第八十五話 片腕の冒険者
荷物を置いてから来い。
そう言い残して、ガルドは先に自宅へ戻っていった。
礼たちに与えられたのは、村の北側に建つ古い空き家だった。以前は何人かの家族が暮らしていたらしいが、今は使われておらず、長く人が入っていなかったことは扉を開けた瞬間に分かった。
冷え切った空気と、乾いた埃の匂いが鼻につく。
十四人で使うには狭い。
寝台も足りず、床板の一部は軋み、窓枠からは細い風が入り込んでいる。
「……屋根があるだけ、ありがたいですね」
一人の童術師が荷物を下ろしながら言った。
「野宿よりはずっといいです」
「昨夜は雪まで降りましたからね」
「薪は?」
「少し残っています。ですが、これだけでは一晩も持たないかと」
それぞれが自然に動き始めた。
床を確認する者。窓の隙間を布で塞ぐ者。残された薪を数える者。
七年間、彼らはこうしてきた。
泊まる場所があれば使えるようにし、なければ作る。食料が少なければ分け、誰かが負傷すれば他の者が荷物を持つ。
礼が一つ一つ指示する必要はなかった。
「童師」
声をかけられ、礼が振り返る。
「薪を取りに行ってまいります。何名か連れていってもよろしいでしょうか」
「ああ。ただし、勝手に木を切るな」
「村長に確認してからにします」
「頼む」
「はい」
三人が家を出ていく。
礼はその背中を見送ると、自分の荷物を壁際へ置いた。
「童師はどちらへ?」
「ガルドのところへ行く」
「お一人で?」
「ああ」
「では、私も――」
「必要ない」
男が口を閉じる。
礼は外套を直した。
「昔の知り合いだ」
「……承知しました」
まだ何か言いたそうだったが、男は頭を下げた。
礼は一人で空き家を出た。
ガルドの家は、村の中央から少し外れた場所にあった。
大きくはない。
木造の平屋に小さな家畜小屋があり、家の脇には薪が積まれている。軒先には干した薬草らしきものが吊るされ、その下には子供用と思われる小さな長靴が二足並んでいた。
礼は、その長靴を一度見た。
扉を叩く。
「開いてるぞ」
中から声がした。
礼が扉を開けると、暖かな空気が頬に触れた。
薪の燃える匂い。
煮込み料理の香り。
外とはまるで別の場所だった。
「おう」
ガルドがいた。
片腕で鍋を運ぼうとしている。
礼は黙って近づき、鍋の反対側を持った。
「お?」
「どこだ」
「そこの机」
二人で鍋を置く。
「助かった」
「一人で持つな」
「いつも一人でやってる」
「落としそうだった」
「落としてねえだろ」
「まだな」
「……お前、昔より口が悪くなってねえか?」
「そうか?」
「なってる」
ガルドが笑う。
その時、奥の部屋から女性が現れた。
「あなた、お客さん?」
「ああ」
ガルドが礼を見る。
「こいつが礼だ」
「……礼さん?」
女性の目が大きくなる。
礼はわずかに頭を下げた。
「如月礼です」
「知ってます」
即答された。
礼がガルドを見る。
「なんだ」
「話したのか」
「そりゃ話すだろ」
「何を」
「色々だよ」
「色々とは」
「色々は色々だ」
女性が小さく笑った。
「本当にガルドから聞いていた通りの方なんですね」
「何を聞いたんですか」
「それは秘密です」
「…………」
「おい、睨むな」
「睨んでない」
「そういう顔なんだよ」
ガルドは椅子を顎で示した。
「座れ。もうすぐ飯だ」
「食事なら――」
「食ったんだろ。さっき聞いた」
「なら」
「もう一回食え」
「なぜ」
「久しぶりに会ったんだから付き合え」
礼は少し黙った。
「……分かった」
「最初からそう言え」
椅子を引く。
礼が腰を下ろしたところで、奥から小さな足音が聞こえてきた。
二人の子供が、壁の陰からこちらを覗いている。
一人は男の子で、その後ろに少し小さな女の子が隠れていた。
「ほら。挨拶しろ」
ガルドが言う。
だが二人は出てこない。
礼を見る目には、明らかな警戒があった。
「……怖い」
女の子が呟いた。
「おい」
ガルドが困ったような顔をする。
礼は気にした様子もなく答えた。
「よく言われる」
「言われるのかよ」
「ああ」
男の子が礼の外套を見つめる。
「……お父さんの友達?」
「昔のな」
ガルドが答えた。
「冒険者?」
「今は違う」
礼が言う。
「じゃあ何してる人?」
礼は少し考えた。
「旅をしている」
「童師なんだろ?」
礼の目がわずかに動いた。
どうやら村の入口での話は、もうここまで届いているらしい。
「そう呼ばれている」
「童術使えるの?」
「ああ」
「見せて」
「駄目だ」
「なんで?」
「家の中で使う必要がない」
男の子が不満そうな顔をした。
ガルドが声を上げて笑った。
「お前、子供相手でも変わんねえな」
「どう答えればよかったんだ」
「もうちょっとあるだろ」
「分からない」
「だろうな」
