第九十五話 教えてほしい
朝から降っていた雪は、昼を過ぎる頃には弱くなっていた。
村の中央にある古い井戸の周りでは、何人かの村人が雪を掻いている。昨夜積もった分はそれほど多くない。それでも放っておけば凍りつき、足を取られる。
礼もその中にいた。
木製の雪掻きを押し、道の端へ雪を寄せる。
「童師様、そちらはもう十分です」
向かい側で作業していた男が声をかけてきた。
「まだ残ってる」
「そこまでやっていただかなくても」
「中途半端に残す方が面倒だろ」
「それはそうですが……」
礼は雪掻きを押した。
湿った雪が道の端へ寄せられていく。
「童師様」
「なんだ」
「その……《童術》を使えば、もっと早いのでは?」
「早いだろうな」
「使わないんですか?」
「必要ない」
礼はそのまま雪を押していく。
「これで十分だ」
「はあ……」
男は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
最近では、村人から童術について尋ねられることも増えた。
何ができるのか。
どうやって使うのか。
魔法とは何が違うのか。
最初の頃のような恐れは、もうほとんど感じない。
礼にとっては、その変化の方が不思議だった。
「童師よ」
聞き慣れた声に、礼は顔を上げた。
村長が立っていた。
「なんだ」
「少し話がある」
「今か?」
「ああ」
村長の顔を見る。
急を要する様子ではない。
だが、雑談をしに来た顔でもなかった。
礼は雪掻きを近くの男へ渡した。
「借りるぞ」
「はい、童師様」
村長とともに歩き出した。
◇
向かったのは村長の家だった。
中へ入ると、火の入った暖炉の前に椅子が二つ置かれていた。
「座ってくれ」
「ああ」
礼が腰を下ろす。
村長も向かいへ座った。
しばらく、薪の爆ぜる音だけが続いた。
「それで?」
礼から尋ねた。
「話ってなんだ」
「頼みがある」
「頼み?」
「ああ」
村長は少し考えてから、礼を見る。
「童師よ」
「なんだ」
「村の者にも、童術を教えてもらえんか」
礼は答えなかった。
聞き間違えたわけではない。
「……童術を?」
「ああ」
「村の人間に?」
「そうだ」
「…………」
礼は村長を見る。
最初にこの村へ来た日のことを思い出す。
三日だけ。
追手が来たら出ていくこと。
問題を起こさないこと。
そして。
「最初に言ったのは、あんただぞ」
「何がだ」
「村の者には教えるな、と」
「言ったな」
「いいのか」
「だから、言った俺が頼んでいる」
村長は迷わなかった。
「…………」
「お前たちがここへ来た時、俺たちはお前たちのことを何も知らなかった」
「ああ」
「童術というものも、異端の術としか聞いておらんかった。王国の兵と争っているという話もな」
「間違ってはいない」
「そうだな」
村長は頷いた。
「だから警戒した。それで村を守れると思った」
暖炉の中で薪が崩れた。
「今は違う」
礼は黙って聞いていた。
「お前たちが何者なのか、すべて分かったとは言わん。だが、少なくともここで何をしてきたかは見た」
「…………」
「雪を掻いた。屋根を直した。怪我人を治した。魔物を倒した」
村長が小さく息を吐く。
「ドラゴンまで食わせてもらった」
「美味かっただろ」
「そこは否定せん」
「そうか」
「話を逸らすな」
「逸らしてない」
村長は僅かに口元を緩めた。
だが、すぐに表情を戻した。
「今回のドラゴンも、お前がいたから何とかなった」
「ああ」
「だが、お前がいなかったら?」
礼は答えない。
「ドラゴンでなくてもいい。魔物でも、賊でもいい。何かがこの村を襲った時、お前たちがいるとは限らん」
「…………」
「この村は、この村にいる者で守らなければならん」
村長は礼を見る。
