第九十六話 できた
村で童力を感じ取れる者が見つかってから、五日が経った。
最初に見つかったのは三人だった。
いずれも村で生まれ育った若い男で、魔法について特別な教育を受けたこともなければ、冒険者として戦った経験があるわけでもない。
その三人が、毎朝決まって古い井戸の近くへ集まるようになった。
「違います。力を入れるのではありません」
「でも、力を入れないと動かせないんじゃないのか?」
「身体の力ではなく、童力を動かすんです」
「だから、その童力をどうやって動かすんだ?」
「それは……」
教えていた童術師が言葉に詰まった。
三人のうち一人が首を傾げる。
「分からないのか?」
「いえ。分かります」
「じゃあ教えてくれ」
「感覚では分かるのですが……」
「言葉にできない?」
「……はい」
「それじゃ俺と同じじゃないか」
「申し訳ありません」
「いや、謝られても困るんだが」
井戸の近くでそんなやり取りが続いている。
少し離れたところでは、別の童術師が残る二人を見ていた。
「足へ集める前に、まず腕で試しましょうか」
「腕?」
「はい。動かせる感覚を掴むだけですので、場所はどこでも構いません」
「分かった」
「目を閉じても構いません。昨日感じたものを探してください」
男が目を閉じる。
しばらくすると、その眉間に皺が寄った。
「……ある」
「はい」
「昨日より分かる」
「では、それを右腕へ」
「…………」
男の右肩が上がった。
「身体は動かさなくて大丈夫です」
「動かしてない」
「動いています」
「嘘だろ」
「肩が上がっています」
「……難しいな、これ」
見物していた村人たちから、小さな笑い声が上がった。
この五日で、訓練を見る者も増えていた。
最初の頃は遠巻きに眺めているだけだったが、今では井戸の縁へ腰掛けたり、仕事の途中で足を止めたりしている。
子供たちはもっと近い。
「まだ走れないの?」
「まだだ」
「五日もやってるのに?」
「お前も五日で剣を使えるようにならんだろ」
「木の剣なら使えるよ!」
「振り回してるだけだろ」
「使ってる!」
また笑いが起きた。
三人の男たちも、もう見られることには慣れたらしい。
「絶対今日やってやる」
一人が呟いた。
「昨日も言ってたぞ」
「今日は違う」
「何が?」
「なんとなくだ」
「それ昨日も言ってた」
「うるさい」
教えていた童術師が苦笑する。
「焦らなくて大丈夫ですよ。私も最初は時間がかかりましたから」
「どのくらい?」
「……覚えていません」
「じゃあ俺より早かったかもしれないじゃないか」
「そうかもしれません」
「そこは励ましてくれよ」
「申し訳ありません」
「だから謝るなって」
また笑い声が上がった。
◇
その頃、礼は村の反対側にいた。
「もう少し上だ」
「こうか」
「上」
「上げてる」
「足りん」
「これ以上上げたら外れるぞ」
「外れん」
「本当か?」
「たぶんな」
「たぶんでやらせるな」
ガルドと二人で、家畜小屋の扉を直していた。
雪と湿気で木が僅かに歪み、下側が地面へ擦るようになっている。
礼が扉を持ち上げ、ガルドが片手で蝶番を調整していた。
「そこだ。そのまま動かすな」
「ああ」
「絶対動かすなよ」
「分かった」
ガルドが釘へ金槌を当てる。
片手しかないため、最初に釘を浅く打ち込んでからでなければ作業できない。
礼は黙って扉を支えていた。
何度か金槌の音が響く。
「よし」
「終わったか」
「ああ。離していいぞ」
礼が手を離した。
扉が僅かに傾いた。
「…………」
「…………」
二人で見る。
下側が地面に擦っている。
「ガルド」
「なんだ」
「直ってない」
「見りゃ分かる」
「さっきより酷くなってないか」
「うるせえな」
ガルドが蝶番を見る。
「お前が途中で動かしたんじゃねえのか?」
「動かしてない」
「本当か?」
「ああ」
「《童眼》で見てみろよ」
「嫌だ」
「なんでだよ」
「扉だぞ」
「直すためならいいだろ」
「こんなことで使いたくない」
「何のための術だよ」
「少なくとも家畜小屋の扉を直すためじゃない」
ガルドが笑った。
「世界の理をどうこうする奴が、扉一枚に苦戦してんのか」
「お前もだろ」
「俺は片腕だ」
「知ってる」
「じゃあもう少し気を遣え」
「手伝ってるだろ」
「そういう意味じゃねえよ」
礼は再び扉を持ち上げた。
その時だった。
「童師!」
遠くから声が聞こえた。
礼が振り返る。
童術師の一人が、こちらへ走ってくる。
「どうした」
「来ていただけますか」
「何かあったのか?」
「いえ、その……」
息を整えながら、男が僅かに笑った。
「できそうなんです」
「…………」
礼は扉を見る。
ガルドを見る。
「行ってこい」
「いいのか」
「どうせこれ、最初からやり直しだ」
「そうか」
「なんだその顔」
「いや」
「早く行け」
「ああ」
礼は手を離した。
扉が地面へ落ちる。
「おい!」
「行ってくる」
