第九十一 話 ドラゴンの肉
鐘の音が、雪に覆われた村へ響き渡った。
家畜が騒ぎ、犬が吠える。家の外に出ていた村人たちは手にしていた道具を放り出すようにして、それぞれの家へ駆け戻っていった。
「子供を中へ入れろ!」
「家畜もだ! 早くしろ!」
「火はどうする!」
「煙を出すな! 消せるところは消せ!」
村長の怒鳴り声が飛ぶ。
つい先ほどまで静かだった村の空気が、一度の鳴き声で変わっていた。
童術師たちは空き家の前に集まり、慌ただしく動き始めた村人たちを見ている。
「童師」
一人が礼へ尋ねた。
「あれが、ドラゴンなのですか」
「ああ」
「姿は見えませんが……」
「山の向こうだろうな」
礼は北を見た。
降り続く雪に遮られ、山の稜線すら霞んでいる。
それでも、聞き間違えることはなかった。
長く、低く、腹の底まで震わせるような咆哮。
七年間、この世界を歩いてきた。
その間に何度か聞いた声だった。
――――ォォォォォォォォ……。
二度目の咆哮が響く。
空気が震え、近くの屋根から雪の塊が落ちた。
童術師の一人が空を見上げる。
「かなり離れているはずですよね」
「ああ」
「それで、ここまで……」
返事をしたのは礼ではなかった。
「お前ら、ドラゴンを見たことねえのか」
ガルドだった。
いつもの軽い調子は消えている。
「ありません」
「話だけなら」
「そうか」
ガルドは北の山を睨んだ。
「なら覚えとけ。あれは、普通の魔物だと思うな」
「どれほどなのですか」
「個体による。若い奴と、何十年も生きた奴じゃ話が違う」
ガルドは残った右手で外套の襟を引き上げた。
「それでも、討伐依頼が出りゃS級案件だ」
「S級……」
「一人でどうにかしようなんて考える奴はいねえ。S級冒険者を何人も集める。それでも怪我人が出る。相手が悪けりゃ、死人だって珍しくねえ」
童術師たちの表情が変わった。
礼について七年間を生き延びてきた者たちだ。魔物と戦った経験も一度や二度ではない。
それでも、ドラゴンを相手にした者はいなかった。
「鱗には並の剣じゃ刃が立たねえ。空を飛ぶ。爪も尾も、人間なら一発で終わりだ。種類によっちゃ火も吐く」
「火を……」
「ああ。だから村へ来ないことを祈るしかねえ」
ガルドが言った。
「山を越えていくだけなら、それでいい。下手に刺激する方が危険だ」
「そうですね」
童術師の一人が頷く。
「童師」
「なんだ」
「念のため、村の外で迎撃できる準備をしておきますか?」
「いらない」
「しかし、こちらへ向かってきた場合は」
「その時は俺が出る」
ガルドが礼を見た。
「おい」
「なんだ」
「今、なんつった?」
「俺が出る」
「聞こえてたよ」
ガルドが一歩近づく。
「礼。ドラゴンだぞ」
「知ってる」
「俺の話聞いてたか?」
「聞いてた」
「S級が何人も集まってやる相手だ」
「ああ」
「じゃあなんでそんな普通なんだよ」
「普通だからだ」
「どこがだ」
礼は答えず、北の山を見た。
ガルドも礼を見たまま黙る。
その横で、童術師たちが小声で話していた。
「もし戦闘になれば、第五でしょうか」
「《童貞破》ですか?」
「あれほどの魔物なら……」
礼が視線だけを向ける。
別の童術師が村の方を振り返った。
「ですが、この距離では危険では。童師の《童貞破》を使えば、場合によっては村にまで――」
「使わない」
礼が言った。
全員の視線が集まる。
「やはり村への被害を?」
「いや」
「では?」
「肉が残らん」
沈黙した。
雪だけが静かに降っている。
「…………」
「…………」
最初に口を開いたのは、童術師だった。
「肉……ですか?」
「ああ」
「ドラゴンの?」
「他に何がある」
ガルドが額を押さえた。
「待て」
「なんだ」
「お前、さっきから何の話してる?」
「ドラゴンだ」
「そうじゃねえ」
ガルドは礼を指差す。
「村に被害が出るかもしれねえから《童貞破》を使わねえんじゃないのか?」
「それもある」
「先にそっち言えよ!」
「どちらにしても使わない」
「だからなんでだよ!」
「肉が残らない」
「結局そっちじゃねえか!」
ガルドの声が村に響いた。
