第八十六話 頼まれること
翌朝。
礼が目を覚ました時には、外はまだ薄暗かった。
薪の火はほとんど消えかけ、赤くなった炭だけが炉の底に残っている。窓には薄く霜が張りつき、その向こうでは細かな雪が降り続いていた。
空き家の中には、十三人の男たちが眠っている。
寝台など人数分あるはずもない。床に毛布を敷いた者もいれば、壁に背を預けたまま眠っている者もいる。
礼は毛布を退け、音を立てないように立ち上がった。
炉へ薪を一本入れる。
火が小さく息を吹き返した。
「……童師?」
声がした。
振り返ると、壁際で寝ていた男が目を開けていた。
「起こしたか」
「いえ……」
男は身体を起こし、窓を見る。
「まだ朝ではありませんよ」
「分かってる」
「もう少しお休みになっては?」
「目が覚めた」
「昨日、かなり働かれていたでしょう」
「雪を掻いただけだ」
「その雪かきを、日が暮れるまでされていました」
「…………」
礼は炉の前に座った。
「寝ろ」
「童師もです」
「俺はいい」
「昨日もそう仰っていました」
礼が男を見る。
男も礼を見る。
「…………」
「…………」
「寝ろ」
「はい」
男は素直に毛布へ戻った。
数秒後。
「童師」
「なんだ」
「今日は東側でしたね」
「ああ」
「屋根と柵もあります」
「分かってる」
「忙しくなりそうですね」
「だから寝ろ」
「はい」
今度こそ男は目を閉じた。
礼は小さく息を吐き、炉の火を見つめた。
朝になると、空き家の前には村人が三人立っていた。
「……なんでしょうか」
外へ出てきた童術師が尋ねる。
三人は互いの顔を見る。
誰が最初に話すか押しつけ合っているようだった。
やがて、一番年上の男が口を開いた。
「昨日の、その……」
「はい」
「力を使ってた奴はいるか」
「童術でしょうか」
男の顔が僅かに強張る。
「……そう、それだ」
「全員使えますが」
三人が黙った。
「全員?」
「はい」
「十四人とも?」
「はい」
「…………」
「何か?」
「いや」
三人がまた顔を見合わせる。
「昨日、でかい木を二人で運んでただろ」
「私は別の場所におりましたので……」
「誰でもいいんだ」
「でしたら、おそらく問題ないかと」
「そうか」
男は少しだけ安心したようだった。
「家畜小屋の屋根に雪が積もってる。昨日から軋んでてな」
「分かりました」
「いや、まだ頼むとは――」
「違いましたか?」
「…………」
男は頭を掻いた。
「……頼む」
「承知しました」
その横にいた別の男がおずおずと手を上げる。
「ついでと言っちゃなんだが」
「はい」
「うちの裏にも薪があるんだ。雪で埋まっちまって」
「掘り出せばよろしいですか?」
「ああ」
三人目も口を開いた。
「井戸の周りも凍ってる」
「そちらも?」
「……できれば」
「分かりました」
「おい」
一人目の男が二人を睨む。
「お前ら便乗するな」
「お前だって来てんだろ」
「俺は家畜が潰れそうなんだ!」
「うちは薪がなきゃ凍える!」
三人が言い争いを始める。
童術師はしばらくそれを眺めた。
「順番に行きますので」
三人が止まった。
「全部やるのか?」
「三日しかありませんから」
「…………そうだったな」
その言葉に、村人たちの表情が僅かに変わった。
だが、誰も何も言わなかった。
朝食を終えた頃には、仕事が七つに増えていた。
「増えましたね」
「ああ」
礼はパンを食べながら答えた。
「昨日より多いです」
「ああ」
「三日で終わるでしょうか」
「知らん」
「童師、他人事ではありませんよ」
「お前たちが勝手に引き受けたんだろ」
「断れませんでした」
「なぜ」
「頼まれましたので」
「…………」
礼はパンをちぎった。
「なら、やるしかないな」
「はい」
男が笑った。
「童師も数に入っておりますので」
「俺は聞いてない」
「昨夜、屋根も柵もやると仰いました」
「…………」
周囲から笑いが漏れる。
礼は残ったパンを口へ入れた。
「食ったら行くぞ」
「はい」
村のあちこちに、童術師たちの姿があった。
東側では四人が雪を除けていた。
家畜小屋では三人が屋根へ上がり、積もった雪を下ろしている。
別の場所では、壊れかけた柵を修理するための丸太を運んでいた。
童術を使う者もいれば、使わない者もいる。
必要な時だけ使った。
第三童式《童衣》で身体を強化し、重い木材を運ぶ。
第一童式《童駆》で村の反対側まで道具を届ける。