「そのための力が欲しい」
礼は腕を組んだ。
「使えるとは限らない」
「構わん」
「誰でも使えるものじゃない」
「それも構わん」
「魔法とは違う。使い方を間違えれば怪我もする」
「それは剣も斧も同じだ」
「…………」
「危険があるなら、危険があることも教えてくれ。その上で、やるかどうかは本人たちに決めさせる」
礼はしばらく考えた。
教えること自体は難しくない。
第一から第六までなら、もう教え方もある。
礼だけではない。
今ここにいる童術師なら、誰でも基礎を教えられる。
問題は、別のところにあった。
「……一つ、条件がある」
「なんだ」
「俺たちが教えるのは基礎だけだ」
「構わん」
「使えるようになったからといって、無理に戦わせるな」
「当然だ」
「使いたくない奴には使わせない」
「ああ」
「それでいいなら」
村長が待つ。
礼は小さく息を吐いた。
「教える」
「そうか」
「ああ」
「助かる」
村長は深く頭を下げなかった。
ただ、静かに頷いた。
「ありがとう、童師」
「まだ使える奴がいるかも分からないぞ」
「一人もいなければ、その時は諦める」
「そうしてくれ」
礼は立ち上がった。
「いつから始める」
「早い方がいい」
「じゃあ明日だ」
「分かった」
礼が戸へ向かう。
「童師」
「なんだ」
「頼んでおいてなんだが」
礼が振り返る。
「俺たちにも、本当に使えるものなのか?」
「…………」
礼は少し考えた。
「それを明日調べる」
今は、それ以上答えなかった。
◇
話は、その日のうちに村中へ広がった。
「童師様が童術を教えてくださるらしい」
最初はその程度だった。
それが夕方には、
「希望すれば誰でも習える」
になり、夜には、
「明日から童術師になれる」
に変わっていた。
「誰がそんなこと言った」
礼が尋ねる。
空き家に集まった童術師たちは顔を見合わせた。
「私たちではありません」
「村の方々の間で広がったようです」
「……そうか」
「訂正してきましょうか?」
「頼む」
「承知しました」
一人が立ち上がる。
その時、戸が開いた。
「礼」
ガルドだった。
「なんだ」
「聞いたぞ」
「何を」
「童術教えるんだって?」
「ああ」
「村長から頼まれた」
「へえ」
ガルドは空いている椅子へ腰を下ろした。
「なら俺もやってみるか」
礼がガルドを見る。
「…………」
「なんだよ」
「ガルド」
「おう」
「お前は多分、無理だ」
「なんでだよ」
「多分だから絶対とは言わない」
「だからなんでだって聞いてんだよ」
「…………」
礼は珍しく、すぐには答えなかった。
ガルドが眉を寄せる。
「なんだその顔」
「いや」
「言えよ」
「…………」
「礼」
「分かった」
礼は諦めたように息を吐いた。
「今まで童力を感じられた奴には、共通点がある」
「共通点?」
「ああ」
「何だ?」
「…………童貞だ」
部屋が静かになった。
「…………」
「…………」
ガルドが礼を見る。
礼もガルドを見る。
「礼」
「なんだ」
「俺には妻がいる」
「知ってる」
「子供も二人いる」
「知ってる」
「じゃあ分かるだろ!」
「だから最初に無理だと言った」
「じゃあそこで話終わらせろよ!」
「理由を聞いたのはお前だ」
「もうちょっと言い方あるだろ!」
「どう言えばいい」
「知らねえよ!」
ガルドの声が家の中に響いた。
童術師たちは誰も笑わない。
笑えるはずがなかった。
全員、童貞だった。
「……なんだよ」
ガルドが周囲を見る。
「お前ら、その顔やめろ」
「申し訳ありません」
「謝るな! 余計惨めになるだろ!」
「ガルド」
「なんだよ!」
「別に悪いことじゃない」
「お前に言われると腹立つな!」
その時。
開けたままだった戸の向こうから声がした。
