第九十三話 ごちそう
ドラゴンの解体は、日が沈む直前まで続いた。
礼が想像していた以上に時間がかかった。
まず鱗が硬い。
普通の刃物ではまともに刃が入らず、礼が《童閃》を纏わせた刃で切れ目を作り、そこから童術師たちが少しずつ剥がしていった。
皮も厚かった。
筋肉はさらに重い。
一塊を切り出すだけで、成人した男が両腕で抱えなければならないほどだった。
「童師、こちらはどういたしますか?」
童術師の一人が、大きな肉の塊を持ち上げて尋ねた。
「それは食える」
「こちらも?」
「食える」
「これは?」
「それもだ」
「……ほとんど食べられるのですね」
「ああ」
礼はドラゴンの腹へ刃を入れながら答えた。
「部位によって味は違う」
「童師はお詳しいのですね」
「何度か食った」
「そうでしたね……」
もう驚くのを諦めたような声だった。
少し離れたところでは、ガルドが剥がされた鱗を一枚持ち上げていた。
「礼」
「なんだ」
「これ、本当に売れるぞ」
「そうか」
「そうかじゃねえよ。状態のいい鱗なら、一枚でも結構な値になる」
「なら取っておけ」
「牙も爪もだ。皮だって使える」
「それも村で使えばいい」
「お前はいらねえのか?」
「いらない」
「……欲があるんだかねえんだか分からんな、お前」
礼は答えず、切り出した肉を見る。
「そっちは鍋に入れる」
「結局肉しか見てねえじゃねえか」
「食えないだろ、それ」
礼が鱗を指した。
「売れるっつってんだよ」
「腹は膨れない」
「そういう問題か?」
「今はそうだ」
ガルドは何か言おうとして、やめた。
「……まあいい」
鱗を雪の上へ置く。
「今日くらいはな」
◇
村の中央に、大きな鍋が運ばれた。
普段、祭りや祝い事の時に使うものだった。
古い石井戸の近く。
葉をすべて落とした大木の下に薪が組まれ、その上で鍋が火にかけられる。
湯が沸き、野菜が入った。
芋。
蕪。
干して保存していた茸。
そして、ドラゴンの肉。
切り分けられた赤い肉が次々と鍋へ落とされていく。
それを村人たちは遠巻きに見ていた。
「……本当に食えるんだろうな」
誰かが言った。
「礼は食えると言っとる」
「礼はドラゴンを一人で狩る男だぞ」
「だからなんだ」
「俺たちと同じ腹してるのか?」
「知らん」
「本人に聞け」
「嫌だよ」
その会話を聞いていた礼が振り返る。
「聞こえてるぞ」
男たちは黙った。
ガルドが吹き出した。
「ほら、聞けばいいだろ」
「お前が聞け」
「俺は知ってる」
「食ったことあるのか?」
「ねえよ」
「じゃあ知らんだろ」
「礼が食って死んでねえんだから大丈夫だろ」
「基準がおかしい」
そんな声が飛び交う。
昼間まで村を包んでいた緊張は、もうほとんど残っていなかった。
鍋から、少しずつ香りが立ち始めた。
肉の脂が溶け、野菜の甘い匂いと混ざる。
それまで距離を取っていた子供たちが、いつの間にか鍋の近くへ集まっていた。
「まだ?」
「まだだ」
礼が答える。
「もう食べられそう!」
「まだだ」
「いつ?」
「もう少しだ」
「さっきも言った!」
「なら、もう少し待て」
「どのくらい?」
「知らん」
「礼、料理できないの?」
「できる」
「じゃあ分かるでしょ!」
「うるさいな」
ガルドの息子が鍋を覗こうとする。
礼はその襟を掴んで引き戻した。
「熱いぞ」
「見たい!」
「落ちる」
「落ちない!」
「お前が決めることじゃない」
「俺のことだよ!」
「そうだな」
礼は手を離さなかった。
近くでガルドの妻が笑っている。
「礼さん、すっかり慣れましたね」
「何がだ」
「子供です」
「慣れてない」
「そうですか?」
「ああ」
「じゃあ、どうして離さないんです?」
