第七十九話 還るもの
「離してください」
ニルの声は、思っていたよりも静かだった。
怒鳴ったわけではない。掴まれた腕を見下ろし、それから目の前の聖騎士を見上げて、もう一度「離してください」と繰り返しただけだった。
騎士も、ニルを痛めつけようとしているわけではないらしい。腕を捻り上げてもいなければ、剣に手をかけてもいない。ただ、出口へ向かおうとした青年を行かせまいと、肘の少し上を掴んでいる。
「申し訳ありません。現在、退去は認められていません」
「明日また来ます」
「今はお戻りください」
「だから……明日また来るって言ってるじゃないですか」
ニルが腕を引いた。
騎士の手は離れない。
その様子を、訓練場に残っていた全員が見ていた。
食事の途中だった者も、壁際で横になっていた者も、いつの間にか会話をやめている。木の匙が器に触れる小さな音まで聞こえそうなほど、場が静まり返っていた。
その静けさが、礼には嫌だった。
「ニル」
リオが立ち上がった。
「一回戻ろう」
「嫌です」
今度の返事は早かった。
ニルは振り返らない。
「俺、全部答えました。誰から教わったかも、何ができるかも。何もできないってことも」
「分かってる」
「童貞かどうかまで答えました」
誰も笑わなかった。
いつもなら、誰かが何か言ったかもしれない。
だが今は、その言葉さえ自分たちを分類するための項目に聞こえた。
「それでも帰れないんですか」
騎士は答えなかった。
「俺、まだ童術師ですらないんですよ」
「ニル」
「昨日一回、身体の中が熱くなっただけなんです。それだけで、いつ帰れるかも分からないんですか」
声が少しずつ震えていく。
怒っているのか、怖いのか。
おそらく本人にも分かっていない。
ニルはもう一度、掴まれた腕を引いた。
「離してください」
「お戻りください」
「離せよ」
強く引く。
騎士の身体がわずかに前へ崩れた。
その瞬間、近くにいた別の聖騎士が一歩踏み出した。
「抵抗しないでください」
「抵抗じゃない!」
ニルの声が跳ね上がる。
「帰りたいだけだ!」
「ニル!」
ハインが動いた。
ニルへ近づこうとしたその前へ、別の騎士が身体を入れる。
「下がってください」
「そいつは俺が教えてるんだ。俺が話す」
「下がってください」
「話すだけだって!」
ハインが横へ抜けようとする。
騎士も同じ方向へ動いた。
肩と肩がぶつかった。
鈍い音がした。
たったそれだけだった。
それなのに、周囲の空気が一段張り詰めた。
「おい」
低い声がした。
バルトだった。
長椅子から立ち上がり、ハインと騎士を見ている。
「何してんだよ」
「バルト、待て」
ノアがすぐに腕を伸ばした。
「見てるだけだ」
「だったらそこで見てろ」
「分かってるよ」
バルトは動かなかった。
だが、一人が立てば、周りも動く。
テオが腰を浮かせ、ディンがその横で立ち上がる。誰かが「どうした」と尋ね、別の誰かが出口の方を見ようとして身体をずらした。
聖騎士たちも反応した。
壁際に立っていた者たちが、訓練場の中央へ向けて一歩、二歩と距離を詰める。
それを見て、今度は童術師たちの側がざわめいた。
「囲むなよ」
「全員、その場から動かないでください!」
「動いてんのそっちだろ!」
「待って!」
礼は声を張った。
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「誰も童術は使わない! みんな動かないで!」
何人かが礼を見る。
それで少しだけ、空気が止まった。
「騎士の人たちも、離れてください。誰も逃げないから」
「礼」
リオが小さく呼んだ。
礼は頷く。
まだ大丈夫だ。
誰も殴っていない。
誰も剣を抜いていない。
童術も使っていない。
話せる。
まだ、戻せる。
「ニル」
リオがゆっくり近づいた。
「一回、腕の力抜け」
「でも」
「分かってる。帰りたいんだろ」
「……はい」
「その話は俺も一緒にするから」
ニルの肩から、わずかに力が抜けた。
リオが騎士を見る。
「すみません。こいつ、逃げるつもりじゃないんです」
「しかし――」
「俺が連れて戻ります。だから、一回離してもらえませんか」
騎士は迷った。
ニルを見る。
