「冬の間ずっとなかったんですよ!」
「俺に言うな」
村人たちが集まってくる。
子供たちまで荷車の周りへ集まり始めた。
「押すな押すな! 商品だぞ!」
行商人が笑いながら追い払う。
冬の間、外から誰かが来ることなどなかった。
村人たちにとっては、商品以上に外から人が来たこと自体が嬉しいらしい。
「童師様!」
声を掛けられ、礼が振り返る。
村の女が袋を抱えていた。
「これ、運ぶのを手伝っていただけますか?」
「ああ」
礼が受け取る。
「そっちの小屋か」
「はい」
歩き出そうとした時。
「……あんた」
行商人の声がした。
礼が振り返る。
男がこちらを見ている。
「見ない顔だな」
「ああ」
「この村の人間じゃねえのか?」
「違う」
「旅人か」
「そんなところだ」
「へえ」
行商人は礼の後ろを見る。
そこには何人かの童術師がいる。
「ずいぶん多いな」
「十三人いる」
「十三?」
行商人が眉を上げた。
「全員旅人か?」
「そうだ」
「珍しいな。こんな北まで」
礼は答えなかった。
行商人も、それ以上は聞かなかった。
「まあいいや。買うもんがあるなら見てけ。旅人なら針と油は持っといた方がいいぞ」
「ああ」
礼は袋を運んだ。
◇
騒ぎが起きたのは、それからしばらく後だった。
「待って待って待って!」
声が響く。
礼がそちらを見る。
荷車の横で、一頭の馬が暴れていた。
子供が荷台の後ろへ回り込み、何かを落としたらしい。その音に驚いた馬が身体を振り、繋いでいた縄が外れている。
「離れろ!」
誰かが叫ぶ。
馬が走り出した。
その先に、子供がいる。
「危ない!」
村人の一人が動いた。
地面を蹴る。
その瞬間、身体が一気に加速した。
第一童式《童駆》。
子供のところまで駆け抜け、その身体を抱えて道の脇へ転がる。
馬が二人の横を駆け抜けていった。
「大丈夫か!?」
「う、うん……」
「怪我は?」
「ない……」
「よかった」
周囲から息を吐く音が聞こえた。
何人かが馬を追い、やがて捕まえる。
「まったく……!」
行商人が駆け寄ってきた。
「坊主、大丈夫か?」
「うん」
「悪かったな。縄が緩んでたみたいだ」
「俺が後ろで――」
「今はいい。怪我がねえならそれでいい」
行商人は子供を助けた村人を見る。
「兄ちゃんも助かった。あんた速いな」
「いや……」
「今の何だ?」
「…………」
村人が黙る。
行商人の顔から、少しずつ笑みが消えた。
「……いや」
男は考えるように目を細める。
「待てよ」
村人の後ろ。
童術師たち。
そして礼を見る。
「今の」
行商人が言った。
「童術ってやつか?」
周囲が静かになった。
村人たちの表情が変わる。
礼は荷物を地面へ置いた。
「そうだ」
行商人が礼を見る。
「……あんたも?」
「ああ」
「後ろの連中も?」
「そうだ」
「十三人全員?」
「一人を除いてな」
行商人はしばらく黙っていた。
護衛の二人も、少し緊張した様子でこちらを見ている。
「…………」
「出ていくか?」
礼が聞いた。
「は?」
「童術師がいる村だ。嫌なら今すぐ出ても構わない」
行商人が礼を見る。
それから荷車を見る。
村人たちを見る。
最後に、助けられた子供を見る。
「……いや」
頭を掻く。
「別に」
「いいのか」
「今、子供助けたの見たばっかりで、何を怖がれってんだよ」
「…………」
「ただ驚いた」
行商人は小さく息を吐く。
「噂でしか聞いたことなかったからな」
「どんな噂だ」
「いろいろだよ」
「いろいろ?」
「ああ」
行商人は少し声を落とした。
「南じゃ、あんまりいい話は聞かねえ」
礼の目が僅かに細くなる。
「何があった」
「俺も詳しくは知らん」
「知ってることだけでいい」
「……捕まった奴がいるって話だ」
童術師たちが黙る。
「どこで」
「南の方だ。町の名前までは覚えてねえ。何人かまとめて連れていかれたとか、逆に役人を追い払ったとか……話す奴によって違う」
「王国軍か」
「そこまでは知らん」
「ギルドは」
「知らねえって」
行商人が両手を上げる。
「俺は商人だ。噂を聞いただけだよ」
「……そうか」
「ただ」
「なんだ」
「童術師ってのは、もっと……」
言いかけて、行商人が止まる。
「もっと?」
「いや」
子供を助けた村人を見る。
「何でもねえ」
礼は追及しなかった。
「商売を続けていいか?」
行商人が聞く。
「俺に聞くな」
「じゃあ誰に聞くんだよ」
「村長だ」
