第八十二話 七年後
――王都緊急会議から、四年後。
轟音が雪原を揺らした。
爆ぜた炎が積もった雪を土ごと巻き上げ、白かった大地に黒い穴を穿つ。熱風に煽られた雪煙が視界を覆い、その向こうで兵士たちの怒号が幾重にも重なった。
「右翼、回り込め! 森へ逃がすな!」
「魔術師隊は前へ! 第二陣、詠唱開始!」
「童術師を一人も通すな!」
号令を受け、数十人の兵士が一斉に雪を蹴った。
槍を構えた兵士たちが横一列に広がり、その後方では杖を掲げた魔術師たちが詠唱を始めている。杖の先に赤や青の光が灯り、空気中の魔力が急速に一点へ集まっていった。
そのさらに後方には、まだ数え切れないほどの兵影があった。
対する者は、わずか十数人。
その大半が傷を負っていた。
「くそ……!」
若い男が膝をついた。左肩から流れた血が外套を濡らし、そのまま雪へ赤い染みを作っていく。
「立てるか!」
「無理だ、脚もやられてる!」
「担げ! 森まで行けば――」
「間に合わない!」
別の男が叫んだ直後、頭上を炎弾が通過した。
着弾。
爆風に煽られ、数人の身体が雪の上へ投げ出される。
追撃する兵士たちの足音が迫っていた。
「来るぞ!」
剣を抜いた男が立ち上がろうとする。
だが、その肩を誰かの手が押さえた。
「下がっていろ」
低い声だった。
「でも――」
「聞こえなかったか」
男はそれ以上何も言わなかった。
黒い外套を纏った一人の男が、彼らの前へ歩み出したからだ。
年齢は二十代の後半ほどに見える。雪に濡れた黒髪は肩には届かない程度に伸び、風に乱されていた。かつて少年の面影を残していた顔には薄く無精髭が浮かび、頬から顎へ続く線も以前よりずっと鋭い。外套の下に見える身体は厚く鍛えられ、使い込まれた革の装備には、修繕された跡がいくつも残っていた。
華美な鎧はない。
紋章もない。
腰に剣さえ提げていなかった。
男は追ってくる兵士たちを見た。
それだけだった。
「止まれ!」
先頭の兵士が叫ぶ。
男は足を止めた。
「両手を見せろ! 抵抗するな!」
言われた通り、男は両手をわずかに広げた。
何も持っていない。
「武器を捨てろ!」
その言葉に、男の視線が自分の腰へ落ちた。
「武器?」
兵士の顔が引きつる。
男は空の右手を見てから、もう一度兵士へ目を向けた。
「持っていないが」
「ふざけるな!」
兵士が槍を構え直す。
「童術師だろう! 抵抗するなら――」
最後まで言わせるつもりはなかったらしい。
男が右手を下ろした。
その掌に淡い光が集まった。
何もなかった空間に細い輪郭が生まれ、次の瞬間には、一振りの剣が握られている。
兵士たちの足が止まった。
「……今、どこから……」
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
男の姿が消えた。
否。
そう見えただけだった。
雪が爆ぜる。
第一童式《童駆》。
男は一瞬で先頭の兵士との間合いを潰すと、振り下ろされた槍を身体のわずかな捻りだけで避けた。剣を一閃する。
兵士が目を閉じた。
だが、痛みはなかった。
「……え?」
手にしていた槍の穂先だけが、雪へ落ちていた。
「退け」
男はそれだけ告げた。
兵士が後ずさる。
その横から、別の兵士が斬りかかった。
「うおおおおっ!」
剣が男の肩を捉える。
金属音が響いた。
兵士の目が見開かれた。
刃は確かに男へ届いている。それなのに、肉どころか外套さえ斬れていなかった。
身体を覆う、薄い童力。
第三童式《童衣》。
「な――」
男が剣を振った。
第四童式《童閃》。
童力を纏った刃が、相手の剣を半ばから断ち切る。
「武器を失った。下がれ」
兵士は呆然と男を見た。
「次は斬る」
脅しではなかった。
声にも表情にも、怒りはない。
だからこそ兵士は、折れた剣を捨てて後退した。
「怯むな! 相手は一人だ!」
後方から指揮官の怒声が飛ぶ。
兵士たちが左右へ散開した。
十人。
二十人。
さらに後ろから増援が続く。
男は一度だけ息を吐いた。
「……そうか」
