第八十九話 あと七日
礼が空き家の扉を開けると、冷え切った空気が流れ出してきた。
つい先ほどまで三日間を過ごしていた場所だったが、すでに生活の気配はほとんど残っていない。床は掃き終え、炉の火も落としてある。借りていた毛布や食器、鍋もすべて持ち主へ返し、壁際には使い切れなかった薪だけが綺麗に積まれていた。
その部屋へ、十四人が荷物を背負ったまま戻ってくる。
礼は入口に立ち、しばらく室内を眺めた。
「童師」
「なんだ」
「……どういたしましょう」
「何がだ」
「毛布も食器も、すべて返してしまいました」
「ああ」
「鍋もありません」
「ああ」
「今夜はどうなさいますか?」
礼は黙った。
朝、自分が返すように言った。今日で三日目なのだから、それ自体は間違っていない。
ただ、予定が変わった。
「……もう一度借りてこい」
「やはり、そうなりますか」
「他にどうする」
「いえ」
男は頷いた。
その隣で、誰かが小さく笑った。
礼がそちらを見る。
「何がおかしい」
「申し訳ありません」
「笑ってるだろ」
「少しだけ」
「…………」
礼は背負っていた荷物を床へ下ろした。
「毛布と食器。それから鍋もだ」
「はい」
「借りてこい」
「承知しました」
二人が外へ向かう。
扉を開ける直前、一人が振り返った。
「童師」
「なんだ」
「今度は、いつ返せばよろしいでしょうか」
「七日後だろ」
「また延びた場合は?」
「…………」
礼は男を見る。
男は真面目な顔をしていた。
「先に聞いておこうかと思いまして」
「その時考えろ」
「承知しました」
扉が閉まる。
今度は何人かが声を殺して笑った。
「聞こえてるぞ」
笑い声が少しだけ大きくなった。
二人は、朝にも訪ねたばかりの家へ向かった。
扉を叩くと、中から女が顔を出した。
「あら」
「先ほどは、ありがとうございました」
「ああ。どうしたんだい?」
「その……」
二人は顔を見合わせる。
「毛布を、もう一度お借りできますでしょうか」
「…………」
「あと七日、滞在することになりまして」
女はしばらく二人を見た。
それから、声を上げて笑った。
「何やってんだい、あんたたち」
「私たちも、そう思います」
「ちょっと待ってな」
女が家の奥へ戻っていく。
やがて抱えてきた毛布は、朝に返したものより多かった。
「どうぞ」
「……多くありませんか?」
「十四人いるんだろ?」
「ですが、昨日まではこれほど――」
「寒かっただろ」
「それは……はい」
「なら持ってきな」
「しかし」
「いいから」
押しつけられた。
二人は大量の毛布を抱えながら、もう一度顔を見合わせた。
「ありがとうございます」
「今度返しに来る時は、本当に出ていく時にしなよ」
「……善処します」
「そこは『はい』だろ」
また笑われた。
鍋も同じだった。
「また貸してくれって?」
「はい」
「朝返したばっかりじゃねえか」
「申し訳ありません」
「ったく。村長も面倒なことするな」
老人はぶつぶつ言いながら、朝に受け取った鍋を持ってきた。
さらに奥へ戻ると、もう一つ小さな鍋を抱えてくる。
「これも持ってけ」
「こちらは?」
「昔使ってたやつだ。底が少し歪んでる」
「お借りしてよろしいのですか?」
「いらん。やる」
「ですが、まだ使えます」
「使えるからやるんだろうが」
「…………」
「十四人もいるんだ。鍋二つじゃ足りんだろ」
二人は小さな鍋を見る。
「……ありがとうございます」
「壊しても返さなくていいからな」
「大切に使います」
「壊してもいいっつってんだよ」
老人は面倒そうに手を振った。
昼前。
空き家には再び火が入った。
返したはずの毛布は、以前より増えて戻ってきた。食器の中にも、見覚えのない欠けた皿が何枚か混じっている。
礼はその一枚を持ち上げた。
「これは?」
「いただきました」
「借りたんじゃないのか」
「そのつもりだったのですが、『欠けているから持っていけ』と」
「使えるだろ」
「私もそう申し上げました」
「それで?」
「『だから使え』と」
「…………」
礼は皿を戻した。
炉の上では、もらったばかりの小さな鍋から湯気が立っている。
三日前、この家に入った時には何もなかった。
今は毛布が増え、皿が増え、鍋が一つ増えている。
「童師」
「なんだ」
「こちらを」
差し出されたのは木箱だった。
中には芋が入っている。
「これはどこからだ」
「分かりません」
「分からない?」
「外に置かれていました」
「誰も見てないのか」
「はい」
礼は芋を一つ持ち上げた。
泥のついた、小さな芋だった。
「返せないな」
「はい」
「……食うか」
「はい」
昼食は、その芋になった。
午後になると、空き家の前へ村の男がやってきた。
「おーい」
外にいた童術師が振り返る。
「何でしょうか」
「二人くらい手ぇ空いてるか?」
「何かございましたか?」
「薪を運びたいんだ。昨日の雪で置き場の屋根が少し潰れてな」
「分かりました」
「術は使わなくていいぞ。近くだから」
「承知しました」
二人がついていく。
それから一時間もしないうちに、別の村人がやってきた。
「悪い、こっちも頼めるか?」
「何でしょうか」
「家畜小屋の柵だ。傾いてる」
「確認いたします」
「直せそうなら頼む」
「はい」
さらに少し経つ。
今度は老婆がやってきた。
「誰かいるかい」
「はい」
「井戸の周りがまた凍っててね」
「すぐに参ります」