第四童式《童閃》を斧に纏わせ、太い枝を落とす。
ただし、どれも村人へ一言確認してからだった。
「これ、使ってもいいですか?」
「……童術か?」
「はい」
「危なくないのか」
「この程度でしたら」
「じゃあ……頼む」
昨日より、その返事は少しだけ早くなっていた。
「おい!」
屋根の上から声が飛ぶ。
「そっち持ってくれ!」
「こちらですか?」
「そう! そこだ!」
「分かりました!」
「違う違う! 逆!」
「逆?」
「お前から見て右だ!」
「こちらでしょうか」
「それは左だ!」
「……申し訳ありません!」
下から笑い声が起きた。
「童術使えても右と左は間違えるんだな!」
「童術とは関係ありません!」
屋根の上にいた童術師が言い返す。
また笑いが起きた。
昨日にはなかった声だった。
礼は村の南側にいた。
ガルドと二人で柵を直している。
「そこ押さえろ」
「押さえてる」
「もっと右」
「右だろ」
「俺から見てだ」
「先に言え」
「普通分かるだろ」
「分からない」
「ったく……」
ガルドが片腕で釘を口に咥える。
礼がそれを見て、釘を取った。
「俺がやる」
「できんのか?」
「釘くらい打てる」
「昨日雪かきも知らなかった奴が?」
「雪かきとは違う」
「本当かよ」
礼は金槌を持った。
釘を立てる。
打つ。
斜めに入った。
「…………」
ガルドが礼を見る。
礼も釘を見る。
「下手くそ」
「うるさい」
「貸せ」
「片腕だろ」
「お前より上手い」
ガルドは右手だけで器用に釘を打ち直した。
数度の音で、木板がしっかり固定される。
「ほら」
「…………」
「童術は使えても、何でもできるわけじゃねえんだな」
「当たり前だ」
「戦車みてえな化け物を出せる奴が釘一本まともに打てねえとはな」
礼がガルドを見る。
「……見たのか」
「昨日、村の奴から聞いた」
「何を」
「南から来た旅人が、変な鉄の化け物を見たって噂だ」
「…………」
「お前だろ」
礼は答えなかった。
ガルドが笑う。
「分かりやすいな」
「釘を寄越せ」
「話逸らすなよ」
「柵を直すんだろ」
「はいはい」
ガルドは釘を一本渡した。
昼過ぎ。
礼が空き家へ戻ろうとすると、道の端に老婆が立っていた。
礼が通り過ぎる。
「あの」
声をかけられ、礼が止まった。
「俺か」
「ああ」
老婆は礼を見上げた。
手には小さな籠を持っている。
「これ」
差し出された。
中には、焼いた芋がいくつか入っていた。
「なんだ」
「見れば分かるだろ。芋だよ」
「それは分かる」
「昨日から働いてるんだろ」
「ああ」
「若い連中に食わせてやんな」
「食料はある」
「いいから持ってけ」
「…………」
「いらないなら捨てな」
礼は籠を見た。
老婆を見る。
「……もらう」
「最初からそう言えばいいんだ」
どこかで聞いたような言葉だった。
老婆は礼に籠を押しつけ、そのまま歩いていった。
礼はしばらく背中を見送る。
それから、芋の入った籠を持って空き家へ戻った。
「童師、それは?」
「もらった」
「村の方からですか?」
「ああ」
「おお……!」
一人が芋へ手を伸ばす。
礼が籠を遠ざけた。
「まだ昼飯を食ってない奴からだ」
「……はい」
男が素直に手を引っ込める。
「童師は?」
「食った」
「本当ですか?」
「ああ」
「何を?」
「パン」
「どのくらい?」
「…………」
「童師?」
「一つ」
「足りません」
「足りる」
「足りません」
別の男が芋を一つ取り、礼へ差し出した。
「どうぞ」
「いらない」
「食べてください」
「お前が食え」
「私は二ついただきますので」
「なら一つにしろ」
「童師が召し上がるなら一つにします」
礼は男を見る。
男は芋を差し出したまま動かない。
「…………」
礼は受け取った。
「ありがとうございます」
「なぜお前が礼を言う」
「食べてくださったので」
「意味が分からない」
周囲から笑いが起きた。
礼は焼き芋を割った。
まだ温かかった。
その日の夕方。
仕事を終えた童術師たちが、少しずつ空き家へ戻ってきた。
「童師、家畜小屋は終わりました」
「東側もです」
「井戸の氷も除きました」
「薪は?」
「掘り出しました。ただ、別の家からも頼まれまして」
「また増えたのか」
「……はい」
「何を」
「倉庫です」
「今度は何だ」
「扉が開かないそうです」
「それは童術師に頼むことなのか?」
「私もそう思いました」