リオを見る。
周囲を見る。
そこには二十人を超える童術師がいる。
王都から聞かされていた。
魔力とは異なる力を使う者たち。
身体能力を高め、人を殴り、武器を強化し、巨大な魔物すら倒す力を放つ者たち。
そのうち何人が、今、自分を見ているのか。
騎士の喉が動いた。
「……分かりました」
指が緩む。
ニルの腕が解放された。
「ほら」
リオが手招きする。
「戻ろう」
「……はい」
ニルが一歩、リオの方へ進んだ。
そこで終わっていればよかった。
「離せ!」
別の場所で声が上がった。
全員の視線がそちらへ向く。
ハインだった。
先ほど前へ出た騎士が、今度はハインの胸元を押さえていた。
「ニルのところに行くだけだ!」
「その場に戻ってください!」
「もう離しただろ!」
「指示があるまで――」
「だから話すだけだって言ってんだろ!」
ハインが騎士の手を払い落とした。
騎士が反射的に腕を伸ばす。
ハインが後ろへ下がる。
踵が倒れていた長椅子に当たった。
「っ!」
転びそうになった身体を支えるため、無意識に足へ力を入れる。
薄い膜のような童力が、ハインの身体を覆った。
「――童術!」
聖騎士の誰かが叫んだ。
「違う!」
礼が叫び返す。
「《童衣》だ! 攻撃じゃない!」
「童術の使用をやめてください!」
「ハイン、切れ!」
「分かってる!」
ハイン自身も青ざめていた。
すぐに童力を散らす。
「今のは違う! 転びそうになっただけだ!」
だが、もう遅かった。
聖騎士たちの視線が変わっていた。
腰の剣へ手を伸ばす者がいる。
「剣に触るな!」
鋭い声が訓練場を貫いた。
ヴァルターだった。
奥の部屋から駆けてくる。
「誰も抜剣するな! 全員、距離を取れ!」
「対象者が童術を使用しました!」
「見ていた! 攻撃ではない!」
その後ろからエドガーも現れた。
「聖騎士団、現状維持! 対象者への接触を中止してください!」
命令は聞こえている。
それでも、誰もすぐには動けなかった。
騎士たちは童術師を見ている。
童術師たちは騎士の手元を見ている。
誰かが少し動くたびに、反対側の誰かが身構えた。
「座ろう」
リオが言った。
大声ではなかった。
「みんな、一回座ろう」
「でもよ」
「バルト」
「……分かったよ」
バルトが両手を上げた。
「ほら。何もしねえ」
そのままゆっくり腰を下ろす。
ノアも続いた。
「ディン」
「分かってる」
一人。
また一人。
張り詰めた空気が、ほんの少しずつ緩んでいく。
礼は息を吐いた。
止められる。
まだ止められる。
そう思ったとき。
訓練場の端で、甲高い音が響いた。
金属製の器が床へ落ちて転がっていた。
誰かが蹴っただけだった。
だが、静まりかけた空間では、その音はあまりにも大きかった。
一人の聖騎士が振り向いた。
その肩が、隣の騎士へぶつかる。
「うわっ」
押された騎士が一歩踏み出し、立ち上がりかけていたテオと正面からぶつかった。
「っ!」
「下がれ!」
騎士がテオの肩を掴む。
「触るな!」
テオが反射的に払いのけた。
「待って、テオ!」
礼が叫ぶ。
テオ自身もすぐに気づいた。
「違う、今のは――」
だが、身体は頭より早かった。
恐怖。
肩を掴まれた感触。
以前、人を傷つけたときと同じ、瞬間的な防衛反応。
拳へ童力が集まった。
淡い光が灯る。
「――攻撃術式!」
「違う!」
テオの顔から血の気が引いた。
「使わない! 使わないから!」
慌てて童力を散らす。
そのときにはもう、金属音が響いていた。
一人の聖騎士が剣を抜いていた。
「しまえ!」
ヴァルターが怒鳴った。
「今すぐ剣をしまえ!」
「ですが――」
「命令だ!」
騎士は剣を握ったまま、テオを見ている。
その顔は兜に隠れていた。
けれど、切っ先が震えているのを礼は見た。
怖いのだ。
騎士も。
何をするか分からない未知の力を持った二十人以上の人間に囲まれ、たった今、その一人の拳に力が集まった。
その恐怖が、礼にも分かってしまった。
「大丈夫です」
礼は両手を上げた。
「誰も攻撃しない」
騎士を見る。
「だから、剣を下ろしてください」
「…………」
「お願いします」
剣先が、少し下がった。
その瞬間。
「押すな!」