礼は自分の手を見る。
まだ少年の襟を掴んでいる。
「…………」
手を離した。
「落ちるなよ」
「落ちないって!」
少年は笑いながら妹のところへ走っていった。
やがて、ガルドの妻が鍋の肉を一つ取り出した。
小皿へ置き、少し冷ます。
「礼さん」
「なんだ」
「お願いします」
「俺?」
「言い出した人でしょう?」
「…………」
礼は小皿を受け取った。
肉を一切れ口へ入れる。
噛む。
久しぶりの味だった。
「どうだ?」
ガルドが聞く。
礼はもう一度噛んだ。
「美味い」
「それだけかよ」
「美味いぞ」
「分かったよ」
ガルドの妻が笑った。
「じゃあ、いいですね」
「ああ」
器が並べられた。
それでも最初に手を出す者は少なかった。
ドラゴン。
ほんの数時間前まで、その鳴き声だけで村中が家へ逃げ込んだ魔物だった。
それが今は、湯気を立てる肉になって器の中へ入っている。
村長が肉を見つめた。
「……昔な」
隣にいた老人が見る。
「王都では、ドラゴンの肉を食わせる店があると聞いたことがある」
「店で食えるのか?」
「金があればな」
「いくらだ」
「知らん」
「なんだそれ」
「俺が払える額じゃないことだけは知っとる」
村長は肉を箸で持ち上げた。
「まさか、この歳になって食うことになるとはな」
息を吹きかける。
それから、口へ運んだ。
ゆっくり噛む。
周囲の視線が集まった。
「…………」
「どうだ?」
村長は答えなかった。
もう一度噛む。
「おい」
「……うまい」
「本当か?」
「食ってみろ」
隣の老人も器へ手を伸ばす。
一口。
目を見開いた。
「……なんだこれ」
「うまいだろ」
「ああ」
それを見て、ようやく他の村人たちも手を伸ばし始めた。
「美味い!」
「本当だ!」
「柔らかいぞ」
「こっちの肉も取ってくれ!」
「待て、子供が先だ!」
「まだ鍋にあるだろ!」
「野菜も食え!」
「肉があるのに!?」
「野菜も食え!」
声が増えていった。
器が行き交う。
鍋の蓋を開けるたび、白い湯気が夜空へ昇った。
童術師たちも、村人に混じって座っていた。
一人が肉を口へ運ぶ。
「…………」
しばらく噛んでから、礼を見る。
「童師」
「なんだ」
「……美味しいです」
「だろ」
「申し訳ありません。正直なところ、半信半疑でした」
「何がだ」
「ドラゴンの肉が美味しいというお話です」
「嘘を言ってどうする」
「そうなのですが……」
男はもう一切れ食べた。
「《童貞破》を使わなくて、本当によかったですね」
「ああ」
別の童術師も頷いた。
「これがすべて消し飛んでいたかもしれないと考えると……」
「勿体ないだろ」
「はい」
「だから言った」
「はい。今ならよく分かります」
真剣に頷いている。
礼も頷いた。
少し離れた場所で聞いていたガルドが呆れた顔をしていた。
「なんでお前ら、そこだけ妙に意気投合してんだよ」
「食えば分かる」
礼が言う。
「俺も食ってるよ!」
「なら分かるだろ」
「……美味いけどよ」
ガルドは器を見る。
「確かに、これ吹き飛ばすのは勿体ねえな」
「だろ」
「くそ。納得したくねえ」
周囲から笑い声が上がった。
ガルドの息子が肉を頬張りながら礼のところへ来た。
「礼!」
「口に入れたまま喋るな」
少年は慌てて飲み込んだ。
「礼!」
「なんだ」
「これ、本当にあのドラゴン?」
「ああ」
「礼が倒した?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
「すげえ!」
「そうか」
「どうやって倒したの!?」
「刺した」
「どこ!?」
「首の近く」
「剣で!?」
「ああ」
「飛んだ!?」
「少し」
「俺もできる!?」