妻が皿を並べながら、また笑った。
礼はその様子を黙って見ていた。
食事が始まってしばらくしてから、礼はガルドの左側を見た。
食器も、匙も、右手だけで扱っている。
不自由さはあるはずだった。
だが、動きには慣れがあった。
「腕は」
礼が言った。
ガルドの手が止まる。
「これか?」
「ああ」
ガルドは短くなった左袖を見る。
「三年くらい前だ」
「何があった」
「魔物だよ。護衛依頼でな」
ガルドは大したことではないように言った。
「判断を一つ間違えた。仲間を庇って、食われた」
子供たちがいる。
だからなのか、それ以上詳しくは話さなかった。
「助かっただけ運がよかった」
「第六なら」
礼が言う。
ガルドが顔を上げた。
「治せるのか?」
「…………」
礼は左肩を見る。
傷は完全に塞がっている。
失われてから三年。
そこに腕が存在していた身体は、すでに片腕の身体として生きている。
「いや」
礼は答えた。
「傷なら治せる。だが、失った腕そのものは戻せない」
「そうか」
「ああ」
「なら仕方ねえな」
それだけだった。
ガルドは再び食事を始める。
礼は少しだけ黙った。
「……冒険者は」
「辞めた」
「腕が理由か」
「それもある」
ガルドは妻と子供たちを見た。
「ちょうどいい機会だったんだよ」
「機会?」
「いつまでも剣振って暮らすつもりもなかった。こいつらもいたしな」
妻が苦笑する。
「怪我をする前は、そんなこと一言も言ってませんでしたけどね」
「考えてはいた」
「本当に?」
「……少しくらいは」
「嘘ですね」
「うるせえ」
子供たちが笑った。
ガルドも笑う。
礼だけが、その光景を静かに見ていた。
「それで、ここに来たのか」
「ああ。女房の親戚がこの辺にいてな。静かな場所だし、住むには悪くない」
「不便そうだが」
「不便だぞ」
「そうか」
「冬は寒いし、街まで遠い。魔物も出る。仕事だって多い」
「なら、なぜここに」
ガルドは少し考えた。
それから、笑った。
「帰ってくる場所があるからじゃねえか」
礼は何も言わなかった。
薪が弾ける音がした。
ガルドは礼の沈黙を気にすることなく、パンをちぎった。
「で?」
「なんだ」
「今度はお前の番だ」
「何が」
「七年だぞ」
ガルドは礼を見る。
「何があった」
礼は匙を置いた。
しばらく考える。
「色々だ」
「お前までそれ使うのかよ」
「便利だな」
「ふざけんな」
礼の口元が、ほんの少しだけ動いた。
ガルドがそれを見て目を細める。
「……笑えるじゃねえか」
「笑ってない」
「昔からそれ言うよな、お前」
礼は答えなかった。
家を出る頃には、日が傾き始めていた。
礼はガルドと並んで村を歩いた。
「家族には」
ガルドが言う。
「話してねえぞ」
「何を」
「童術師だとか、軍と戦ったとか、その辺だ」
「そうか」
「子供に聞かせる話でもねえ」
「ああ」
「それに」
ガルドが礼を見る。
「俺もまだ知らねえからな」
「何を」
「今のお前をだよ」
礼は前を見る。
「村長にも言ったろ。俺が知ってるのは昔のお前だ」
「ああ」
「だから三日で見せろ」
「何を見せればいい」
「知らん」
「……無責任だな」
「お前に言われたくねえ」
二人が中央の広場へ差しかかった時だった。
「童師!」
声が飛んできた。
礼が振り返る。
空き家に残っていた童術師の一人が走ってくる。
「どうした」
「薪を分けていただけることになりました。ただ、代わりに村の西側の雪を除けてほしいと」
「分かった」
「すでに何人か向かっています」
「俺も行く」
「童師がですか?」
「ああ」
「ですが――」
「十四人分の薪だ」
礼は歩き出す。
「十四人で働く」
「……はい」
ガルドが隣で吹き出した。
「なんだ」
「いや。偉くなったのかと思ったが、そうでもねえな」
「偉くなった覚えはない」
「童師様が雪かきか」
「何か問題があるのか」
「ない。むしろいい」
ガルドもついてきた。
村の西側では、すでに五人の童術師が雪を運んでいた。
積雪は深い。
放っておけば、村の外周を囲う柵まで埋まりかねない。
村人たちは少し離れたところから作業をしている。
互いに距離があった。
「そこ、まだ残ってるぞ」
一人の村人が指を差す。
「こちらですか?」
「もっと奥だ」
「承知しました」
童術師が雪へ踏み込む。
腰近くまで沈んだ。
「……深いですね」
「だから困ってんだよ」
「なるほど」
男は一度周囲を見る。
それから身体へ薄く童力を巡らせた。
第三童式《童衣》。
身体能力を強化し、雪の中を進む。
大きな木製の雪かきを差し込み、一気に雪を持ち上げた。
大量の雪が脇へ飛ぶ。
村人が目を見開いた。
「お、おい」
「はい?」
「今の……」
童術師が動きを止める。
「童術ですが」
「…………」
「使わない方がよろしいでしょうか」
