第八十三話 知らない童力
戦場を離れてから、二時間ほどが経っていた。
陽はすでに山の向こうへ沈み、森の中には夜の冷気が満ち始めている。枝葉に積もった雪が風に揺らされ、ときおり焚き火の周囲へ細かな粉雪を落とした。
火を囲んでいるのは、十四人。
全員が童術師だった。
先ほどまで戦場にいた者たちは外套や装備についた雪と泥を落とし、それぞれ身体を休めている。武器を手入れする者もいれば、黙って食事を口へ運んでいる者もいた。
その中に、如月礼もいた。
二十八歳。
十七歳でこの世界へ迷い込んでから、十一年が過ぎている。
少年だった頃と比べれば、身体は一回り以上大きくなっていた。長い旅と戦いで鍛えられた身体は厚みを増し、黒い外套の下にある革装備には、何度も修繕された跡が残っている。
黒髪は以前より長く、手入れされていない髪が額へかかっていた。薄く伸びた無精髭と鋭くなった目つきも相まって、かつてローデンのギルドで仲間たちと笑っていた少年の面影を探すのは難しい。
礼は焚き火の前に座り、鍋の中を木匙でかき混ぜていた。
「童師」
「なんだ」
「それ、そろそろ焦げます」
向かいに座っていた男に言われ、礼は鍋を見る。
しばらく黙ってから、木匙を動かした。
「……まだ食える」
「そういう問題ですか?」
「食えれば問題ない」
「俺、童師に料理だけは任せたくないです」
周囲から小さな笑いが漏れた。
礼は気にした様子もなく、鍋を火から下ろす。
「なら次からお前が作れ」
「え」
「任せた」
「いや、俺も料理できませんよ」
「そうか」
「そうか、じゃないですよ」
また笑いが起こった。
礼は何も言わず、器へ煮込みを取り分けていく。
それを受け取りながら、一人の男が鼻を鳴らした。
「……普通にうまそうですけどね」
「味は保証しない」
「食えるなら問題ないんでしょう?」
「そう言った」
「じゃあ問題ないですね」
礼は一瞬だけ男を見る。
それから、自分の器にも煮込みを入れた。
少なくとも、焦げてはいなかった。
食事が終わる頃には、森は完全に暗闇へ沈んでいた。
焚き火の明かりだけが木々の幹を橙色に照らしている。
先ほど戦場で肩を負傷していた男が立ち上がり、剣を腰へ差した。
「童師。最初の見張り、俺がやります」
「寝ろ」
「もう動けますよ」
「動けることと治っていることは違う」
男は自分の肩を見る。
戦場で《童癒》を受けた傷は塞がり始めている。出血も止まっていた。
「でも、これくらいなら――」
「寝ろ」
「……はい」
男は素直に腰を下ろした。
近くにいた童術師が笑う。
「諦めろ。童師が二回言ったら無理だ」
「分かってるよ」
「明日も歩く」
礼はそう言いながら立ち上がった。
「休める時に休め」
「童師は?」
「俺は後で休む」
「またそれですか」
礼は答えなかった。
焚き火へ薪を一本足す。
ぱちり、と火の粉が弾けた。
「それにしても……」
一人の若い童術師が、自分の手を見ながら呟いた。
「今日の、あれ」
「第八か?」
「はい」
何人かの視線が礼へ向いた。
「俺、初めて入りました。《童天創界》の中」
「俺もだ」
「すごかったな。《童衣》が勝手に安定するっていうか……いつもなら意識して流れを整えないと駄目なのに」
「俺は《童駆》の方が怖かった。あれで走ったら普段より速くなりすぎて、木に突っ込みそうだ」
「お前、それは普段からだろ」
「違うって」
再び笑いが起こる。
礼は黙って聞いていた。
「でも……」
若い男が少し迷ってから、礼を見る。
「第八って、童師が作ったんですよね?」
「ああ」
「いつ頃です?」
「前だ」
「それは分かりますよ」
「ならいいだろう」
「よくないですよ」
男が困ったように笑う。
「俺たち、第一から第六までしか教わってませんから」
礼がその男を見る。
「誰に?」
「俺ですか?」
「ああ」
「最初は、ラグって人です」
「知らないな」
「でしょうね。ラグも童師に会ったことないって言ってましたから」
礼の手がわずかに止まった。
「誰から習った」
「ラグは……確か、東の方で旅してた童術師から習ったって。その人は別の人から教わったらしいです」
「名前は?」
「そこまでは」
「そうか」
礼はそれ以上聞かなかった。
別の男が口を挟む。
「今じゃ珍しくないですよ。童師に直接習った奴の方が少ないんじゃないですか?」
「さすがにそれは言いすぎだろ」
「でも俺も直接じゃないぞ」
「俺もだ」
「俺は第二まで兄貴に教わった」
「兄貴、童師に会ったことあるのか?」
「ない」
会話が続いていく。
誰から習った。
