第九十話 雪が止むまで
七日は、思っていたより早く過ぎた。
礼たちが村へ戻った翌日も、その次の日も雪は降った。
朝になれば屋根から雪を下ろし、昼には薪を運び、夕方になれば家畜小屋を見て回る。夜の間に井戸の周りが凍れば翌朝には誰かが氷を割り、雪の重みで柵が傾けば、その日のうちに直した。
最初の三日間と、やっていることはそれほど変わらない。
変わったのは、頼まれ方だった。
「悪い、二人ほど空いてるか?」
「はい。何でしょうか」
「南の家の屋根だ。雪が重くなってる」
「分かりました」
「終わったらこっちも頼めるか?」
「何かございましたか?」
「薪が足りん」
「では、そちらは私が」
空き家の前で話がまとまり、それぞれが散っていく。
誰かが礼に確認することも少なくなった。
危険なことをするわけでもない。童術を使う時の決まりも、すでに全員が知っている。
礼も止めなかった。
「童師」
空き家を出ようとした男が振り返る。
「なんだ」
「西側の雪下ろしへ行ってまいります」
「ああ」
「昼には戻ります」
「分かった」
それだけだった。
扉が閉まる。
礼は炉の前に座ったまま、鍋へ薪を一本足した。
昼を過ぎる頃には、別の者が帰ってきた。
手に大きな籠を抱えている。
「またか」
「……はい」
「今日は何だ」
「蕪です」
「そうか」
「それと干し肉を」
「何をした」
「屋根の雪を下ろしました」
「それだけか」
「はい」
「断ったのか」
「もちろんです」
「それで?」
「『うちだけじゃ食い切れん』と」
礼は籠を見る。
蕪が六つ。
その上に布で包まれた干し肉が載っている。
「本当に食い切れないのか」
「分かりません」
「…………」
「返してまいりますか?」
礼は少し考えた。
「いや」
「では」
「今夜使え」
「はい」
男は籠を持って奥へ向かった。
その背中を見ながら、礼は呟いた。
「……増えてるな」
「何がですか?」
「食い物だ」
近くにいた童術師が棚を見る。
三日前には何もなかった棚には、芋、干した野菜、黒パン、それに瓶へ入った何かまで置かれていた。
「そうですね」
「俺たちは買ってないぞ」
「はい」
「返した方がいいんじゃないか」
「どちらのお宅からいただいた物か、分からないものもあります」
「…………」
「先ほども、扉の前に野菜が置かれていました」
「誰だ」
「分かりません」
礼は眉を寄せた。
「見張っておけ」
「野菜をですか?」
「置いた奴をだ」
「承知しました」
「いや」
礼は止めた。
「やっぱりいい」
「よろしいのですか?」
「野菜を置く奴を捕まえてどうする」
「確かに」
童術師が僅かに笑った。
七日の間に、空き家の中も少し変わった。
最初にもらった小さな鍋。
欠けた皿。
十四枚になった毛布。
誰かが持ってきた木箱。
濡れた外套を掛けるため、壁には簡単な棒が取りつけられた。
入口には雪を落とすための板まで置かれている。
それを作ったのが誰だったのか、礼は知らなかった。
「これ、前からあったか?」
「いいえ」
「誰が置いた」
「村の方ではないでしょうか」
「誰だ」
「分かりません」
「…………」
分からない物が増えていた。
ガルドの家へ行くことも増えた。
理由は大したものではない。
柵を直す。
薪を割る。
家畜の餌を運ぶ。
時には、ただ呼ばれただけだった。
「礼、飯食ってけ」
「戻ればある」
「作っちまった」
「何を」
「シチュー」
「いらない」
「肉入りだぞ」
「…………」
「食うだろ?」
「少しだけだ」
「最初からそう言え」
ガルドの妻が笑う。
子供たちは、もう礼が家へ入っても隠れなくなった。
「礼!」
息子が駆けてくる。
「これ!」
差し出されたのは木の枝だった。
「なんだ」
「剣!」
「枝だろ」
「剣!」
「そうか」
「戦おう!」
「嫌だ」
「なんで!」
「飯を食う」
「食べたら!」
「嫌だ」
「礼、弱いの?」
「そうだな」
「嘘つけ」
ガルドが笑った。
「お前が余計なこと言うからだ」
「俺、何も言ってねえぞ」
「顔が言ってる」
「どんな顔だよ」
息子は礼の周りを回りながら、枝を振っている。
「勝負!」
「しない」
「一回だけ!」
「しない」
「じゃあ俺の勝ち!」
「ああ」
「やった!」
少年は満足そうに走っていった。
礼は椅子へ座る。
ガルドが向かいに座った。
「負けたな」
「ああ」
「随分あっさり認めたじゃねえか」
「勝ちたいなら勝たせればいい」
「子供相手だからって舐めてると、そのうち本気で殴られるぞ」
「その時考える」
ガルドの妻が二人の前へシチューを置いた。
湯気が立つ。
「いただきます」
礼は匙を取った。
そして、七日目。
朝から空き家では荷物の確認が始まっていた。
「童師」
「ああ」
「食料は三日分ほどあります」
「十分だ」
「いただいた物は?」
「持っていける分だけ持つ。残りは返せ」
「承知しました」
「鍋は」
「いただいた一つを除き、お返しします」
「毛布もだ」
「はい」
また同じことをしている。
三日目の朝にも、同じように荷物をまとめた。