「ここ、あんたの村じゃねえのか?」
「違う」
「……そうなのか?」
「ああ」
行商人が首を傾げる。
後ろから村長の声が飛んだ。
「いつまで喋っとる! 塩はいくらだ!」
「ああ、はいはい!」
行商人が荷車へ戻る。
「爺さん、去年よりちょっと高いぞ!」
「帰れ!」
「まだ値段も言ってねえだろ!」
止まっていた村が、また動き始めた。
子供たちが笑う。
大人たちが商品を覗き込む。
行商人の護衛も、剣の柄から手を離した。
礼だけが、少しの間その場に残っていた。
◇
「高い」
「だから今年は仕方ねえんだって!」
「去年の一割増しだぞ」
「道が使えなかったんだよ! 迂回した分も入ってる!」
「二割負けろ」
「増えてんじゃねえか!」
夕方まで、村長と行商人の交渉は続いた。
最終的に塩と油、それから農具をいくつか買うことになったらしい。
代わりに村からは毛皮や燻製肉が出された。
「肉多いな」
行商人が積まれた品を見る。
「今年はよく獲れた」
「へえ」
「ドラゴンもあるぞ」
「…………は?」
「いらんのか」
「待て」
行商人が燻製肉を見る。
「今、何て言った?」
「ドラゴンだ」
「なんでそんなもんがある!?」
村人が礼を指差した。
「あの人が獲ってきた」
「…………」
行商人が礼を見る。
礼は少し離れたところで農具を確認していた。
「……童術師って、みんなあんななのか?」
「知らん」
「知らんのかよ」
「童師様は童師様だからな」
「童師?」
「そうだ」
行商人が再び礼を見る。
何かを聞きたそうにしていたが、結局聞かなかった。
◇
日が傾き始めた頃、二台の荷車が村を出た。
「また来る!」
御者台から行商人が手を上げる。
「今度は酒をもっと持ってこい!」
村人が叫ぶ。
「買う金用意しとけ!」
「安くしろ!」
「嫌だ!」
そんな声を交わしながら、荷車は南へ進んでいく。
礼は村の入口に立っていた。
隣にはガルドがいる。
「久しぶりだったな」
「ああ」
「行商人」
「冬は来なかったのか」
「来られるわけねえだろ。あの雪だぞ」
「そうか」
「春から秋までは、何度か来る」
礼は遠ざかる荷車を見る。
「毎年か」
「だいたいな」
「他にも来るのか」
「旅人もたまに。猟師とか、役人とか」
「役人」
「ああ」
ガルドが礼を見る。
「気になるか」
「少し」
「さっきの話か」
「ああ」
捕まった童術師がいる。
それがどこなのか。
誰に捕まったのか。
今どうしているのか。
何も分からない。
「礼」
「なんだ」
「追いかけるのか?」
「…………」
礼は答えなかった。
以前なら、すぐに動いていたかもしれない。
噂だけでも南へ向かったかもしれない。
だが今、背後から声が聞こえてくる。
「童師様!」
振り返る。
村人がこちらへ走ってきている。
「どうした」
「村長が呼んでます!」
「何かあったか」
「保存小屋の場所を決めたいそうです!」
「明日じゃ駄目なのか」
「今日決めるって!」
「…………」
礼は南を見る。
荷車は、もう小さくなっていた。
「礼」
ガルドが言う。
「どうする」
「…………」
礼は少しだけ考えた。
「村長のところへ行く」
「そうか」
「ああ」
二人は村へ戻った。
◇
夜。
礼は一人で村の入口まで歩いてきた。
昼間、行商人が通った道。
雪はもうない。
乾き始めた土の上に、二本の轍が残っている。
南へ続いていた。
冬の間、その道は雪に埋もれていた。
礼たちが出ていくこともできなかった。
誰かが入ってくることもなかった。
今は違う。
道は開いている。
南へ行ける。
東へも。
さらに遠くへも。
そして同じ道を使って、誰かがここへ来ることもできる。
「童師」
後ろから声がした。
礼が振り返る。
童術師の一人が立っている。
「どうした」
「夕食の準備ができました」
「ああ」
「皆、待っています」
「先に食べろと言っただろ」
「そう言ったんですが」
「食べてないのか」
「はい」
「なぜ」
「童師がまだなので」
「…………」
礼は小さく息を吐いた。
「分かった」
村へ戻ろうとする。
その前に、一度だけ南を見た。
二本の轍が、暗くなり始めた道の向こうへ消えている。
「童師?」
「なんでもない」
礼は振り返った。
「行くぞ」
「はい」
二人は村へ戻っていく。
背後には、南へ続く道が残っていた。
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