男は村人の返事を待った。
村人は積み上がった雪を見る。
次に、自分の手に持った雪かきを見る。
そして、まだ延々と続いている雪を見る。
「……それ」
「はい」
「疲れないのか?」
「多少は」
「どのくらいできる」
童術師が雪原を見る。
「この程度でしたら、日が暮れる前には」
「全部?」
「はい」
「…………」
村人はしばらく黙った。
「なら……やってくれ」
「分かりました」
再び童力が巡る。
別の童術師も続いた。
最初は遠巻きに見ていた村人たちだったが、やがて除けられた雪を運び、柵の周囲を整え始めた。
会話は少ない。
笑い声もない。
それでも、先ほどまであった距離は少しだけ縮まっていた。
別の場所では、倒れた木が道を塞いでいた。
三人の村人が動かそうとしている。
「手伝います」
童術師が声をかけると、男たちの表情が硬くなった。
「……いい」
「ですが」
「俺たちでやる」
「分かりました」
童術師は無理に近づかなかった。
少し離れた場所で、別の作業を始める。
しばらくして。
「……おい」
先ほど断った男が呼んだ。
童術師が振り返る。
「はい」
「これ」
男が倒木を指す。
「持てるのか」
「一人では難しいと思います」
「何人いればいい」
「二人いれば」
村人が目を瞬いた。
「……頼む」
「はい」
もう一人の童術師が呼ばれた。
二人は倒木の両端に立つ。
「いきます」
身体を覆う童力が濃くなる。
持ち上げる。
村人三人でもほとんど動かなかった倒木が、雪の上からゆっくり浮いた。
「どこへ運びましょう」
「……あっちだ」
「分かりました」
運んでいく。
村人たちは、その背中を黙って見送った。
礼も雪を掻いていた。
童衣を使うこともなく、普通の雪かきを手にしていた。
ガルドが隣で片腕用に柄を固定した道具を使っている。
「使わねえのか?」
「何を」
「童術」
「必要ない」
「他の奴らは使ってるぞ」
「必要だからだろ」
「お前も使えば早いだろ」
「これくらいなら変わらない」
「そうか?」
「ああ」
ガルドは礼の手元を見る。
「下手だな」
「雪かきに上手いも下手もあるのか」
「ある。腰使え」
「使ってる」
「腕だけでやってる」
「…………」
「貸せ」
ガルドが自分の道具を雪へ刺した。
「こうだ。押して、溜まったら横に逃がす」
「分かった」
「一気に持ち上げようとするな」
「分かった」
「お前、昔から力で何とかしようとするよな」
「……そんなことはない」
「ある」
礼は教えられた通りに雪を押した。
先ほどより楽に動く。
「…………」
「どうだ」
「変わらない」
「嘘つけ」
「少し違う」
「素直じゃねえな」
礼は黙々と雪を掻いた。
日が沈む頃。
西側の道は見違えるほど広くなっていた。
柵の周囲も雪が除けられ、倒木も片づけられている。
童術師たちは借りた道具をまとめていた。
「ありがとうございました」
一人が村人へ雪かきを返す。
「……ああ」
村人は受け取る。
童術師が立ち去ろうとした。
「あの」
呼び止められる。
「はい?」
「明日も……やるのか?」
「村長から頼まれれば」
「そうか」
「はい」
「…………」
村人は少し迷ってから言った。
「東の方も、結構積もってる」
童術師が見る。
「では、明日はそちらを?」
「いや、別に頼んでるわけじゃ――」
「村長に確認しておきます」
「……そうしてくれ」
「分かりました」
童術師が頭を下げる。
村人もぎこちなく頭を下げた。
礼たちは空き家へ戻った。
薪が燃える。
朝まで冷え切っていた部屋には、ようやく人が眠れる程度の暖かさが戻っていた。
「童師」
「なんだ」
「明日は東側も手伝ってほしいそうです」
「そうか」
「それと、家畜小屋の屋根も雪が危ないそうで」
「分かった」
「南側の柵も一部壊れていると」
「それもやる」
「あと――」
「増えてないか?」
男が口を閉じた。
周囲から小さな笑いが漏れる。
「……増えていますね」
「三日しかないぞ」
「はい」
「終わるのか」
「童師がお手伝いくだされば」
「俺を数に入れるな」
「本日、誰よりも雪を掻いておられたではありませんか」
「ガルドにやらされた」
「では明日もガルドさんにお願いしましょう」
「やめろ」
今度は、もう少し大きな笑いが起きた。
礼は火のそばに座る。
外では雪が降り始めていた。
窓の向こうに、村の灯りが見える。
三日。
それが、この村にいられる時間だった。
まだ一日目すら終わっていない。
それなのに、明日の仕事はもう決まっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです!
皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