家へ駆け込もうとしていた村人が何事かと振り返る。
「静かにしろ」
「お前のせいだろ!」
「ドラゴンに聞こえるぞ」
「お前がそれ言うのか!?」
礼は相手にせず、もう一度北を見る。
雪の向こうからは、それ以上の咆哮は聞こえなかった。
「童師」
一人が恐る恐る声をかける。
「先ほど、久しく食べていないと……」
「ああ」
「以前にも、ドラゴンを?」
「何度か」
「討伐なさったのですか?」
「食った」
「…………」
「美味いぞ」
童術師たちは顔を見合わせた。
ガルドが低く呟く。
「お前、俺の知らねえ七年で何やってたんだ」
「色々だ」
「ドラゴン食うのを色々で済ますな」
「他にもある」
「聞きたくねえ」
ガルドはそう言ったが、礼は最初から話すつもりもなかった。
村長が駆けてきた。
「礼!」
「なんだ」
「今の話は本当か」
「何の話だ」
「ドラゴンと戦うつもりだと聞こえたぞ」
「まだ決めてない」
村長の表情が僅かに緩む。
「そうか。なら――」
「姿を確認してからだ」
「そういう意味じゃない!」
村長は礼の前まで来た。
「あれが山を越えていくだけなら放っておけ。刺激するな」
「分かってる」
「分かっている顔に見えん」
「どんな顔だ」
「食い物を見る顔だ!」
礼は少し考えた。
「まだ見えてない」
「そういう話をしてるんじゃない!」
後ろでガルドが笑った。
「笑い事じゃないぞ!」
「悪い。けど俺も同じこと言った」
「止めろ!」
「止まると思うか?」
村長が礼を見る。
礼は答えなかった。
その時だった。
――――ォォォォォォォォォォォッ!
先ほどまでとは違う。
明らかに近い。
雪の積もった地面が僅かに震えた。
家畜が一斉に鳴き始める。
「……来るぞ」
ガルドの表情から、再び笑みが消えた。
礼も北を見た。
白い空。
雪。
山。
その向こうに、黒い影が浮かんだ。
最初は鳥のように見えた。
だが、大きさが違う。
一度、翼が動く。
雪雲の一部が揺れたように見えた。
「……でかい」
誰かが呟いた。
影はゆっくりと旋回していた。
村の上空ではない。
まだ遠い。
だが、確実に近づいている。
「全員、家に入れ!」
村長が叫ぶ。
「外に出るな! 窓も閉めろ!」
村人たちが走る。
童術師たちも動こうとした。
「童師」
「村を手伝え」
「童師は?」
「見てくる」
「私たちも――」
「いらない」
即答だった。
「ですが」
「お前たちはドラゴンと戦ったことがない」
「……はい」
「飛ぶ。爪も尾も使う。火を吐く可能性もある。初めて相手にするなら、動きを知っている奴と複数でやるべきだ」
「でしたら、なおさら童師お一人では――」
「俺は知ってる」
言葉が止まった。
「村にいろ」
「……承知しました」
全員が従った。
礼は外套を締め直す。
「礼」
ガルドが呼び止めた。
「なんだ」
「本当に行くのか」
「ああ」
「まだ村に来ると決まったわけじゃねえぞ」
「分かってる」
「なら、様子を見るだけにしろ」
「そのつもりだ」
ガルドが目を細める。
「……本当に?」
「ああ」
「食いたいからって襲うなよ」
礼は黙った。
「おい」
「…………」
「礼」
「近くで見るだけだ」
「今の間はなんだ!」
礼は雪を踏み、村の外へ向かった。
村から北へ進むと、雪はさらに深くなった。
礼は《童駆》を使わず、しばらく歩いた。
空を見ながら、影の位置を確認する。
ドラゴンは山裾を大きく旋回していた。
村へ一直線に向かっているわけではない。
獲物を探している。
礼は足を止めた。
「…………」
放っておいてもいい。
このまま北へ戻る可能性もある。
少なくとも、今すぐ村を襲う様子はなかった。
礼は目を細める。
距離はまだある。
翼を広げた姿は、以前に見た個体より一回り大きい。
尾も長い。
身体を覆う鱗は黒に近い灰色だった。
「……悪くないな」
礼は呟いた。
何が悪くないのか、自分でも説明する必要は感じなかった。
ドラゴンが旋回する。
頭が動いた。
礼の方を向く。
「…………」
目が合った。
距離はある。
それでも分かった。
見つかった。
――――ォォォォォォォォォォォッ!