礼は自分の荷物を確認しながら窓の外を見る。
雪が降っていた。
珍しいことではない。
この村へ来てから、何度も見た。
ただ、その日は少し違った。
風が強い。
窓へ細かな雪が叩きつけられ、外の景色が白く霞んでいる。
「……強いな」
「はい」
「昼まで待つか」
「承知しました」
礼は荷物を置いた。
昼になっても、雪は弱まらなかった。
むしろ風は強くなっている。
村の家々も輪郭が霞み、少し離れれば人の姿すら見えにくい。
「今日は無理ですね」
一人が言った。
「夕方まで待つ」
「はい」
夕方になった。
雪は止まなかった。
「馬鹿か、お前は」
空き家へやってきたガルドは、開口一番そう言った。
「なんだ」
「なんだじゃねえ。出る気だったのか」
「ああ」
「外見たか?」
「見た」
「見てなんで出ようと思うんだよ」
「まだ出てない」
「出ようとはしたんだろ」
「昼まではな」
「同じだ」
ガルドは肩についた雪を払い落とした。
「北へ行くんだろ?」
「ああ」
「ここよりひどくなるぞ」
「分かってる」
「分かってねえから言ってんだよ」
礼は答えなかった。
ガルドが炉へ近づき、手を温める。
「この辺の冬は長い」
「知ってる」
「知らねえよ。お前、ここで冬越したことないだろ」
「…………」
「山に入ったら道なんか消える。吹雪けば方向も分からなくなる。谷に落ちても春まで見つからねえぞ」
「俺たちなら――」
「童術があれば何でもできるのか?」
礼が黙る。
「違うだろ」
「ああ」
「なら今日はやめろ」
「今日は出ない」
「明日もだ」
「それは明日決める」
「面倒くせえ奴だな」
「お前に言われたくない」
ガルドはため息をついた。
その夜、村長もやってきた。
「雪が止むまでいろ」
礼は炉の向こうに座る老人を見た。
「七日と言っただろ」
「言った」
「今日で七日だ」
「それも分かっとる」
「なら」
「だからなんだ」
村長が礼を睨む。
「この吹雪の中へ出ていって死なれたら、寝覚めが悪い」
「死なない」
「そういう話をしてるんじゃない」
「…………」
「雪が止むまでだ」
「いつ止む」
「知らん」
「一日か」
「知らん」
「三日か」
「知らん」
「一週間か」
「知らんと言っとるだろうが」
礼は窓を見る。
風が唸っている。
「……雪が止むまで」
「ああ」
「止んだら出る」
「好きにしろ」
「分かった」
村長が立ち上がる。
扉へ向かい、途中で振り返った。
「あと、明日の朝は東の屋根を手伝ってやってくれ」
「…………」
「雪が重い」
「今の話の直後に頼むのか」
「いるんだろ?」
「雪が止むまではな」
「なら頼んだ」
村長は出ていった。
扉が閉まる。
しばらく誰も何も言わなかった。
「童師」
「なんだ」
「荷物は」
「ほどけ」
「はい」
また荷物が開かれる。
外套が掛けられ、毛布が敷き直される。
返す予定だった鍋も、明日の朝までそのままになった。
礼は炉の火を見つめる。
「……今度は何日だ」
誰かが小さく呟いた。
「知らん」
礼が答えた。
その夜も、雪は降り続けた。
三日後。
吹雪は収まった。
だが、雪は止まなかった。
空から大粒の雪が、音もなく落ち続けている。
村の屋根には厚い雪が積もり、道の両脇には人の腰ほどの雪壁ができていた。
礼は空き家の前で空を見上げた。
「これを止んだと言うか?」
隣にいたガルドが首を横に振る。
「言わねえな」
「いつ止む」
「知らん」
「村長と同じこと言うな」
「俺に雪を止めろってのか?」
「できるなら頼む」
「無茶言うな」
礼は息を吐いた。
白い息がすぐに風へ消える。
その時だった。
――――ォォォォォォォォ……。
遠く。
北の山々の向こうから、低い音が響いた。
礼が顔を上げる。
ガルドの表情から、笑みが消えた。
家畜小屋から馬の嘶きが聞こえる。
犬が吠え始めた。
村の中で、何人かが同時に空を見上げる。
「……今のは」
空き家から出てきた童術師が尋ねた。
ガルドは答えなかった。
もう一度。
――――ォォォォォォォォ……。
先ほどより近い。
腹の底まで震わせるような鳴き声だった。
「家に入れ」
ガルドが言った。
「ガルド?」
「全員だ。外にいる奴も呼び戻せ」
声が変わっていた。
「早くしろ!」
村の中央で鐘が鳴り始める。
礼は北を見る。
白く霞む山々。
その向こうに、まだ姿は見えない。
「童師」
一人が礼を見る。
「あれは、何でしょうか」
礼は少しだけ目を細めた。
「ドラゴンだ」
「……ドラゴン?」
「ああ」
礼はもう一度、山の向こうを見る。
しばらく黙っていた。
「…………」
そして、小さく呟いた。
「久しく食ってないな」
「……はい?」
隣にいた童術師が聞き返す。
礼は北の山を見たまま答えた。
「ドラゴンの肉だ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです!
皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




