第九十七話 春
屋根から落ちた雫が、軒下の桶を叩いた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
冬の間なら、そのまま凍りついていた水だった。
礼は空き家の戸を開け、外へ出た。
朝の空気はまだ冷たい。吐いた息も白く残る。それでも、肌を刺すようだった寒さはいつの間にか和らいでいた。
道の端には雪が残っている。
だが、中央には黒い土が見えていた。
踏み固められ、何度も雪を掻かれた道。その両脇を覆っていた白が、少しずつ後ろへ退いている。
「童師、おはようございます」
後ろから声がした。
「ああ」
童術師の一人が外へ出てくる。
男も道を見た。
「随分、解けましたね」
「そうだな」
「昨日より地面が見えています」
「ああ」
屋根から、また雫が落ちた。
礼は村の中央へ目を向ける。
古い井戸。
その傍らに立つ大木。
冬の間、一本の葉もつけていなかった枝の先に、小さな膨らみが見えた。
「……芽が出てるな」
「え?」
「あれだ」
礼が指す。
童術師が目を凝らした。
「ああ……本当ですね」
小さな芽だった。
近づかなければ見落とすほどのものが、枝のあちこちに出ている。
童術師が少し笑った。
「春ですね」
「…………」
礼は枝を見上げた。
「ああ」
それだけ答えた。
◇
雪が解け始めてから、村の仕事も変わった。
雪掻きの回数が減った。
代わりに、冬の間に傷んだ屋根や柵の修理が増えた。
畑では土を起こす準備が始まり、家畜は長く閉じ込められていた小屋から外へ出されるようになった。
そして、狩人たちも山へ戻った。
「そっちへ行ったぞ!」
「分かってる!」
木々の間を、一人の若い男が走る。
その足元で、微かに童力が弾けた。
第一童式《童駆》。
冬の終わりに、村で初めて童術を使えるようになった男だった。
まだ、礼たちほど速くはない。
童力の放出も安定していない。
それでも、以前の彼とは比べものにならない速度で雪解けの森を駆けていた。
「右です!」
後ろから童術師の声が飛ぶ。
「右!?」
「そちらは左です!」
「分かってる!」
「分かってません!」
男が慌てて方向を変える。
木の根を飛び越えたところで、前方の茂みが大きく揺れた。
一頭の鹿が飛び出す。
「いた!」
村の狩人が弓を構えた。
鹿は人影を見ると、すぐに向きを変える。
「逃がすな!」
「俺が回る!」
若い男が《童駆》を使う。
身体が前へ出た。
「強すぎ――」
自分で気づいた時には遅かった。
「うおっ!?」
狙っていた場所を通り過ぎる。
「またか!」
狩人の怒鳴り声が飛んだ。
「すまん!」
「止まり方は習ったんじゃなかったのか!」
「習った!」
「じゃあ止まれ!」
「今やってる!」
童術師が思わず額へ手を当てた。
それでも、若い男が大きく回り込んだことで、鹿の逃げる方向が変わった。
「来るぞ!」
別の狩人が矢を放つ。
一本目は外れた。
二本目が鹿の脚を捉える。
鹿が体勢を崩した。
「今だ!」
狩人の一人が駆け寄る。
短い攻防の後、森が静かになった。
「…………」
若い男が息を切らしながら戻ってくる。
「獲れた……」
「お前が仕留めたわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
「その前に、また行き過ぎたな」
「……分かってる」
「もう少し抑えろ」
「分かってるって」
男はそう答えながらも、倒れた鹿を見て笑っていた。
狩人が鹿の脚へ縄を掛ける。
「でもまあ、助かった」
「え?」
「お前が回らなかったら、谷の方へ逃げられてた」
「…………」
「次はちゃんと止まれ」
「ああ!」
男の顔が明るくなる。
童術師が鹿の傍らへしゃがみ込んだ。
「運ぶのを手伝います」
「頼めるか?」
「はい」
第三童式《童衣》。
身体を童力が巡る。
童術師は鹿を持ち上げた。
「……相変わらずすげえな」
狩人が感心したように言う。
「慣れれば、この程度でしたら」
「俺もそれ覚えられるかな」
若い男が言った。
「まず《童駆》を安定させてください」
「分かってるよ」
「先ほども聞きました」
「…………」
狩人たちが笑った。
「帰るぞ」
「ああ」
「今日はもう一頭ある」
「そっちも持てるか?」
「問題ありません」
「便利だな、童術って」
狩人の一人が何気なく言った。
童術師が少し考える。
「使い方次第だと思います」
「魔物と戦うための術じゃないのか?」
「そう決まっているわけではありません」