再び雪が弾けた。
《童駆》によって加速した身体が兵士たちの間を走り抜ける。
一人目の槍を断つ。
二人目の盾を蹴り飛ばす。
三人目の胸甲へ拳を当てる。
第二童式《童撃》。
爆発的な衝撃を受けた兵士が雪の上を転がった。しかし胸甲は大きく陥没しているものの、男は倒れた相手を追わない。
次。
剣。
槍。
盾。
魔術。
迫るものだけを処理し、戦意を失った者には触れない。
十数人を抜いたところで、男の目が止まった。
後方。
先ほど肩を負傷していた童術師へ、一人の兵士が迫っている。
「待て」
低い声が飛んだ。
兵士は振り返らない。
負傷者へ剣を振り上げた。
男の姿が消える。
次の瞬間、兵士の身体が止まった。
「……が……」
胸から剣先が突き出していた。
背後に立った男が剣を引き抜くと、兵士はそのまま雪の上へ崩れ落ちた。
血が白い雪を染めていく。
男は死体を見下ろさなかった。
「傷を見せろ」
「え……」
「肩だ」
「あ、はい……」
負傷した童術師が慌てて外套をずらす。
男は傷口へ手を添えた。
柔らかな童力が流れ込んだ。
第六童式《童癒》。
完全に傷が消えたわけではない。それでも止まらなかった血が収まり、苦痛に歪んでいた男の表情がわずかに緩んだ。
「動かせるか」
「……はい」
「なら下がれ。無理に戦うな」
「でも、童師――」
「下がれ」
「……はい」
男が立ち上がる。
その間にも、敵軍は陣形を組み直していた。
正面に重装歩兵。
その後ろには弓兵。
さらに後方では、二十人を超える魔術師が一斉に杖を掲げている。
「一斉射撃用意!」
無数の矢が番えられた。
魔力の光が雪原を照らす。
「撃て!」
矢が空を埋めた。
同時に火炎、氷槍、風刃が放たれる。
男は避けなかった。
剣を持ったまま、その場に立っている。
「童師!」
後方から悲鳴に近い声が上がった。
男の周囲に童力が集まった。
一本。
二本。
五本。
十本。
空中へ次々と盾が顕現する。
重なり合った盾が壁となり、降り注ぐ矢を弾き飛ばした。炎がぶつかり、爆発が起きる。氷槍が砕け、風刃が盾の表面を削った。
だが、壁は崩れない。
「第七……!」
後方の童術師の一人が息を呑む。
第七童式《万装顕現》。
かつて一本の剣を生み出すところから始まった童式。
男が右手を横へ払う。
盾が散った。
その隙間から無数の槍が飛び出し、兵士たちの足元へ突き刺さる。
雪原に槍の壁が生まれた。
「進むな」
男が告げる。
「ここまでにしろ」
「ふざけるな!」
敵軍の指揮官が怒鳴った。
「たった一人に何ができる!」
男は答えなかった。
「全軍、前進!」
重装歩兵が動く。
魔術師たちは再び詠唱へ入った。
男の後方には負傷者がいる。
さらに遠く、森を抜けた先には小さな集落があった。
男はそちらを一度だけ見た。
それから、自分へ向かってくる軍勢を見る。
「……この範囲なら問題ないか」
剣が消えた。
男は空いた右手を下ろした。
掌を雪原へ向ける。
静かだった。
ほんの一瞬だけ、戦場から音が消えたように感じられた。
「第八童式」
後方にいた童術師たちが、息を呑んだ。
敵兵には、その意味が分からない。
だが、童術を知る者だけは違った。
第一から第七。
それより先の番号。
男の足元から、童力が広がった。
「《童天創界》」
世界が変わった。
雪は雪のまま。
空も空のまま。
森も、大地も、そこにいる人間も、何一つ姿を変えていない。
それでも、その場にいた全員が感じた。
何かが違う。
「な、なんだ……?」
魔術師の一人が杖を握り直す。
「魔力が……」
「違う! 魔力じゃない!」
空気中を満たしていく異質な力。
地面にも。
雪にも。
空にも。
まるで戦場そのものが、一人の男の身体の延長になったかのようだった。
一方、後方の童術師たちは違う反応を見せた。
「……軽い」
一人が呟いた。
童力が、異常なほど滑らかに流れる。
負傷によって乱れていた《童衣》が安定する。呼吸をするだけで童力が全身へ巡り、普段なら集中しなければ維持できない術式が、まるで最初からそこに存在していたかのように身体へ馴染んだ。