その人は誰から習った。
どこで覚えた。
誰が教えた。
辿ろうとすればするほど、知らない名前が増えていった。
礼はその会話を聞きながら、焚き火を見つめていた。
七年前。
第一童式から第六童式までを紙へ書き並べた時、そこにいた人数は決して多くなかった。
教え方を決めた男も、その隣にいた。
今はもう、誰から誰へ伝わったのかさえ分からない。
「童師?」
呼ばれ、礼は顔を上げた。
「なんだ」
「いや……黙ってたから」
「聞いていた」
「何か思うところでも?」
礼は少し考えた。
「別に」
「絶対なんかありますよね」
「ない」
「その間が怪しいんですよ」
男が笑う。
礼は答えず、立ち上がった。
荷物を移動させた時だった。
革袋の口から、一冊の本が滑り落ちた。
「あ」
近くにいた男が拾う。
本というより、今にも崩れそうな紙束に近かった。
表紙は擦れて元の色も分からない。角は潰れ、雨に濡れて乾いたのか、紙は大きく波打っている。背を留めていた糸も途中から別のものへ替えられ、何度か補修された跡があった。
「童師、落としましたよ」
礼が振り返る。
男の手にあるものを見て、足を止めた。
「……ああ」
受け取る。
「ずいぶん古いですね」
「古いからな」
「何の本です?」
「本じゃない」
礼は表紙についた雪を手で払った。
「昔使っていたノートだ」
「童術の?」
「ああ」
その答えに、周囲にいた何人かが反応した。
「それ、すごい物じゃないですか?」
「何がだ」
「童師が昔使ってた童術の研究ノートでしょう?」
「そうだな」
「見てもいいです?」
「駄目だ」
即答だった。
「ですよね」
男は苦笑する。
礼はノートを革袋へ戻そうとした。
「今も使ってるんですか?」
その手が止まる。
礼はしばらく古びた表紙を見ていた。
「いや」
短く答え、革袋の奥へしまった。
それ以上、その話をする者はいなかった。
やがて、一人、また一人と眠りについた。
見張りに立つ者を除けば、焚き火の周囲から話し声も消えている。
礼は少し離れた木の根元に座っていた。
雲の切れ間から月が覗いている。
吐いた息が白くなる。
静かな夜だった。
遠くで風が鳴っている。
礼は目を閉じた。
その時だった。
何かが、触れた。
礼の眉がわずかに動く。
胸の奥へ、微かな熱が流れ込んできた。
童力。
自分のものではない。
けれど、知らない感覚でもなかった。
礼は目を開けた。
森を見る。
何もいない。
眠っている仲間たちの童力とも違う。
遠い。
どこから来たのかも分からないほど、遠い。
それでも確かに、今、何かが礼の中へ入ってきた。
「…………」
礼は胸元へ手を当てる。
微かな童力は、すでに自分の内側にある膨大な力へ混ざり始めていた。
だが、完全に溶ける直前まで、僅かな違いが残っている。
知らない。
会ったことがない。
それでも礼には、それが何なのか分かった。
「……またか」
小さく呟く。
眠っていた誰かが寝返りを打った。
礼はそちらを見る。
起きた者はいない。
再び胸の内へ意識を向ける。
もう、新しく流れ込んだ童力と自分の童力を切り分けることは難しくなっていた。
礼はしばらく動かなかった。
やがて手を下ろす。
革袋は、すぐそばに置かれている。
その中には、古いノートがある。
礼はそれを手に取らなかった。
焚き火へ視線を戻す。
薪が崩れ、火の粉が夜の中へ舞った。
翌朝。
空が白み始めるより先に、一行は野営地を片付けていた。
雪へ水をかけて焚き火を完全に消し、残った食料と装備を分配する。
「童師」
地図を広げていた男が礼を呼んだ。
「この後は?」
「北へ行く」
「北?」
「ああ」
男は地図を見る。
「この先、山ですよ。その向こうに小さな村がいくつかあるくらいで……大きな街はありません」
「それでいい」
「補給は?」
「途中でする」
「また追手が来たら?」
「その時に考える」
男は少し困った顔をした。
「……北に、何かあるんですか?」
礼は地図へ目を落とした。
北方。
王都から遠く離れ、主要な街道からも外れた土地。
山と森に囲まれた、冬の長い地方。
「いや」
礼は地図を畳んだ。
「何もない」
「何もないところへ行くんですか?」
「ああ」
礼は荷物を背負う。
他の童術師たちも準備を終え、立ち上がっていた。
「行くぞ」
誰も異を唱えなかった。
雪を踏む音が一つ、また一つと続いていく。
十四人の童術師たちは森を抜け、北へ向かって歩き始めた。
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