「そうなのか?」
「はい。少なくとも、童師はそのようなことをおっしゃったことはありません」
男は肩に担いだ鹿を見る。
「戦うためだけのものなら、こういう使い方はできませんから」
「なるほどな」
狩人は頷いた。
「じゃあ、今日は肉を運ぶための童術だ」
「……そうなりますね」
「いい術じゃねえか」
童術師は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「お前が作ったわけじゃないだろ」
「そうでした」
笑い声とともに、一行は村へ戻っていった。
◇
「また肉か!」
村の中央で、男の声が響いた。
「また肉だ!」
「昨日のがまだ残ってるぞ!」
「知らん! 獲れたんだから仕方ないだろ!」
「仕方なくない! 保存する場所がないんだ!」
礼は井戸の近くで、そのやり取りを聞いていた。
足元には木材が積まれている。
隣にはガルドがいた。
「……何を揉めてる」
「肉だとよ」
「見れば分かる」
村の入口から、狩猟に出ていた者たちが戻ってくる。
鹿が二頭。
兎が数羽。
さらに、猪に似た小型の魔物が一頭。
冬の終わり頃なら、村中が喜んでいた量だった。
今では、別の問題が起きている。
「干し肉にしろ!」
「干す場所がねえんだよ!」
「燻製は!?」
「昨日の分でいっぱいだ!」
「塩は?」
「肉より先に塩がなくなる!」
「じゃあ食え!」
「一日で食えるか!」
ガルドが笑った。
「贅沢な喧嘩してんな」
「ああ」
礼も獲物を見る。
以前より狩りの範囲が広がっている。
童術師が同行すれば、怪我の危険も減る。
重い獲物をその場で細かく解体する必要もなくなった。
さらに村で童術を覚え始めた者までいる。
今のところ、実際に術として使えるようになったのは三人のうち二人だけだった。
それでも、村の狩りは以前より明らかに変わっていた。
「童師様!」
嫌な予感がした。
礼が声の方を見る。
肉を抱えた男が走ってくる。
「なんだ」
「燻製にする場所が足りません!」
「そうらしいな」
「棚を増やしたいんですが」
「増やせばいい」
「木材が必要でして」
「切ればいいだろ」
「人手が……」
「…………」
礼はガルドを見る。
ガルドが視線を逸らした。
「おい」
「なんだよ」
「お前も手伝え」
「俺、これから畑の方なんだよ」
「逃げるな」
「逃げてねえよ」
村人が申し訳なさそうに礼を見る。
「童師様、お忙しければ俺たちだけでも」
「いや」
礼は積まれた木材を見る。
「どこに作る」
男の表情が明るくなった。
「こちらです!」
「分かった」
礼が歩き出す。
「礼」
「なんだ」
「お前、完全に村の便利屋になってるぞ」
「お前もだろ」
「俺は村人だからいいんだよ」
礼の足が一瞬止まった。
「…………」
「どうした?」
「いや」
再び歩き出す。
「行くぞ」
「俺もか!?」
「手伝え」
「畑は!?」
「後で行け」
「横暴だぞ!」
ガルドの声を聞きながら、礼は木材を持ち上げた。
◇
燻製棚を作り終えた頃には、太陽が傾き始めていた。
「これでしばらくは大丈夫です」
村人が新しい棚を確認する。
「しばらく?」
ガルドが聞いた。
「はい」
「明日また獲ってきたら?」
「…………」
「…………」
「もう一つ作ります」
「先に作っとけよ」
「木材が足りません」
「森にあるだろ」
「切る人手が」
「礼」
「なんで俺を見る」
「《童閃》なら木くらい一発だろ」
「嫌だ」
「なんでだよ」
「木を切るために作った術じゃない」
「この前も似たようなこと言ってたな」
礼は道具を片付ける。
「斧で十分だ」
「ドラゴン斬った奴が斧で木を切るのか」
「何か問題があるか」
「ねえけどよ」
「ならいい」
近くでは、今日獲れた鹿の解体が進んでいた。
子供たちが少し離れたところから見ている。
肉は家々へ分けられ、一部は保存用に回される。
以前より、一軒あたりへ渡される量も増えていた。
「童師よ」
村長だった。
「なんだ」
「少しいいか」
「ああ」
二人は解体作業の邪魔にならない場所へ移動した。
村長は、並べられている肉を見る。
「増えたな」
「何がだ」
「食い物だ」
礼も同じものを見る。
「そうだな」
「お前たちが来る前は、この時期が一番厳しかった」
「冬じゃないのか?」
「冬は冬で厳しい。だが、そのために秋から備える」
村長は肉の一つを指した。
「春は、冬のために貯めたものがなくなる頃だ」
「…………」