「ゆっくり置けよ!」
ガルドの声を背中で聞きながら、礼は井戸へ向かった。
◇
着いた時には、見物人がさらに増えていた。
「童師様だ」
誰かが言う。
人垣が自然に開いた。
礼はその間を通り、中央を見る。
三人のうち一人が、井戸から少し離れたところに立っていた。
「童師様」
「どうだ」
「足まで動かせるようになりました」
「童力を?」
「はい。多分」
男は少し不安そうに答えた。
礼は男を見る。
微かではある。
だが、確かに童力が脚部へ集まっていた。
「多分じゃない」
「え?」
「できてる」
男の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ、《童駆》を?」
「まだだ」
「えっ」
「集められただけだ。放出ができてない」
「……まだあるんですか」
「ある」
男が少し肩を落とした。
礼の横で、教えていた童術師が口を開く。
「先ほど、一度だけ僅かにできたんです」
「放出が?」
「はい。ですが本人が驚いて止めてしまって」
「どんな感じだった」
礼が尋ねる。
「足が、急に軽くなりました」
「なら合ってる」
「本当ですか?」
「ああ」
礼は周囲を見る。
「場所を空けろ」
見物していた村人たちが下がった。
「そこから真っ直ぐ走れ」
「走るんですか?」
「ああ」
「どこまで?」
礼は先を見る。
雪が積もった道が続いている。
「最初は十歩でいい」
「十歩」
「速く走ろうとするな。普通に走れ」
「はい」
「童力は脚に集めたまま。最初の一歩を踏み出す時に、少しだけ外へ押し出せ」
「少しだけ?」
「ああ」
「どのくらいですか?」
「少しだ」
「…………」
「なんだ」
「その少しが分からないんです」
「…………」
礼は黙った。
後ろから誰かが小さく笑った。
礼が振り返る。
童術師たちが視線を逸らす。
「なんだ」
「いえ」
「言え」
「童師も、感覚で説明されていますね」
「…………」
「先ほど私も同じことで困りまして」
礼は男を見る。
「……悪かった」
「い、いえ! 童師が謝ることでは!」
「じゃあどう教える」
数人の童術師が考える。
一人が手を上げた。
「歩くところからでよろしいのではないでしょうか」
「歩く?」
「はい。最初から走る必要はないかと」
礼は少し考える。
「そうだな」
男を見る。
「歩け」
「はい」
男が一歩踏み出す。
「普通にだ」
二歩。
三歩。
「そのまま、脚の童力を少しずつ外へ流せ」
「はい」
四歩。
五歩。
男の足元で、雪が僅かに弾けた。
「今だ」
「え?」
「そのまま続けろ」
六歩。
七歩。
男の身体が少し前へ出た。
「おっ」
本人が声を漏らす。
「止めるな」
「はい!」
八歩。
今度は明らかに速かった。
九歩。
雪が後ろへ散る。
十歩目。
「――うおっ!?」
一気に男の身体が前へ飛び出した。
「…………」
誰も声を出さなかった。
男はそのまま数歩先まで突っ込み、足をもつれさせた。
「うわっ――!」
頭から雪へ突っ込む。
白い粉雪が大きく舞った。
「…………」
静かになった。
「大丈夫か!?」
村人たちが走り出そうとする。
「待て」
礼が止めた。
雪の山が動いた。
腕が一本出てくる。
「……できた」
雪の中から声がした。
「…………」
「できた!」
男が顔を上げた。
髪も眉も雪だらけだった。
それでも笑っている。
「今の見たか!?」
「見た!」
「速かったぞ!」
「すげえ!」
「本当に使った!」
周囲から一斉に声が上がった。
男は雪から這い出し、礼を見る。
「童師様!」
「怪我は」
「ありません!」
「そうか」
「俺、今の……!」
「ああ」
礼は頷く。
「第一童式《童駆》だ」
男が自分の脚を見る。
「これが……」
「ああ」
「俺が、童術を……」
何度も自分の足を見ている。
「もう一回やっていいですか!?」
「待て」
「え?」
「今度は止まり方を覚えろ」
「…………」
周囲から笑いが起きた。
「そうですね……」
「今のままだと壁に突っ込むぞ」
「はい」
「それと、いきなり強く出すな」
「はい!」
「返事だけはいいな」
「はい!」
「…………」
また笑いが起きた。
礼は小さく息を吐いた。
「もう一回だ」
「はい!」
今度は教えていた童術師が男の隣へ立つ。
「まず歩くところからやりましょう」
「また?」
「止まれるようになってからです」
「分かった」
「それと、今の感覚を忘れないでください」
「ああ」
礼は少し離れた。
もう、自分が横にいる必要はなかった。
◇
その日の午後も、訓練は続いた。
最初に《童駆》を成功させた男は、何度も雪へ突っ込んだ。
二度目は尻から。
三度目は横向きに。
四度目でようやく、転ばずに止まれた。
「できた!」
「今度こそですね」
教えていた童術師も笑った。
残る二人も、少しずつ童力を動かせるようになっていた。
一人ができたことで、何か掴めたらしい。
「今、足に行った気がする」