咆哮。
巨大な翼が動いた。
積もった雪が舞い上がり、木々が大きく揺れる。
ドラゴンの身体が、礼へ向きを変えた。
「そうなるか」
礼は外套の留め具を外した。
風に煽られないよう、近くの枝へ掛ける。
両腕を軽く動かす。
首を鳴らした。
雪原へ巨大な影が落ちる。
礼はそれを見上げた。
「童貞破はなしだな」
口元から白い息が漏れる。
「肉が勿体ない」
次の瞬間。
礼の足元から雪が爆ぜた。
第一童式――《童駆》。
礼の姿が、雪原から消えた。
◇
「……行っちまった」
村の入口で、ガルドが呟いた。
隣では村長が青い顔で北を見ている。
「止めなくてよかったのか」
「止めた」
「もっと止めろ!」
「お前も止めただろ」
「止まらんかった!」
「俺もだよ」
空き家の前では、童術師たちが周囲を警戒している。
誰も礼を追わなかった。
命令されたからではある。
だが、それだけではない。
遠くの空を飛ぶ巨大な影を見れば、自分たちが相手を知らないという礼の言葉が理解できた。
「……本当に、お一人で大丈夫なのでしょうか」
一人が呟く。
別の男が答える。
「分からない」
「童師が負けるところを、私は見たことがありません」
「私もだ」
「ですが、あれは……」
その時。
ドォン――!
遠くで、鈍い音が響いた。
山の斜面から雪が崩れ落ちる。
「始まった……」
村人たちが息を呑む。
ガルドも北を見る。
空にいた巨大な影が、急激に高度を落とした。
だが、すぐに再び上昇する。
咆哮が響いた。
今度は、怒りを含んでいた。
「礼……」
ガルドが小さく呟く。
◇
巨大な尾が雪原を薙いだ。
礼は跳ぶ。
直後、背後の木がまとめて折れた。
「相変わらずだな」
着地。
ドラゴンが振り返る。
間近で見ると、さらに大きい。
四肢は太く、前脚の爪だけで礼の腕ほどの長さがある。灰黒色の鱗が全身を覆い、その隙間から熱を帯びた魔力が漏れていた。
礼は右腕へ童力を巡らせる。
第三童式《童衣》。
淡い膜が全身を覆う。
ドラゴンが前脚を振り下ろした。
礼は横へ滑る。
爪が地面へ突き刺さり、雪と土が弾けた。
その前脚へ踏み込む。
拳を握る。
「第二童式――《童撃》」
打ち込んだ。
重い衝撃が鱗を通り抜ける。
ドラゴンの巨体が傾いた。
だが、倒れない。
礼はすぐに距離を取る。
「硬いな」
ドラゴンが口を開く。
喉の奥が赤く光った。
「火か」
礼は走った。
次の瞬間、炎が雪原を焼き払った。
雪が一瞬で蒸気へ変わり、白い視界がさらに白く染まる。
礼は炎の外へ抜ける。
背後では木々が燃えていた。
「……あれは駄目だな」
肉が焼ける。
礼にとって、それは看過できなかった。
ドラゴンが翼を広げる。
再び空へ上がろうとする。
礼は右手を伸ばした。
童力が集まる。
一瞬だけ、《童貞破》という選択肢が頭をよぎった。
「…………」
やめた。
「勿体ない」
代わりに、空だった右手へ一本の槍が現れる。
第七童式――《万装顕現》。
長く、太い槍。
礼はドラゴンを見る。
翼。
胸。
首。
腹。
どこを傷つけても肉が減る。
「…………」
礼は少し考えた。
「面倒だな」
ドラゴンが飛び上がる。
礼は槍を構えた。
狙う場所を変える。
「そこなら、食うところも少ないか」
翼の付け根。
礼の身体が沈む。
第一《童駆》。
踏み込みと同時に、槍を投げた。
空気が破裂した。
槍は一直線に飛び、ドラゴンの翼の付け根を貫いた。
――――ギャアアアアアアアアッ!
初めて、咆哮ではない声が上がった。
片翼が崩れる。
巨体が傾く。
雪原へ落下する。
礼はそれを見ながら走った。
「落ち方が悪い」
地面へ叩きつけられれば、それだけ肉が傷む。
「……仕方ない」
礼は速度を上げた。
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