後方から怒声が響いた。
何が起きたのか、礼には見えなかった。
人が重なっている。
白い鎧。
冒険者の服。
長椅子。
机。
誰かがよろめき、別の誰かへぶつかった。
「待て!」
「下がれ!」
「押してない!」
「誰だ今――」
鈍い音がした。
一人の聖騎士が床へ倒れた。
兜が外れる。
額を床へ打ったらしい。
石床へ赤いものが落ちた。
「騎士が負傷!」
その一言で、空気が弾けた。
「違う! 誰も殴ってない!」
「防御陣形!」
「待て!」
盾が上がる。
ヴァルターの声が飛ぶ。
「陣形を組むな!」
「抜剣!」
「抜くな!」
「対象者を壁際へ!」
「そんな命令は出していない!」
エドガーが叫んでいた。
いつもの静かな声ではなかった。
「聖騎士団! 剣を収めろ! これは命令です!」
だが、一度にいくつもの声が飛び交っていた。
誰の命令なのか。
誰に向けた声なのか。
もう分からない。
盾に押され、童術師たちが後ろへ下がる。
「押すな!」
「下がってください!」
「後ろに人がいるんだよ!」
「童術を使うな!」
「使ってねえよ!」
誰かが転んだ。
悲鳴が上がった。
それを助けようとした者が前へ出る。
騎士が止める。
肩を掴まれた者が振りほどく。
別の騎士がそれを攻撃だと思って剣を構える。
その剣を見て、また別の童術師の身体に童力が走る。
「やめろ!」
礼は叫び続けた。
「みんな、使うな! 童術を使うな!」
喉が痛い。
声が届かない。
「バルト!」
「使ってねえ!」
「ノア!」
「こっちは大丈夫!」
「ディン!」
「分かってる!」
視界の端で、マルクが倒れた長椅子を押し退けている。
エルンは壁際で身を縮めていた。
テオは自分の拳を胸へ押しつけ、二度と童力が集まらないよう必死に呼吸している。
レントは両手を上げたまま、騎士と童術師の間に立っていた。
「剣を下げてくれ! こっちも使わない!」
「そこを退け!」
「退いたら後ろに剣向けるだろ!」
全員が、自分なりに止めようとしていた。
だから余計に、誰も全体を止められなかった。
「礼!」
リオの声がした。
人の向こうにいる。
「出口の方!」
礼が見る。
ニルだった。
先ほど腕を掴まれた場所から、ほとんど動けずにいる。
盾を構えた騎士が前にいる。
背後では人が押し合っている。
ニルはその間で、完全に取り残されていた。
「ニル!」
リオが人の間を抜ける。
「リオ、待って!」
「あいつをこっちに連れてくる!」
「俺も――」
誰かが礼の前へよろめいた。
支える。
ほんの数秒。
それだけで、リオは遠くなった。
「ニル!」
リオが両手を上げたまま近づく。
「こっち来い!」
「リオさん……」
「大丈夫だから」
「動くな!」
盾の向こうから騎士が叫ぶ。
「それ以上近づくな!」
「童術は使ってない!」
リオは足を止めない。
「こいつを連れて戻るだけだ!」
「止まれ!」
「ニル、俺だけ見ろ!」
ニルがリオを見る。
顔が真っ青だった。
「俺、帰りたかっただけなのに……」
「分かってる」
「こんなことになるなんて」
「分かってるよ」
リオが手を伸ばした。
「だから来い」
ニルも手を伸ばす。
その背後で、大きな音がした。
盾同士がぶつかった。
騎士が一瞬そちらを見る。
誰かが「童術だ!」と叫んだ。
別の誰かが「違う!」と叫び返す。
ニルがびくりと身体を震わせた。
反射的に走った。
「止まれ!」
目の前の騎士が叫ぶ。
ニルには届いていない。
リオしか見えていない。
騎士が一歩前へ出る。
ニルが迫る。
騎士の手は盾から離れた。
腰の剣へ。
「抜くな!」
誰かが叫んだ。
剣が抜かれる。
「やめろ!」
礼は走った。
間に合わない。
騎士の顔が見えた。
若かった。
目を見開いていた。
怒っている顔ではなかった。
怯えていた。
ニルが来る。
剣を持った手が動く。
止めようとしたのか。
突き放そうとしたのか。
礼には分からなかった。
「ニル!」
リオが飛び込んだ。
ニルの肩を掴む。
横へ突き飛ばす。
そして。
その場所に、リオの身体が残った。
音は、ほとんどしなかった。
あれほど騒がしかったはずなのに。
礼には、何も聞こえなかった。
白い鎧。
リオの背中。
その二つが重なって見える。
