第八十八話 三日目
三日目の朝。
礼が目を覚ました時、空き家の中ではすでに何人かが動き始めていた。
まだ日は昇りきっていない。窓の外には薄青い朝の光が広がり、夜の間に降った雪が家々の屋根を白く覆っている。
炉の火は消えていた。
いつもなら誰かが薪を足す時間だったが、今日はその必要がない。
「童師、おはようございます」
「ああ」
礼は身体を起こした。
部屋の隅では、毛布が一枚ずつ畳まれている。食器は洗われ、借りていた鍋も布で拭かれていた。
床にはそれぞれの荷物が並べられ、紐で固く括られている。
「準備は」
「ほとんど終わっています」
「借りた物は?」
「確認しました。毛布が六枚、食器が八枚、鍋が二つ。それと薪割り用の斧が二本です」
「雪かきは」
「昨日のうちにお返ししました」
「そうか」
礼は立ち上がった。
自分の荷物はすでにまとめてある。
外套を羽織り、留め具を締めた。
「忘れ物がないか、もう一度見ろ」
「はい」
「空き家も元の状態に戻しておけ」
「承知しました」
誰も急いではいなかった。
だが、手を止める者もいない。
三日だけ。
最初から決まっていたことだった。
だから、三日目になった。
ただそれだけだった。
朝日が村へ差し込み始める頃には、十四人分の荷物が空き家の壁際に並んでいた。
「では、返してまいります」
「ああ」
二人の童術師が、借り物を抱えて外へ出る。
一人は毛布。
もう一人は鍋と食器。
礼は残った者たちと空き家の掃除を始めた。
床を掃き、寝床に使っていた場所を片づける。
持ち込んだ薪のうち、余ったものは壁際へ積んだ。
「童師」
「なんだ」
「こちらの薪はどうしますか?」
「置いていけ」
「ですが、私たちが集めたものも混ざっています」
「だから置いていく」
「……承知しました」
男は薪を綺麗に積み直した。
礼は窓の隙間に詰めていた布を外す。
少し考えた。
「それは残しておけ」
「よろしいのですか?」
「元々、風が入っていた」
「分かりました」
また一つ、部屋が元の姿へ戻っていった。
「ありがとうございました」
毛布を受け取った村の女が、童術師を見た。
「全部あると思います。ご確認ください」
「ああ……」
女は受け取った毛布を見る。
「別に、急がなくてもいいんだけどね」
「いえ。今日発ちますので」
女の手が止まった。
「……発つ?」
「はい」
「今日?」
「三日目ですから」
「…………」
女は毛布と男を交互に見た。
「今日だったのかい」
「はい」
「そう……」
童術師が頭を下げる。
「お世話になりました」
「いや……こっちこそ」
女は何か言おうとして、結局それ以上は言わなかった。
童術師はもう一度頭を下げ、次の家へ向かった。
「これ、お返しします」
「おう」
別の家では、老人が斧を受け取った。
刃を確認する。
「ちゃんと研いであるな」
「お借りした時より少し刃が落ちていましたので」
「そこまでしなくていいのに」
「使わせていただきましたから」
老人は斧を持って家へ戻ろうとした。
だが、途中で振り返る。
「今日も薪を割るなら、そのまま持っててもいいぞ」
「ありがとうございます。ですが、もう使いません」
「なんでだ」
「今日、村を出ますので」
「…………今日?」
「はい」
「明日じゃなくて?」
「本日で三日目ですので」
老人は眉を寄せた。
「三日って……」
何かを数えるように指を動かす。
「一日目、二日目……」
「今日で三日目です」
「それは分かっとる」
「はい」
「…………」
老人は斧を見る。
「そうか」
「お世話になりました」
「……ああ」
童術師が立ち去る。
老人はしばらく、その背中を見送っていた。
その頃には、村のあちこちで同じ会話が起き始めていた。
「今日出るらしいぞ」
「誰が?」
「あいつらだよ」
「童術師か?」
「ああ」
「今日?」
「三日だからって」
「まだ朝だぞ」
「三日目だからだと」
「…………」
「お前、昨日また倉庫頼んでなかったか?」
「直してもらった」
「早いな」
「頼んだらすぐ終わった」
「じゃあいいだろ」
「……まあ、そうなんだけどよ」
男たちは顔を見合わせる。
誰も、それ以上は言わなかった。
空き家の前では、ガルドの息子が中を覗き込んでいた。
「何してるの?」
荷物をまとめていた童術師が振り返る。
「片づけです」
「なんで?」
「出発しますので」
「どこ行くの?」
「北です」
「もっと北?」
「はい」
少年は部屋の中を見る。
いつも置いてあった荷物が全部まとめられている。
「今日?」
「今日です」
「じゃあ、昨日のやつできないじゃん」
「昨日の?」
「速く走るやつ」
「童駆ですか?」
「それ!」
「昨日もお見せしていませんよ」
「今日見せてって言おうと思ってた」
「そうでしたか」
「うん」
