第八十四話 三日だけ
北へ向かってから、六日が過ぎた。
山を越えるたびに雪は深くなり、街道と呼べるものも次第に細くなっていった。人の往来を示す轍はいつしか消え、十四人が歩く道には、獣の足跡ばかりが残されている。
それでも、昼を過ぎた頃。
「童師」
先頭近くを歩いていた童術師が足を止めた。
「あれを」
礼も立ち止まり、男が指した先を見る。
山の斜面を下った、その向こう。
谷間に煙が上がっていた。
一本ではない。いくつもの細い煙が、冬の白い空へゆっくりと昇っている。
「……村ですね」
「ああ」
礼はしばらく眺めてから歩き出した。
「行くぞ」
「立ち寄られるのですか?」
「食料が減っている」
その言葉に、誰かが背負った袋を確認する。
保存食はまだ残っている。だが、十四人で北上を続けるには心許ない量になっていた。
「分けてもらえるでしょうか」
「分からない」
礼は足を止めない。
「断られたら?」
「次を探す」
それだけだった。
村は、想像していたよりも小さかった。
山と森に囲まれた土地に、三十軒ほどの家が寄り集まっている。
家々は木と石で造られ、屋根には分厚く雪が積もっていた。村の中央には大きな葉を落とした樹が立ち、その傍らに石組みの古い井戸がある。少し離れた場所には家畜小屋が並び、さらに外側を簡素な木柵が囲っていた。
道らしい道も、雪を踏み固めて作られたものしかない。
王都はもちろん、ローデンと比べても小さい。
十四人が村の入口へ近づくと、最初に気づいたのは薪を運んでいた男だった。
男は足を止めた。
礼たちを見る。
次いで、その背後に続く十三人を見る。
手にしていた薪を地面へ置いた。
「……何者だ?」
「旅の者だ」
礼が答える。
男の視線が、礼の腰へ向いた。
剣はない。
だが、後ろにいる者たちの多くは武器を携えている。
「旅の者が、十四人も連れ立ってこんな時期に北へ来るのか?」
「そういうことになる」
「…………」
男は少し考えてから、村の方を振り返った。
「そこで待ってろ」
「ああ」
男が村の中へ走っていく。
童術師の一人が礼へ近づいた。
「童師。警戒されているようですが」
「当然だ」
「念のため、村の外で待機した方がよろしいでしょうか」
「その必要はない。ここで待つ」
「分かりました」
それから十分も経たないうちに、村の中から数人の男がやってきた。
先ほどの男もいる。
その中央を歩いているのは、白髪の混じった初老の男だった。
手には何も持っていない。
だが、その後ろの村人たちは違う。
古びた槍。
斧。
鉈。
農具。
戦うための装備とは言い難い。それでも、必要なら使うつもりなのだろう。
初老の男が礼の前で止まった。
「この村の村長をしている」
「そうか」
「お前たちは?」
「北へ向かっている途中だ。食料を分けてもらいたい。金は払う」
村長は礼の顔を見た。
「どこから来た」
「南だ」
「南のどこだ」
「色々だ」
「……色々?」
「ああ」
村長の眉が寄る。
後ろにいた童術師が小さく息を吐いた。
「童師、それでは余計に怪しまれるかと」
「そうか」
「はい」
「なら、お前が話せ」
「私がですか?」
「ああ」
突然任された男が一瞬言葉を失う。
村長が訝しげに二人を見る。
「……今、なんと呼んだ?」
男の表情が固まった。
礼は何も言わない。
「童師、と聞こえたが」
村長の後ろにいた男たちの顔色が変わった。
「童師……?」
「まさか」
「童術師か……?」
空気が変わった。
それまでの警戒とは違う。
恐れが混じった。
一人の村人が後ずさる。
「聞いたことがある。南で軍とやり合ってる連中だ」
「異端の術を使うっていう……」
「王都からもお触れが来てたはずだ」
礼の後ろで、童術師たちの身体にわずかな緊張が走る。
誰も武器には触れなかった。
礼も動かない。
村長だけが、しばらく礼を見ていた。
「……本当か」
「ああ」
礼は否定しなかった。
「俺たちは童術師だ」
村人たちがざわめく。
村長が片手を上げると、その声が少しずつ収まった。
「軍と戦っているというのも?」