「確認します」
「どうだ?」
「……はい。僅かですが」
「本当か!」
「そのまま維持してください」
「分かった!」
見物していた村人たちも、いつの間にか訓練へ口を出すようになっていた。
「力入りすぎじゃないか?」
「お前は使えないだろ」
「見てれば分かる」
「じゃあお前がやれ」
「俺は何も感じなかったんだよ!」
笑い声が上がる。
少し離れたところで、礼はその様子を眺めていた。
隣には村長がいる。
「一人、使えたな」
「ああ」
「五日か」
「早い方だと思う」
「そうなのか?」
「多分な」
「多分か」
「人によって違う」
村長は練習を続ける三人を見る。
「これで、あいつも童術師なのか?」
「…………」
礼は少し考えた。
「まだ第一しか使えない」
「それでも使った」
「ああ」
「なら童術師ではないのか?」
「俺が決めることじゃない」
村長が礼を見る。
「では、誰が決める」
「本人だろ」
「…………」
礼は訓練している男を見る。
「使えるようになっただけだ」
「それだけか?」
「ああ」
「それで何をするかは、あいつが決めればいい」
村長はしばらく黙っていた。
「そうか」
「ああ」
「なら、それでいい」
それ以上は何も言わなかった。
◇
「お疲れさまです」
訓練が終わり、人が減り始めた頃。
一人の童術師が振り返った。
「……あ」
少し離れたところに、若い女が立っていた。
数日前、薪を届けた家の娘だった。
「見ていたんですか?」
「少しだけ」
女が近づいてくる。
「すごいですね」
「俺ではありませんよ」
「でも、教えていたでしょう?」
「それは……そうですが」
男は少し困ったように笑った。
「教えるの、お上手なんですね」
「いえ。今日も童師に助けていただきました」
「それでもです」
女は、まだ雪の上で練習している村人を見る。
「童師様に教わったんですか?」
「俺ですか?」
「はい」
「いえ」
「違うんですか?」
「俺は童師から直接教わってはいません」
女が意外そうな顔をする。
「では、誰に?」
「別の童術師です」
「その方は?」
「その人も、別の方から教わったそうです」
「…………」
女は少し考えた。
「不思議ですね」
「何がですか?」
「だって、その方たちはここにいないんでしょう?」
「はい」
「それなのに、その人たちが覚えたものが、あなたまで来て」
女は練習している村人を見る。
「今度は、この村の人に伝わってる」
「…………」
「ずっと繋がってるみたいです」
男は答えなかった。
少しだけ、遠くを見る。
「……そうですね」
やがて答えた。
「俺も、今までそんなふうに考えたことはありませんでした」
「そうなんですか?」
「はい」
女が笑う。
「明日も練習するんですか?」
「その予定です」
「ここで?」
「はい」
「……そうですか」
それだけ言って、女は家へ戻っていった。
男はその背中を見送る。
「…………」
「おい」
「っ!」
突然後ろから声をかけられ、男が振り返った。
ガルドが立っていた。
「な、なんでしょう」
「いや」
ガルドは女が歩いていった方を見る。
それから男を見る。
「別に」
「…………?」
「頑張れよ」
「何をですか?」
「知らん」
ガルドは笑いながら歩いていった。
「……?」
男はしばらく首を傾げていた。
◇
日が沈む頃。
礼は空き家へ戻る途中で足を止めた。
井戸の近く。
昼間まで訓練していた場所には、もう誰もいない。
雪の上には、いくつもの足跡が残っていた。
その中に一本だけ、不自然に長く雪を削った跡がある。
最初に《童駆》を使った男が、止まれずに突っ込んだ跡だった。
「…………」
礼はそれを見る。
十一年前。
自分も、何度も失敗した。
力の存在に気づいても、どう使えばいいのか分からなかった。
正しいのかも分からない。
誰かに聞くこともできない。
失敗して。
考えて。
また試した。
それしかなかった。
今は。
「童師」
後ろから声がした。
礼が振り返る。
童術師の一人が立っている。
「夕食ができました」
「ああ」
「今日はドラゴンの肉ではありませんが」
「そうか」
「……残念そうですね」
「そんなことはない」
「そうですか?」
「ああ」
礼はもう一度、雪の跡を見る。
それから空き家へ向かって歩き出した。
「明日も三人を見るのか」
「はい。今日の続きを」
「そうか」
「童師もいらっしゃいますか?」
「いや」
礼は答えた。
「お前たちに任せる」
「……承知しました」
二人は並んで歩く。
背後には、今日初めて《童駆》を使った男の足跡が残っていた。
明日になれば、また雪が積もる。
その跡も、いずれ見えなくなる。
それでも、明日もここで続きをやる。
礼は空き家の戸を開けた。
「お帰りなさい、童師」
「ああ」
中から夕食の匂いが流れてくる。
「ただいま」
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