「これが……第八……?」
男は答えない。
敵軍を見ていた。
「魔術師隊、放て!」
巨大な炎が生まれる。
二十人以上の魔術師が構築した火炎魔術。
赤い光が膨張し、雪原を朱色に染め上げる。
「焼き払え!」
炎が放たれた。
男は右手を上げる。
「第七童式」
童力が集まる。
「《万装顕現》」
最初に現れたのは、巨大な影だった。
雪原が沈む。
重量を受けた雪が押し潰され、左右へ弾け飛んだ。
「……なんだ?」
敵兵の一人が呟いた。
影に輪郭が与えられていく。
幅広い履帯。
厚い装甲。
巨大な砲塔。
そして、長大な砲身。
誰一人として、その名を知らない。
男を除いて。
戦車。
顕現した鋼鉄の巨体が砲身を持ち上げる。
放たれた炎へ向けて。
轟音。
砲撃が炎の中心を貫いた。
衝撃と爆炎が空中でぶつかり、巨大な火球が膨れ上がった。熱風が雪原を走り、兵士たちが腕で顔を覆う。
「な……」
指揮官が言葉を失う。
それだけではなかった。
二両目。
三両目。
男の周囲で童力が渦巻くたび、鋼鉄の巨体が雪原へ姿を現していく。
「召喚……?」
「違う! 生物じゃない!」
「ゴーレムか!?」
「こんなゴーレムがあるか!」
混乱する兵士たちの声を、さらに大きな音が呑み込んだ。
空からだった。
全員が見上げる。
童力が空中で巨大な輪郭を作っている。
翼。
胴体。
尾翼。
人間が空を飛ぶために作り上げた、異世界には存在しない形。
低い唸りが轟音へ変わる。
「鳥……?」
「違う……」
一機。
続いて二機。
鋭い翼を持った機体が、雪原の上空を高速で通過した。
あまりの音に馬が暴れ、兵士たちが耳を塞ぐ。
指揮官は空を見上げたまま動かなかった。
「なんなんだ……」
戦車の砲塔が回る。
上空では戦闘機が旋回する。
その間にも男の周囲には剣、槍、盾が次々と顕現し、静かに宙へ浮かんでいく。
兵器。
武器。
空。
大地。
すべてを満たす童力。
それらの中心に、一人の男が立っていた。
「一人……」
指揮官の唇が震えた。
「一人で、軍を……」
男は右手を上げた。
戦車の砲身が一斉に動く。
「最後に聞く」
低い声は、轟音の止んだ雪原によく響いた。
「退くか」
指揮官は男を睨みつけた。
唇を噛む。
その背後には、まだ数百人の兵士がいる。
数だけなら圧倒的だった。
だが、誰も前へ出ようとしない。
彼らの知る戦争の形が、目の前で崩れていた。
「……全軍」
指揮官が拳を握る。
男は待った。
「武器を捨てろ」
剣が雪へ落ちた。
続いて槍が落ちる。
盾が落ちる。
一人、また一人と武器を手放していく。
男はしばらくその様子を見ていた。
やがて右手を下ろす。
戦車が光の粒となった。
空を旋回していた戦闘機も輪郭を失い、青白い童力へ戻って空へ溶けていく。
無数の武器が消えた。
雪原を満たしていた圧迫感も薄れていった。
《童天創界》が解除される。
再び、ただの冬の風が吹いた。
敵兵の一人が、信じられないような顔で男を見る。
「……殺さないのか」
男は振り返った。
「もう戦う必要がない」
「だが、俺たちは……」
「負傷者がいる」
男の視線が、雪の上に倒れている兵士たちへ向いた。
「連れて帰れ」
それだけ言って、背を向ける。
「待て!」
指揮官が呼び止めた。
男が足を止める。
「貴様は……何者だ」
冬の風が黒い外套を揺らした。
男は少しだけ振り返った。
だが、答えなかった。
「童師!」
後方から声が飛ぶ。
先ほど治療を受けた男だった。
「全員、動けます!」
「そうか」
男は敵軍から視線を外した。
「なら行くぞ」
それだけだった。
十数人の童術師たちが彼の後へ続く。
誰も追わなかった。
追える者もいなかった。
雪原には無数の足跡と、砕かれた武器、戦いの跡だけが残されていた。
その中を、黒い外套の男は振り返ることなく歩いていった。
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