「戦ったことはある」
「なぜだ」
「必要だったからだ」
「…………」
村長の顔が険しくなる。
「悪いが」
礼は黙って次の言葉を待った。
「食料は売れん。村にも入れられん」
「分かった」
即答だった。
逆に村長の方が一瞬言葉を失った。
礼は振り返る。
「行くぞ」
「童師」
「ここに迷惑をかける理由はない」
「……分かりました」
童術師たちが村から離れる準備を始める。
誰も抗議しなかった。
村人たちの緊張も、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、礼が数歩進んだところで、村長が口を開いた。
「待て」
礼が振り返る。
「一つだけ聞かせろ」
「なんだ」
「追手はいるのか」
礼は少し考えた。
「いる」
村人たちの表情が再び強張る。
「軍か?」
「それもいる」
「……それも?」
「他にもいる」
村長は深く息を吐いた。
「なら、なおさら入れるわけにはいかん」
「ああ」
「ここには戦える者もほとんどおらん。王国に目をつけられれば、それだけで終わる」
「分かっている」
「冬を越すだけでも精一杯なんだ。余計な争いを抱え込む余裕はない」
「それでいい」
礼は村長を見る。
「俺たちのために危険を負う必要はない」
村長は何も答えなかった。
礼は再び背を向けた。
雪を踏む。
その後を童術師たちが続く。
十四人の足音が、少しずつ村から離れていく。
その時だった。
「――待てよ」
礼の足が止まった。
声は村の中から聞こえた。
低く、太い声。
礼はすぐには振り返らなかった。
その声を知っている。
けれど、最後に聞いてからあまりにも長い時間が経っていた。
「村長。ちょっと待ってくれ」
雪を踏む音が近づいてくる。
村人たちが振り返り、道を開けた。
「ガルド?」
「どうした」
大柄な男が歩いてくる。
年齢を重ね、顔には以前より深い皺が刻まれていた。身体も冒険者だった頃ほどの張りはない。それでも背は高く、厚い胸板にはかつて前衛として戦っていた男の名残がある。
だが、礼が見たのはそこではなかった。
左腕。
肩から下が、なかった。
空になった袖は短くまとめられ、身体の横で揺れている。
男もまた、礼を見ていた。
黒い外套。
伸びた髪。
無精髭。
少年だった頃とは比べものにならないほど変わった姿。
しばらく互いに言葉がなかった。
やがて男が目を細めた。
「……礼?」
礼の後ろにいた童術師たちが、一斉に男を見る。
その呼び方に反応したのだ。
礼は、ただ男を見ていた。
「…………ガルド」
その名を口にする。
ガルドの口元がゆっくりと緩んだ。
「やっぱりお前か」
「……ああ」
「随分変わったな」
「お前もな」
礼の視線が左腕へ落ちる。
ガルドもそれに気づいた。
「これか?」
「ああ」
「なくした」
「見れば分かる」
「相変わらずだな、お前」
「何がだ」
「いや」
ガルドが笑った。
礼は笑わなかった。
だが、先ほどまで村長と話していた時とは、ほんの少しだけ目元から硬さが消えていた。
「ガルド」
村長が二人の間へ声を挟んだ。
「知り合いなのか?」
「ああ」
「この男が?」
「昔、一緒に仕事をした」
ガルドは礼の後ろを見る。
十三人の童術師たち。
そのうち何人かは、まだ信じられないようにガルドを見ていた。
「……童師、ねえ」
ガルドが呟く。
「随分偉くなったじゃねえか、礼」
「俺が決めた呼び方じゃない」
「だろうな」
「ガルドさん」
童術師の一人が思わず声をかけた。
「なんだ?」
「童師とは、どのようなご関係で……?」
「どんなって」
ガルドは礼を見る。
少し考える。
「昔の知り合いだ」
「知り合い……」
「なんだよ」
「いえ……」
男はそれ以上聞けなかった。
ガルドは村長へ向き直る。
「村長。この連中、少し置いてやれないか」
「ガルド」
「分かってる。童術師なんだろ」
「なら――」
「こいつは理由もなく人を斬るような奴じゃない」
村長の表情は変わらない。
「昔は、だろう」
ガルドが黙った。
礼も何も言わない。