少年は少し考える。
「じゃあ明日」
童術師の動きが止まった。
「……明日は、ここにはいません」
「なんで?」
「出発しますから」
「いつ帰ってくるの?」
男は答えられなかった。
村を出た後、どこへ行くのか。
どれだけ北へ進むのか。
またこの村へ来ることがあるのか。
何も決まっていない。
「……分かりません」
「ふーん」
少年はそれほど深刻には受け取らなかったらしい。
「じゃあ、帰ってきたら見せて」
「…………」
「駄目?」
男は少し笑った。
「その時、必要があれば」
「またそれ言ってる!」
「必要がありませんので」
「ケチ!」
少年は頬を膨らませ、そのまま走っていった。
男はその背中を見送った。
やがて荷物へ視線を戻し、紐を結び直した。
礼は最後にガルドの家へ向かった。
扉を叩く。
「おう」
返事を待って中へ入る。
ガルドは朝食を終えたところだった。
「早いな」
「ああ」
礼は抱えていた毛布を差し出した。
「返す」
「なんだ、それ」
「借りた毛布だ」
「見りゃ分かる」
「なら聞くな」
「いや、なんで返すんだよ」
「出るからだ」
ガルドの妻が振り返った。
「今日ですか?」
「はい」
「もう?」
「三日目ですから」
ガルドは驚かなかった。
椅子へ座ったまま、礼を見る。
「本当に行くんだな」
「ああ」
「まだ朝だぞ」
「関係あるのか」
「普通、三日って言われたら三日目くらい泊まるだろ」
「そうなのか?」
「知らん」
「なら言うな」
ガルドが笑った。
「相変わらず律儀だな、お前」
「約束だからな」
礼は毛布を置く。
「世話になった」
「俺は何もしてねえよ」
「村に入れてくれた」
「俺が決めたわけじゃねえ」
「それでもだ」
ガルドはしばらく礼を見た。
「次はどこ行く」
「北だ」
「だから北のどこだよ」
「決めてない」
「……お前な」
「人が少ない場所を探す」
「もっと寒くなるぞ」
「分かってる」
「食い物も減る」
「ああ」
「魔物も増える」
「そうだな」
「それでも行くのか」
「ああ」
ガルドは息を吐いた。
「そうか」
それ以上は止めなかった。
代わりに、妻が奥から布袋を持ってきた。
「これを」
「なんですか」
「食べ物です」
「足ります」
「持っていってください」
「買った食料がまだ――」
「これは別です」
「同じでは?」
「別です」
「…………」
礼がガルドを見る。
「俺を見るな」
「止めてくれ」
「無理だ」
「夫だろ」
「だから無理なんだよ」
「…………」
妻が布袋を礼へ押しつけた。
「道中で食べてください」
礼は袋を見る。
パンと干し肉。
それに、昨日食べたものと同じ焼き菓子がいくつか入っている。
「……ありがとうございます」
「はい」
礼は受け取った。
「子供たちは?」
「まだ寝てます」
「そうですか」
「起こします?」
礼は少し考えた。
「いや」
外套を整える。
「よろしく伝えてください」
「分かりました」
礼が扉へ向かう。
「礼」
ガルドが呼んだ。
礼が振り返る。
「なんだ」
「死ぬなよ」
「…………」
「北に行くなら、それくらい言わせろ」
礼は少しだけ黙った。
「ああ」
扉を開ける。
「ガルドもな」
「俺はもう冒険者じゃねえよ」
「知ってる」
「なら心配すんな」
「心配してない」
「ほんっと可愛くねえな、お前」
礼は答えず、外へ出た。
空き家へ戻る頃には、十四人全員の準備が終わっていた。
「童師」
「ああ」
「返却もすべて終わりました」
「忘れ物は?」
「ありません」
「火は」
「消しました」
「戸締まりは」
「最後に確認します」
礼は部屋を見回した。
三日前。
埃っぽく、冷え切っていた空き家。
十四人で使うには狭く、寝台も足りなかった。
今は床が掃かれ、食器も荷物もなくなっている。
壁際には、使わなかった薪だけが残っていた。
「行くぞ」
「はい」
全員が荷物を背負う。
一人ずつ外へ出る。
最後の男が扉を閉めた。
村を歩く。
三日前とは違い、彼らを見て家へ入る者はいなかった。
「もう行くのか」
道端から声をかけられる。
「はい。お世話になりました」
「魔物の件、助かった」
「いえ」
「また来たらどうすりゃいい」
「森へ入る時は、しばらく人数を増やしてください。昨日の群れが戻ってくる可能性があります」
「そうか」
「それと、家畜を夜まで外へ出さない方がよろしいかと」
「分かった」
「では」
「ああ」
少し歩く。
「おい!」
別の家から声。
「これ持ってけ!」
干した肉が投げられる。
童術師が慌てて受け取った。
「いえ、食料は――」
「余りだ!」
「ですが」
「いいから持ってけ!」
「……ありがとうございます!」
また少し歩く。
「これも!」
「芋!?」
「煮て食え!」
「荷物が増えております!」
「若いんだから持てるだろ!」