「雪が解けたところで、畑からすぐに野菜が生えてくるわけじゃない。山へ入れるようになっても、毎日獲物が見つかるとは限らん」
「そうだな」
「毎年、この時期は食う量を減らした」
村長の視線の先では、子供が母親から肉の入った包みを受け取っている。
別の家へも運ばれていく。
「今年は違う」
「ああ」
「食い切れるかを心配しとる」
村長が笑った。
「贅沢な悩みだ」
礼は何も言わなかった。
「狩人たちも喜んどる」
「そうか」
「遠くまで行ける。獲物を運べる。怪我をしても、お前たちがいる」
「…………」
「それに」
村長が少し離れた場所を見る。
今日の狩りへ参加していた若い男が、他の村人たちへ何かを話している。
身振りを見る限り、《童駆》で行き過ぎた時の話らしい。
周囲が笑っている。
「あいつらまで、自分たちでできることが増え始めた」
「ああ」
「教えてもらってよかった」
礼が村長を見る。
「まだ始めたばかりだぞ」
「それでもだ」
村長は頷いた。
「ありがとう、童師」
「…………」
礼は少しだけ視線を逸らした。
「俺だけが教えたわけじゃない」
「分かっとる」
「なら、あいつらにも言ってやれ」
「言っておる」
「そうか」
「ああ」
村長は笑った。
「何度もな」
◇
日が沈む前。
礼は一人で村の入口まで来ていた。
特に用事があったわけではない。
新しく直した柵を確認した帰りだった。
そのまま、何となく足を止めた。
「…………」
道がある。
北へ来た時に通った道。
冬の間は雪に埋まり、どこまでが道なのか分からない日もあった。
今は違う。
雪はほとんど消えている。
ところどころ泥濘んではいるが、歩くことに問題はない。
山の向こうまで、道は続いていた。
礼はしばらくそれを見る。
雪は、もうない。
吹雪もない。
十四人なら、いつでも出られる。
食料もある。
装備もある。
ここに留まらなければならない理由は――
「童師様!」
後ろから声がした。
礼が振り返る。
先ほど燻製棚を作っていた男が走ってくる。
「なんだ」
「すみません。先ほどの棚なんですが」
「壊れたのか?」
「いえ! そうではなくて」
男が息を整える。
「明日、もう一つ作ろうという話になりまして」
「…………」
「今日の分だけでも、かなり埋まってしまいまして」
「もうか」
「はい……」
「作った意味がないだろ」
「申し訳ありません」
「謝るな」
「はい」
礼は男の後ろを見る。
村の中央では、まだ肉を分けている。
家々から煙が上がっている。
古い井戸。
芽をつけ始めた大木。
その向こうには、十四人で使っている家が見えた。
「木材は」
「明日の朝、取りに行く予定です」
「誰が行く」
「俺と、狩りに行かなかった者たちで」
「分かった」
「あの、童師様」
「なんだ」
「明日、お時間があれば――」
「手伝う」
「……よろしいのですか?」
「ああ」
男が笑った。
「ありがとうございます!」
礼は頷く。
男は村へ戻っていった。
「…………」
礼はもう一度、道を見る。
誰にも止められていない。
出ていくなとも言われていない。
いつまでいるのかと尋ねる者も、もういなかった。
礼は道から視線を外した。
村へ向かって歩き出す。
途中、ガルドとすれ違った。
「どこ行ってた」
「柵を見てた」
「そうか」
「ああ」
「飯、もうすぐだぞ」
「分かった」
「今日は鹿だ」
「また肉か」
「お前が言うな。ドラゴン食おうって言い出した奴が」
「それは別だ」
「何が違うんだよ」
二人は並んで歩く。
少し先では、ガルドの子供たちが走り回っていた。
「礼!」
息子が手を振る。
「早く!」
「何がだ」
「ご飯!」
「逃げないだろ」
「肉なくなる!」
「そんなにあるのにか?」
「お父さん食べるから!」
「おい!」
ガルドが声を上げる。
礼は少しだけ笑った。
「急ぐぞ」
「お前まで乗るな!」
村の中へ入っていく。
背後には、雪の消えた道が伸びていた。
礼は、もう振り返らなかった。
◇
夜が深くなる頃には、村も静かになっていた。
昼間まで響いていた金槌の音も、肉を運ぶ男たちの声も、もう聞こえない。窓の外には春を迎えた村の家々が並び、そのほとんどから明かりが消えている。
十四人で使っている家の中も同じだった。
食事を終えた童術師たちは、それぞれ眠りについている。
礼だけが、まだ起きていた。
小さな卓の前に座り、一冊のノートを開いている。
随分と古くなった。
表紙には傷が増え、何度か濡れたせいで紙も僅かに波打っている。破れたところを補修した跡もあった。