「急がなくていいよ」
「分かりました」
「昼飯は食べたのかい?」
「はい」
「ちゃんと?」
「芋を」
「芋だけ?」
「はい」
老婆は眉を寄せた。
「ちょっと待ってな」
「いえ、井戸は――」
「待ってな」
老婆はそのまま帰っていった。
しばらくして戻ってきた時には、籠を持っていた。
「これ」
「……なんでしょう」
「見れば分かるだろ」
中には黒パンが入っている。
「いただけません」
「なんで」
「井戸の氷を除くだけです」
「誰が礼だって言った」
「では、これは」
「余った」
「…………」
「余ったんだよ」
童術師が礼を見る。
「童師」
「俺を見るな」
「ですが」
「本人が余ったと言ってる」
「余ったんだよ」
老婆が重ねる。
「……では、いただきます」
「最初からそう言えばいいんだ」
老婆は満足そうに頷いた。
「それ食べてからでいいからね」
「井戸が先では?」
「飯が先だよ」
「……承知しました」
礼は何も言わなかった。
それからも、仕事は少しずつ増えた。
雪を退ける。
薪を運ぶ。
柵を直す。
屋根へ積もった雪を下ろす。
倉庫の中で倒れた棚を起こす。
童術が必要な時もあれば、必要のない時もあった。
重い木材を動かす時には、必ず持ち主へ確認してから《童衣》を使った。屋根の上へ素早く上がる必要があれば《童駆》を使うこともあったが、村人が嫌がれば使わなかった。
三日前なら、童力の光が見えただけで距離を取っていた村人たちも、今では少し離れた場所から作業を眺めている。
「それ、疲れないのか?」
木材を持ち上げる童術師へ、村人が尋ねた。
「多少は」
「魔法とは違うんだろ?」
「はい」
「よく分からんな」
「私たちも、最初は分かりませんでした」
「今は分かるのか?」
「以前よりは」
「便利そうだけどな」
「便利な時もあります」
「不便な時も?」
「あります」
「たとえば?」
童術師は少し考えた。
「腹は減ります」
村人が笑った。
「そりゃ俺らと一緒だ」
「はい」
童術師も笑った。
礼は村の端で、雪に埋もれた柵を掘り出していた。
隣にはガルドがいる。
片腕で器用に雪を退けながら、ガルドが村の方を見る。
「忙しそうだな」
「ああ」
「七日増えた初日からこれか」
「お前たちの村だろ」
「そうだな」
「仕事が多すぎる」
「冬の村なんてこんなもんだ」
「毎日か?」
「毎日だ」
「…………」
礼は黙って雪を掻いた。
ガルドが笑う。
「嫌になったか?」
「別に」
「ならよかった」
「何がだ」
「あと六日あるぞ」
「数えなくても分かってる」
「俺は数えてやってんだよ」
「いらない」
「親切だろ」
「余計だ」
雪の下から柵が姿を現す。
一本、横木が割れていた。
礼が触れる。
「これも直すのか」
「ついでにな」
「材料は」
「あっち」
「俺がやるのか」
「嫌ならいいぞ」
礼はガルドを見る。
ガルドも見る。
「…………」
「…………」
「持ってこい」
「はいはい」
ガルドは笑いながら材料を取りに行った。
夕方になる頃には、空き家へ戻ってきた者たちの手に、朝にはなかった物が増えていた。
野菜。
卵。
干した肉。
火を起こすための細い薪。
「これは?」
「いただきました」
「それは?」
「いただきました」
「その肉も?」
「はい」
礼は並べられた食料を見る。
「働いた分なら受け取ればいい」
「いえ」
「違うのか」
「仕事の分は別にいただきました」
「じゃあこれはなんだ」
「『持っていけ』と」
「…………」
礼は頭を掻いた。
「返してこい」
「どちらへでしょう」
「誰にもらった」
「三軒です」
「……もういい」
「では、いただいても?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「俺に礼を言うな」
夕食は、三日前よりずっとまともなものになった。
大きな鍋には野菜と肉が入り、小さな鍋では卵が茹でられた。黒パンまである。
全員が床に座る。
「童師」
「なんだ」
「卵を」
「いらない」
「十四人で分けます」
「好きにしろ」
「童師も十四人のうちのお一人です」
「…………」
礼の器にも半分に切った卵が入れられた。
「少ないな」
「十四人おりますので」
「分かってる」
誰かが笑う。
礼もそれ以上は言わず、卵を食べた。
食事が終わる頃には、明日の話が始まっていた。
「朝から南側の屋根を頼まれています」
「私は薪割りを」
「井戸のところも見てほしいそうです」
「倉庫の棚もまだ残っています」
礼は黙って聞いていた。
「童師は?」
「俺?」
「はい」
「何も聞いてない」
「ガルドさんが、朝から柵の続きをすると」
「……あいつ」
「どうなさいますか?」
礼は少し考えた。
「行く」
「承知しました」
「昼には終わらせる」
「では午後は?」
「なんで俺まで予定が埋まってるんだ」
小さな笑いが起きた。
「何がおかしい」
「いえ」
「笑ってるだろ」
「申し訳ありません」
礼は息を吐いた。
炉の火へ薪を足す。
ぱちりと火の粉が弾け、橙色の明かりが部屋へ広がった。
返した毛布を借り直した。
鍋が一つ増えた。
欠けた皿も増えた。
誰が置いたのか分からない芋を食べた。
明日の仕事まで決まった。
七日延びたうちの一日目は、そうして終わった。
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