「お前が知っているのは何年前だ」
「……結構前だな」
「人間は変わる」
「ああ」
ガルドはあっさり頷いた。
「変わるな」
そして礼を見る。
「こいつも随分変わったみてえだ」
「なら――」
「だから見りゃいい」
村長が眉を寄せた。
「何?」
「こいつらが今どういう連中なのか、何日か見ればいいだろ」
「そんな簡単な話ではない」
「追い出すのはその後でもできる」
「ガルド」
「俺が面倒を見る」
村長の目が細くなる。
「十四人だぞ」
「見りゃ分かる」
「食料も必要になる」
「働かせりゃいい」
童術師たちの視線がガルドへ集まった。
ガルドは気にしない。
「薪割りでも雪かきでも、やることはいくらでもあるだろ」
「俺たちは構わない」
礼が言った。
ガルドが振り返る。
「働く。食料も必要な分だけでいい」
「童師」
後ろから声がした。
礼が見る。
「なんだ」
「私たちも異存ありません」
他の童術師たちも頷いた。
「働けることがあるのでしたら、何でも仰ってください」
「私もです」
「戦うよりは、雪かきの方がありがたいですね」
最後の一言に、数人が小さく笑った。
村人たちは笑わなかった。
まだ警戒は消えていない。
村長は礼たちを一人ずつ見るように視線を動かした。
やがてガルドへ戻る。
「……お前が責任を持つんだな」
「ああ」
「何かあったら?」
「俺が追い出す」
「片腕でか?」
「そこは村長も手伝え」
「馬鹿者」
村長が大きく息を吐いた。
白い息が冬の空気へ溶けていく。
長い沈黙の後だった。
「三日だ」
ガルドが眉を上げる。
「三日?」
「三日だけだ」
村長は礼を見る。
「その間に何もなければ、食料は売る。必要なら多少の物資も分けよう」
「十分だ」
「だが、三日経ったら出ていってもらう」
「ああ」
「軍が来れば、その時点で出ていってもらう」
「分かった」
「村の者に勝手に術を教えるな」
「教えない」
「揉め事も起こすな」
「こちらから起こすことはない」
村長は礼の目を見た。
礼も逸らさなかった。
「……なら、入れ」
村人たちの間にざわめきが広がる。
歓迎の声はなかった。
それでも、塞がれていた道が開いた。
礼はその道を見た。
「童師」
後ろの男が静かに尋ねる。
「よろしいのですか?」
「ああ」
礼は歩き出した。
「三日だけだ」
十四人の童術師が、その後へ続いた。
村の中へ入っても、空気は変わらなかった。
道を歩いていた者たちは足を止め、家の窓からいくつもの視線が向けられる。話し声が消え、礼たちが通り過ぎるのを黙って見送る者もいた。
歓迎されていない。
それは誰にでも分かった。
礼は気にせず歩いた。
中央に立つ大きな樹の前を通り、その隣にある古い井戸を横切る。
ガルドが先を歩いていた。
「こっちだ。村外れに空いてる家がある」
「お前の家じゃないのか」
「十四人も入るか」
「入らないな」
「そういうことだ」
少し歩いたところで、ガルドが振り返った。
「荷物置いたら、うちに来い」
「何かあるのか」
「ある」
「なんだ」
「飯だよ」
「さっき食った」
「知らねえよ」
「なら必要ない」
「俺があるんだよ」
礼が眉を寄せる。
「何がだ」
「お前に聞きてえことが山ほどある」
「…………」
「七年分くらいな」
礼は答えなかった。
ガルドが笑う。
「それとな」
「なんだ」
「家族に紹介する」
礼の目が、ほんのわずかに動いた。
「家族?」
「ああ」
ガルドは当たり前のことのように言った。
「俺、もう冒険者じゃねえんだ」
空になった左袖が、冬の風に揺れる。
「ここで暮らしてる」
礼はしばらくガルドを見ていた。
「……そうか」
「そういうこった」
ガルドは前を向く。
「とりあえず三日だ。ゆっくりしてけ」
「三日だけだ」
「はいはい」
礼は何も言わなかった。
ただ、ガルドの背中を追って歩いた。
雪に覆われた、小さな北の村。
礼たちに許された時間は、三日だけだった。
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