「…………え」
騎士の手から、剣が離れた。
床へ落ちる。
乾いた金属音。
それだけが、妙にはっきり聞こえた。
「違……」
騎士の唇が震えていた。
「俺は……止めようと……」
リオの身体が傾いた。
「リオ!」
礼は走った。
膝が床へ当たる痛みも感じなかった。
倒れる身体を抱き止める。
「リオ!」
「……礼」
声が出た。
それだけで、まだ大丈夫だと思った。
「喋るな」
傷を見る。
剣は身体に残っている。
血が滲んでいる。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか分からない。
「大丈夫だから」
手を当てる。
「第六童式――《童癒》」
童力を流す。
傷口の内側へ。
血管。
筋肉。
臓器。
どこが壊れている。
分からない。
なら全部。
「治れ」
童力を流す。
出血を止める。
傷を閉じる。
「治れ……」
血が止まらない。
もっと。
童力を注ぐ。
「礼」
「喋るなって」
「…………」
「あとで聞くから」
リオの手が、礼の腕に触れた。
弱い。
「帰ってから聞く」
礼は傷口しか見なかった。
「だから今は黙ってろ」
童力を流す。
もっと。
足りないなら、もっと。
「治れ」
返事がない。
「……リオ?」
手が落ちた。
礼の腕を掴んでいた指が、床へ滑る。
「おい」
童力を流す。
「リオ」
何も返ってこない。
「やめろよ」
さらに流す。
「治れって」
身体はそこにある。
温かい。
さっきまで喋っていた。
少し前までパンを食べていた。
礼に、食えと言っていた。
「リオ」
胸へ手を当てる。
自分の鼓動がうるさい。
分からない。
「誰か」
礼は顔を上げた。
「誰か来て」
周囲に人はいた。
たくさんいた。
童術師も。
聖騎士も。
ヴァルターも。
エドガーも。
誰も動かなかった。
「治せる人……」
言ってから分かった。
いない。
ここで一番《童癒》を扱えるのは、自分だ。
「……治れ」
もう一度、手を当てた。
「頼むから」
童力を流す。
「治れよ」
何も起こらない。
「リオ」
そのときだった。
何かが、指先へ触れた。
「……?」
傷口ではない。
リオの身体そのものから。
微かな童力が滲み出している。
「リオ?」
礼には分かった。
何年も知っている。
自分より細やかで、静かで、無駄のない流れ。
リオの童力。
「……何してんだよ」
それが身体から離れていく。
「待って」
礼は両手でリオを抱く。
「待てって」
散っているのではない。
消えているのでもない。
流れている。
一つの方向へ。
礼へ。
「……え?」
胸の奥に、何かが入った。
次いで腕。
腹。
全身。
「やめろ」
礼は自分の胸を掴んだ。
「何だよ、これ」
止まらない。
リオの童力が、自分の中へ流れ込んでくる。
「やめろよ」
押し返そうとする。
自分の童力を逆へ流す。
リオへ戻そうとする。
戻らない。
「……返せ」
もう一度。
「返せよ」
リオの胸へ手を当てる。
童力を押し込む。
それでも戻らない。
むしろ残っていたものまで、礼の内側へ流れ込んでくる。
「いらない」
首を振る。
「こんなもの、俺はいらない」
知っている童力だった。
だから、間違えようがなかった。
何年も隣にあった。
初めて教えた日から。
初めて一緒に戦った日から。
何度も失敗して。
何度もノートを広げて。
分からないことを、一緒に考えた。
その童力が。
今はもう、礼の中にしかない。
「返せ……」
声が震えた。
リオの身体を抱き寄せる。
「お前のだろ……」
返事はなかった。
「俺のじゃないだろ……」
童力だけが巡っている。
昨日までよりも、ずっと大きな力が。
礼の身体を満たしていく。
欲しかったはずの力。
もっと強くなりたいと、何度も願った。
守れるようになりたいと願った。
なのに。
「こんなの……」
礼はもう一度、リオへ童力を戻そうとした。
戻らない。
「いらないから……」
何度やっても。
「お願いだから……」
何度やっても。
「返せよ……」
リオの肩へ顔を伏せる。
「リオに……」
声が崩れた。
「リオに返せ……!」
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