「断れ」
「もう直しました」
「…………」
笑いが起きる。
礼は炉へ薪を入れた。
その時だった。
外が騒がしくなった。
笑い声ではない。
複数の人間が走る足音。
叫び声。
「村長を呼べ!」
「誰か猟師を!」
礼が立ち上がった。
他の童術師たちも、すぐに表情を変える。
扉が開いた。
「童師」
外を見ていた男が振り返る。
「何かあったようです」
「行くぞ」
「はい」
村の北側に人が集まっていた。
雪の上に、男が一人横たわっている。
服が裂けていた。
血が滲んでいる。
礼は人垣の間へ入った。
「何があった」
「森だ」
村人の一人が答える。
「狩りに出てた。北の森で襲われた」
倒れている男の脇に、もう一人の猟師が膝をついている。
「でかい奴だ。今まで見たことがない」
「魔物か」
「ああ」
礼が負傷者を見る。
傷は深い。
だが、まだ間に合う。
礼が膝をついた瞬間、猟師が顔を上げた。
「何をする」
「傷を見る」
「触るな」
礼の手が止まった。
「童術を使うつもりだろ」
「ああ」
「やめろ」
周囲が静かになる。
礼は男を見る。
「分かった」
立ち上がろうとする。
「待ってください」
負傷した男の声だった。
弱い。
だが、意識はある。
「……治せるのか」
礼は彼を見る。
「出血は止められる。傷もある程度は塞げる」
「本当に?」
「ああ」
猟師が止める。
「やめとけ。何が起こるか――」
「死ぬよりいい」
負傷した男は息を整えた。
礼を見る。
「……頼む」
「分かった」
礼は再び膝をつく。
手を傷口の上へ置いた。
淡い童力が広がる。
「第六童式――《童癒》」
村人たちが息を呑んだ。
流れていた血が、ゆっくりと止まっていく。
裂けた傷が完全に消えるわけではない。
それでも、青ざめていた男の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「……痛みが」
「まだ動くな」
礼は手を離した。
「今夜は寝ていろ」
「……ああ」
村人たちは何も言わなかった。
ただ、その光景を見ていた。
やがて村長がやってきた。
事情を聞く。
北の森。
家畜が襲われたことは以前にもあった。
罠が壊されていることもあった。
だが、人間が襲われたのは初めてだった。
「何頭いた」
村長が尋ねる。
生き残った猟師が首を振る。
「分からん。一頭しか見てない。だが……足跡はもっとあった」
「どのくらいだ」
「少なくとも五、六。もっといるかもしれん」
村長の顔が険しくなる。
「村まで来る可能性は」
「ある」
沈黙が落ちた。
この村には兵士はいない。
冒険者もいない。
戦えるのは猟師と、多少武器を扱える村人くらいだった。
ガルドはもう冒険者ではない。
村長が顔を上げる。
その視線が礼へ向いた。
礼は何も言わない。
村長はしばらく黙っていた。
やがて、口を開く。
「……礼」
初めて名前で呼ばれた。
「なんだ」
「頼みがある」
村人たちが村長を見る。
礼はただ次の言葉を待った。
「お前たちの力を」
村長は一度言葉を切った。
「童術師の力を、貸してくれないか」
礼の後ろで、十三人の童術師たちが静かに立っていた。
誰も口を挟まない。
礼は村長を見る。
「何をすればいい」
「北の森を調べてほしい。できるなら……魔物を村へ近づけないでくれ」
「分かった」
「……いいのか」
「ああ」
礼は振り返った。
「誰か行けるか」
十三人全員が、一歩前へ出た。
「私が参ります」
「私もです」
「童師、ご命令ください」
「負傷者はいません。いつでも出られます」
礼は彼らを見た。
「全員は必要ない」
数人を選ぶ。
そして村長へ視線を戻した。
「森を知っている人間が一人ほしい」
「俺が行く」
先ほど戻ってきた猟師が言った。
「お前は休め」
「怪我してるのはこいつだ。俺じゃない」
「襲われた直後だろ」
「だから場所が分かる」
礼は男を見る。
「戦わなくていい」
「分かってる」
「危なくなったら逃げろ」
「……ああ」
礼は頷いた。
「明日の朝、出る」
村長が頭を下げた。
「頼む」
礼も僅かに頭を下げる。
「ああ」
雪はまだ降り続いていた。
昨日まで、村人たちは彼らを村へ入れることすら恐れていた。
その村から初めて、童術師へ仕事が託された。
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