「あなたには無理ね」
「…………」
全員が振り返る。
ガルドの妻が立っていた。
手には鍋がある。
「お前……いつからいた」
「子供たちに持っていってって頼まれたの。ドラゴンのお肉、煮込んだから」
「いや、それはいい。いつから聞いてた」
「童貞のあたりから」
「最悪だ!」
妻は笑いながら鍋を机へ置いた。
「でも童師様のおっしゃる通りでしょう?」
「何がだよ」
「あなたには無理」
「分かってるよ!」
「よかったじゃない」
「何が!?」
「私と結婚したから使えないんでしょう?」
「…………」
ガルドが止まった。
「なら、私は嬉しいけど」
「…………」
今度は礼がガルドを見る。
ガルドは頭を掻いた。
「……まあ」
「何?」
「そう言われりゃ、悪くはねえけど」
「でしょう?」
「ああ」
妻は満足そうに頷いた。
「じゃあ、私は帰るから。鍋、明日返してくださいね」
「ああ」
「童師様も、たくさん召し上がってください」
「ありがとう」
妻は戸を閉めて帰っていった。
静かになる。
礼はガルドを見る。
「よかったな」
「うるせえ」
「悪くないんだろ」
「お前は黙ってろ」
ガルドはそう言ったが、少しだけ笑っていた。
◇
翌朝。
村の中央には、予想していたより多くの人間が集まった。
若者だけではない。
壮年の男もいる。
女もいる。
老人まで混ざっていた。
「多いな」
礼が呟く。
「童師様!」
一人の男が手を上げる。
「年齢は関係ありますか?」
「分からない」
「分からないんですか?」
「試したことがない」
「女でも使えますか?」
別の声が飛ぶ。
「それも分からない」
「童師様でも分からないことがあるんですね」
「ある」
礼は即答した。
「俺が作った術だが、全部分かってるわけじゃない」
ざわめきが起きる。
礼は集まった者たちを見る。
少し離れた場所にはガルドもいた。
「なんでいる」
「見るだけだよ」
「そうか」
「……一応試すくらいはいいだろ?」
「好きにしろ」
「もしかしたら使えるかもしれねえ」
「そうだな」
「だろ?」
「童貞ならな」
「お前それ気に入っただろ!」
村人たちから笑い声が上がった。
「童師よ」
村長が隣へ来る。
「頼む」
「ああ」
礼は一歩前へ出た。
「最初に言っておく」
ざわめきが止まる。
「今日、技は教えない」
何人かが顔を見合わせた。
「まず、自分の中にあるものを感じられるか確かめる」
礼は胸へ手を置く。
「魔力とは違う」
十一年前。
礼自身が初めて見つけたもの。
誰にも教わらず、名前すらなかった力。
それを今は、他人へ教えている。
「目を閉じろ」
村人たちが従う。
「呼吸は普通でいい。無理に何かを探そうとするな」
雪が静かに降っている。
「魔力を使える奴は、そっちへ意識を向けるな。もっと別のものだ」
礼の周囲では、十四人の童術師たちが村人の間へ入っていく。
「分からなくても焦る必要はありません」
「何も感じなくても問題ありませんよ」
「力を抜いてください」
それぞれが声をかけていく。
礼はその光景を見た。
自分一人で教える必要は、もうなかった。
「…………」
視線を戻す。
「ゆっくりでいい」
数分が過ぎた。
何も起きない。
さらに待つ。
「分からんな」
老人が言った。
「俺もだ」
「何を感じればいいんだ?」
「だから、それを探してるんだろ」
少しずつ集中が切れ始める。
礼は急かさなかった。
使えないなら、それでいい。
村長も黙って見ている。
ガルドは目を閉じたまま、難しい顔をしていた。
「…………」
「…………」
「礼」
「なんだ」
「何も分からん」
「だろうな」
「もう少し悩めよ!」
笑いが起きた。
その時だった。
「……あの」
一人の声がした。
礼が振り返る。
若い男だった。