新しいことを書き込むために開いたわけではない。
最近は、ほとんど使っていなかった。
それでも捨てずに持っていた。
礼はゆっくりと頁をめくる。
第一童式。
第二童式。
まだ《童式》という呼び方すらなかった頃に書いたものも残っている。
書き直した跡。
消した跡。
余白へ追加された文字。
自分の字だけではない。
「…………」
礼の指が止まった。
何度も見た文字だった。
今では、誰が書いたものなのか確認する必要もない。
「……リオ」
小さく名前を呼んだ。
返事はなかった。
礼も、返事を待ってはいなかった。
しばらく頁を眺めてから、背もたれへ身体を預ける。
「童術師、増えたぞ」
静かな部屋に、礼の声だけが落ちる。
「お前がいた頃より、ずっと」
指先で紙の端をなぞった。
「俺が知らない奴もいる」
少し考えてから続ける。
「俺から習ってない奴もいる。誰かに習って、そいつがまた別の奴に教えてる」
窓の外から、微かに風の音がした。
「この村でも三人、童力を感じた」
一人は、最初に《童駆》を使えるようになった。
残る二人も、少しずつ扱えるようになっている。
「今日、そのうちの一人が狩りに行った」
礼の口元が僅かに緩んだ。
「鹿を追い越したらしい」
昼間に何度も聞かされた話だった。
本人は役に立ったと言い、狩人たちは止まり方を覚えろと言っていた。
「……お前がいたら笑っただろうな」
礼は頁へ視線を戻す。
リオなら、なんと言っただろう。
童術師が増えたと聞いたら。
自分たちが二人で考えていたものを、会ったこともない人間たちが使っていると知ったら。
村人まで覚え始めたと知ったら。
「驚くか」
呟いてから、礼は少し考えた。
「…………」
やがて、小さく首を振る。
「いや」
驚いた顔くらいはするかもしれない。
だが、その後はきっと。
「お前なら……」
礼は目を閉じた。
昔の声を思い出す。
何かが上手くいった時。
礼が考えすぎている時。
当たり前のような顔で笑っていた男の声。
「『だろ?』って言うんだろうな」
静かな部屋に、その言葉だけが残った。
「…………」
礼は目を開ける。
「そうだったな」
もう一度、頁を見る。
「お前、そういう奴だった」
それからしばらく、礼は何も言わなかった。
ノートを閉じようとして、手が止まる。
「……あと」
誰に急かされたわけでもないのに、礼は少し言葉を探した。
「俺たち、今……村にいる」
口にしてから、自分でも妙な言い方だと思った。
「北に来て、たまたま見つけた村だ」
三日だけ。
最初は、それだけの約束だった。
七日延びた。
雪が降った。
雪が止むまでと言われた。
それから、誰も数えなくなった。
「三日だけのはずだったんだけどな」
礼は窓へ目を向けた。
雪はない。
道も開いている。
明日になれば、また村人たちは畑へ出る。
狩人たちは山へ入る。
童術師たちは頼まれた仕事へ向かい、村で童術を覚え始めた者たちは練習を続ける。
礼自身も、明日は燻製棚をもう一つ作ることになっていた。
「もう春だ」
七年。
あの日から、それだけの時間が過ぎている。
その間、いくつもの町を通った。
いくつもの場所で眠った。
長く留まった場所もある。
それでも、ここは少し違った。
何が違うのか、礼にも上手く言葉にはできない。
「…………」
ノートへ視線を戻す。
「リオ」
もう一度だけ名前を呼んだ。
「俺……」
そこで言葉が止まった。
少し考える。
やがて、礼は静かに続けた。
「居場所、見つけたかもしれない」
返事はない。
当然だった。
それでも礼は、しばらくノートを見ていた。
もしリオがここにいたら。
何を言っただろう。
「…………」
考えるまでもなかった。
礼の口元が、本当に僅かに緩む。
「……『だろ?』か」
ノートを閉じた。
その時、廊下から小さな足音がした。
「童師」
声がする。
「起きておられますか?」
「ああ」
礼はノートへ手を置いたまま答えた。
戸の向こうから、童術師の声が続く。
「明日の狩りについて、ご相談したいことがあるのですが」
「分かった」
礼は立ち上がった。
ノートを閉じ、いつもの場所へ戻す。
「今行く」
戸へ向かう。
その途中で、一度だけ振り返った。
古びたノートは、何も言わず卓の上に置かれている。
礼は灯りを消した。
そして、皆のいる部屋へ戻っていった。
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