「そういう問題では――」
笑い声が起きた。
十四人の荷物が、村の入口へ着く頃には少しだけ重くなっていた。
そこには村長がいた。
ガルドもいる。
何人かの村人も集まっていた。
礼が村長の前で止まる。
「世話になった」
「……本当に行くのか」
「ああ」
「まだ三日目だぞ」
「だからだ」
村長が眉を寄せる。
「三日だけと言っただろ」
「言ったが……」
「なら、今日までだ」
「…………」
礼は頭を下げた。
後ろにいた童術師たちも続く。
「寝る場所を貸してもらった。食料も売ってもらった。それに、色々もらった」
礼が僅かに荷物を見る。
「十分だ」
「……そうか」
「ああ」
「次はどこへ行く」
「北だ」
「北のどこだ」
「まだ決めていない」
村長は何か言いかけた。
だが、口を閉じた。
礼は踵を返す。
「行くぞ」
「はい」
十四人が歩き出した。
村の柵を抜ける。
三日前、入ることを拒まれた場所を、今度は外へ向かって通っていく。
誰も引き止めなかった。
礼も振り返らなかった。
雪を踏む音が重なる。
十歩ほど進んだ時だった。
「――待て」
礼の足が止まった。
後ろの童術師たちも止まる。
礼が振り返る。
村長だった。
「なんだ」
村長はその場に立っていた。
何か言おうとしている。
だが、なかなか言葉が出てこない。
「……西の柵がな」
「直した」
「…………」
「昨日、全部確認した」
「知ってる」
「なら、なんだ」
「家畜小屋が」
「屋根なら直した」
「井戸の――」
「氷も除いた」
「…………」
後ろで、ガルドが口元を押さえた。
「笑うな」
村長が睨む。
「笑ってねえよ」
「笑ってるだろうが」
「それで?」
礼が尋ねる。
「他に何かあるのか」
村長は黙った。
雪が降り始めていた。
小さな雪片が、礼の外套へ落ちる。
村長は礼を見る。
その後ろにいる十三人を見る。
そして、村の方を振り返った。
昨日まで彼らが雪を掻いていた道。
直された柵。
屋根の雪を下ろした家畜小屋。
井戸の周りでは、朝から村人が水を汲んでいる。
村長は礼へ向き直った。
「……三日じゃ足りん」
「何がだ」
「お前たちを見る時間だ」
礼は何も言わなかった。
「ガルドは、何日か見ればいいと言った」
「ああ」
「だから三日と言った」
「そうだな」
「三日見た」
村長は息を吐く。
「まだ分からん」
「…………」
「お前たちが本当に信用できるのか。この村に災いを持ち込むのか。それとも……そうじゃないのか」
「それで?」
「あと七日だ」
礼が僅かに眉を動かした。
「七日?」
「ああ」
「三日と合わせて十日になるぞ」
「数くらい分かっとる」
ガルドがとうとう吹き出した。
「だから笑うな!」
「悪い悪い」
村長が再び礼を見る。
「あと七日、ここにいろ」
「…………」
「その間に、もう少し見る」
「七日で分かるのか」
「知らん」
「…………」
「だから見ると言ってる」
礼は村長を見た。
それから後ろを振り返る。
十三人の童術師たちは何も言わない。
ただ、礼の判断を待っていた。
礼はもう一度村長へ向き直る。
「……分かった」
村長の肩から、僅かに力が抜けた。
「そうか」
「ああ」
礼は後ろへ声をかける。
「戻るぞ」
「はい」
一人の童術師が、背負ったばかりの荷物を見た。
「童師」
「なんだ」
「すべて荷造りしてしまいました」
「知ってる」
「借りた物も、すべてお返ししました」
「ああ」
「もう一度、お借りしてくるのでしょうか」
「……そうなるな」
「承知しました」
男は真面目な顔で頭を下げた。
ガルドが笑う。
「忙しい奴らだな。出てったと思ったら、もう帰ってきやがった」
「誰のせいだ」
「村長だろ」
「ガルド」
「俺じゃねえって」
村長が額を押さえる。
礼は小さく息を吐き、今しがた通ったばかりの柵をくぐった。
十三人も続く。
三日前。
この場所で、彼らは村へ入ることを拒まれた。
今度は同じ場所で、もう少しいろと言われた。
空き家へ戻る途中、ガルドの息子がこちらへ走ってくるのが見えた。
「あれ!?」
少年が足を止める。
「行ったんじゃなかったの!?」
「延びた」
礼が答える。
「どのくらい!?」
「七日だ」
少年の顔が明るくなった。
「じゃあ童駆見せて!」
「見せない」
「なんでだよ!」
「必要がない」
「七日あるじゃん!」
「日数は関係ない」
少年が礼の後ろへ回る。
「じゃあそっちの人!」
「私ですか?」
「童駆!」
「必要がありませんので……」
「みんな同じこと言う!」
声が雪の積もった村に響く。
礼たちは、再び空き家へ向かった。
三日だけだったはずの滞在は、七日延びた。
ただ、それだけだった。
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