「無理だ」
「なんで!」
「危ないからだ」
「童術覚えたら!?」
「教えない」
「なんで!」
「約束だからだ」
少年が頬を膨らませる。
礼はその器を見る。
「肉、冷めるぞ」
「あっ!」
少年は慌てて戻っていった。
その後ろ姿を、礼は少しだけ目で追った。
夜が深くなっても、鍋の周りから人は減らなかった。
誰かが家から酒を持ってきた。
別の家から追加の野菜が届いた。
肉なら、まだいくらでもある。
「今日は好きなだけ食え!」
誰かが叫んだ。
「明日もあるぞ!」
「なら明日も食う!」
「毎日ドラゴンじゃねえか!」
「一生分食っとけ!」
笑い声が上がる。
老人の一人が器を掲げた。
「俺はもう十分長く生きたと思ってたがな。まさかドラゴンまで食えるとは思わなかった」
「まだ死ぬなよ」
「もう一杯食ってから考える」
「考えるな!」
また笑いが起きた。
礼は大木の近くに座っていた。
手には、木の器。
中には肉と野菜が残っている。
少し離れたところでは、童術師の一人が老婆に肉をよそっていた。
「もっと取りな」
「いえ、私は十分いただきました」
「あんたたち若いんだから食べな」
「ですが――」
「いいから」
「……ありがとうございます」
別の場所では、村の男たちと童術師たちが何かを話している。
誰かが笑う。
それにつられて、別の誰かも笑った。
子供たちはドラゴンの話をしている。
ガルドの息子は、すでに自分がドラゴンと戦ったことになっていた。
「俺がこうやって!」
「お前は家にいただろ」
ガルドがすぐに訂正する。
「礼と一緒に戦った!」
「戦ってねえ」
「応援してた!」
「家の中でな」
「応援は応援だもん!」
「そうかよ」
ガルドの妻が笑う。
その隣で、娘が肉を両手で持って食べている。
礼は器の中へ視線を落とした。
三日前まで、この家で食べていたものは、村人からもらった芋だった。
黒パンをもらった。
野菜をもらった。
干し肉をもらった。
毛布を借りた。
鍋を借りた。
皿をもらった。
雪が降れば、ここにいろと言われた。
受け取ったものは、いつの間にか数えられないほど増えていた。
「礼」
ガルドが隣へ座った。
「なんだ」
「食ってるか?」
「ああ」
ガルドは礼の器を見る。
「少なくねえか?」
「十分だ」
「お前が狩ったんだぞ。一番食え」
「まだ鍋にある」
「だから食え」
ガルドが自分の器から肉を一切れ取る。
礼の器へ入れた。
「いらない」
「返すなよ」
「自分で食え」
「俺はもう食った」
「俺も食った」
「じゃあもう一切れ食え」
「…………」
「いいから」
礼は肉を見る。
仕方なく口へ運んだ。
「美味いか?」
「ああ」
「よかったな」
「何がだ」
「ドラゴン食えて」
「ああ」
ガルドは笑った。
礼も肉を噛む。
また、笑い声が聞こえた。
礼は顔を上げた。
古い井戸の周り。
葉のない大木の下。
湯気を上げる大鍋を囲んで、村人たちが笑っている。
その中に童術師たちがいた。
もう少し肉をくれと言う子供に、童術師が自分の器から一切れ渡している。
村長は酒を飲みながら、ドラゴンの鱗をどうするかでガルドと揉めていた。
老婆は鍋の野菜が少ないと文句を言っている。
誰かが薪を足した。
火の粉が夜空へ舞った。
今夜、鍋の中に入っているものだけは。
礼が持って帰ってきたものだった。
「…………」
礼はしばらく、その光景を見ていた。
誰にも声をかけなかった。
誰からも声をかけられなかった。
ただ、見ていた。
やがて。
ほんの僅かに、礼の口元が緩んだ。
「……悪くないな」
呟きは、周囲の笑い声に紛れて消えた。
礼は器へ視線を戻し、もう一切れ、ドラゴンの肉を口へ運んだ。