目を閉じたまま、自分の胸元を押さえている。
「どうした」
「なんというか……」
男は戸惑っていた。
「変な感じがします」
礼の表情が変わる。
「どんな感じだ」
「分かりません」
「何でもいい」
「……温かい、ような」
礼が歩み寄る。
男の前で止まる。
「どこだ」
「胸の奥……いや、身体の中というか……」
「目を開けるな」
「はい」
礼は男へ意識を向けた。
「そのまま、それを追え」
「はい」
「動かそうとするな。見るだけでいい」
男の呼吸がゆっくりになる。
礼には分かった。
微かだった。
まだ自分で扱えるようなものではない。
それでも、確かにそこにある。
魔力ではない。
礼が知っている力。
「…………」
「童師様?」
「そのまま続けろ」
「はい」
礼は立ち上がった。
「どうなのだ、童師」
村長が尋ねる。
礼は若い男を見る。
「あった」
周囲が静かになる。
「……何が?」
「童力だ」
ざわめきが広がった。
「俺にもあるのか?」
「次は俺だ!」
「静かにしろ」
礼が言うと、声が止まる。
「まだ使えるとは言ってない」
若い男も目を開けた。
「俺に……童力が?」
「ああ」
「じゃあ、童術を?」
「これからだ」
礼は答える。
「感じるのと、使うのは違う」
「はい」
「急ぐな」
「……はい!」
男は嬉しそうに頷いた。
礼はその顔を見てから、集まった村人たちへ向き直る。
「続けるぞ」
再び、村人たちが目を閉じた。
その日。
村で童力を感じ取れた者は、三人だった。
まだ、火を起こすこともできない。
速く走れるわけでもない。
剣が強くなったわけでもない。
ただ、自分の中に何かがあると分かった。
それだけだった。
◇
夕方。
礼は一人、空き家の前に立っていた。
「礼」
ガルドがやってくる。
「なんだ」
「三人だったな」
「ああ」
「少ないのか?」
「分からない」
「またそれか」
「本当に分からないんだ」
「そうか」
ガルドは礼の隣へ立つ。
「で?」
「なんだ」
「あの三人」
「ああ」
「やっぱり童貞なのか?」
「…………」
礼が黙る。
「おい」
「聞いてない」
「聞けよ!」
「なんで俺が聞くんだ」
「そこ重要なんじゃねえの!?」
「多分そうだ」
「多分じゃねえだろ!」
礼は少し考えた。
「お前が聞いてこい」
「絶対嫌だ!」
「じゃあ放っておけ」
「気になるだろ!」
「俺はそのうち分かればいい」
「研究者みたいな顔しやがって……」
ガルドはため息をついた。
礼は村の中央を見る。
三人のうちの一人が、まだそこにいた。
昼間、最初に童力を感じた若い男。
十四人の童術師の一人から何かを教わっている。
手の位置。
呼吸。
意識の向け方。
礼は遠くからそれを眺めた。
「礼」
「なんだ」
「嬉しいのか?」
「何が」
「村の奴が使えそうで」
礼はすぐには答えなかった。
「…………」
若い男が失敗する。
教えていた童術師が何かを言う。
もう一度試す。
また失敗する。
それでも、二人は続けていた。
「分からない」
礼は答えた。
「そうか」
「ああ」
ガルドはそれ以上聞かなかった。
少しして、村のあちこちから夕食の匂いが漂い始めた。
誰かが三人を呼びに来る。
今日の練習は終わったらしい。
若い男が童術師へ頭を下げる。
そして一緒に歩いていく。
礼はその姿を見送った。
十一年前。
誰にも教わることができなかった力を。
今は、誰かが誰かに教えている。
「礼」
「なんだ」
「飯だぞ」
「ああ」
「今日はうち来るか?」
「ドラゴンか?」
「まだある」
「行く」
「即答かよ」
二人は歩き出した。
雪の上に、並んだ足跡が残った。
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